Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ヴァイグレ/読響

2022年09月26日 | 音楽
 ヴァイグレ指揮読響の日曜マチネーコンサート。1曲目はグリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲。演奏会のオープニングによく演奏される曲だが、そんなときによく聴くパッと派手に盛り上げる演奏ではなくて(あるいは最短記録を競うような猛スピードの演奏ではなくて)、オペラが始まることを予感させる、いかにも序曲らしい演奏だ。ヴァイグレはやはりオペラ指揮者なのだと。

 2曲目はラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」。ピアノ独奏はパヴェル・コレスニコフPavel Kolesnikov。未知のピアニストだ。プロフィールに生年の記載がなかったので、Wikipediaを見ると、1989年にロシアのノヴォシビルスクで生まれたそうだ。現在はロンドン在住とのこと。

 ステージマナーもどことなく内向的だが、演奏も派手なヴィルトゥオーゾ・タイプではなく、弱音にじっと耳を澄ませるようなところがある。その音がじつにみずみずしい。激しく打鍵する箇所もあるが、そんなときでも威圧感はなかった。

 アンコールが演奏された。孤独を見つめるような曲だ。だれの曲だろう。招聘元(?)のKAJIMOTOのツイッターによると、ルイ・クープランの「ボーアンの手書き譜からの舞曲集」よりサラバンド イ短調とのこと。ショパンのようでもあるが、ショパンではなさそうだし、と思っていた。クープランとは思い当たらなかった。

 ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」に戻るが、オーケストラの演奏にも惹かれた。目まぐるしく変わるオーケストラの動きが鮮明に聴こえた。実感的には、各楽員がなんとなく演奏しているのではなく、それぞれの役割を他のパートとの絡みで明確に意識して演奏しているように感じられた。加えてヴァイグレが各変奏曲を数曲ずつのまとまりで把握し、そのまとまりに流れをつけていることが感じられた。

 3曲目はリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」。豪華絢爛たる絵巻物とかなんとか、そんなショーピースとしての演奏ではなく、筋の通ったドラマを追うような演奏だ。なるほどこれは名曲だと納得した。この曲でそんなことを思った経験はあまりない。ということは、巷間溢れる演奏は安易な演奏なのだろうか。

 コンサートマスターは林悠介が務めた。たとえば第4楽章冒頭のヴァイオリン・ソロが暗く曇った音色で、口籠るように演奏され、同楽章の最後のソロが晴れやかな音色で、のびのびと演奏されるなど、(その対比はだれもがやることだが、ヴァイグレのドラマトゥルギーと相俟って)説得力のあるソロを聴かせた。
(2022.9.25.東京芸術劇場)
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ヴァイグレ/読響

2022年09月21日 | 音楽
 ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会。メインの曲目はブラームスの「ドイツ・レクイエム」だが、その前にダニエル・シュニーダーの「聖ヨハネの黙示録」が演奏された。

 ダニエル・シュニーダーDaniel Schnyder(1961‐)はチューリヒ生まれで、現在はニューヨークを拠点とする作曲家兼サクソフォン奏者だ。澤谷夏樹氏のプログラムノートによれば、「作品の幅は実に広い。室内楽からオペラまで300曲ほどが作品リストに並ぶ。なかには中国、アラブ、アフリカの民俗的な素材を用いたもの、バロック音楽やジャズを下敷きにしたものも」ある。

 「聖ヨハネの黙示録」は2000年にアメリカのミルウォーキー交響楽団の委嘱により作曲された。演奏時間約30分のオラトリオだ。黙示録というと、フランツ・シュミット(1874‐1939)の「七つの封印の書」を思い出すが、それとくらべると、シュニーダーのこの曲は、ストーリー展開がスピーディーで、音楽も聴きやすい。澤谷夏樹氏のプログラムノートにあるように、最後の救済の場面では「ルンバ調」の音楽になる。

 ソプラノ独唱とバリトン独唱、そして合唱が入る(「ドイツ・レクイエム」と同じ編成だ)。ソプラノはファン・スミSumi Hwang。スリムな体形で声もスリムだが、(とくに「ドイツ・レクイエム」で感じたのだが)高音が強くよく伸びる。バリトンは大西宇宙。立派な声だ。合唱は新国立劇場合唱団(合唱指揮は冨平恭平)。透明感のある合唱だ。演奏全体は、オーケストラともども、鮮明ですっきりした音像を結び、日本初演のこの曲の、わたしたち聴衆への理想的な紹介になったと思う。加えて、字幕がついたので、曲の理解に有効だった。

 次の「ドイツ・レクイエム」でも字幕がついた。そのお陰で、ブラームスが歌詞に合わせて音楽に陰影をつけていることや、細かく自然を描写していることがわかった。演奏はそれらを過剰にでもなく、また不足もなく、適度に、慎ましく表現していた。ニュアンス豊かで集中力のある演奏だ。羽毛のように柔らかい音から、ずっしりした重い音まで、多様な音が紡がれるが、その変転はスムースだ。たとえていえば、安定走行の高級車に乗っているような心地よさだ。

 ヴァイグレが読響の常任指揮者になってから3年半がたつ。だんだんヴァイグレ/読響の個性がはっきりしてきたと思う。すっきりした造形と柔らかいクッションのような響き。そして音楽的な内実に欠けない演奏。従来のドイツ系指揮者とは異なり、また現代の(互いにしのぎを削る)指揮者たちの中でもユニークな個性だ。そのようなヴァイグレ/読響が、声楽付きの大曲で本領を発揮することが、今度の「ドイツ・レクイエム」で証明されたと思う。今後の展開に期待したい。
(2022.9.20.サントリーホール)
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ショハキモフ/東響

2022年09月18日 | 音楽
 東京交響楽団の定期演奏会にアジス・ショハキモフAziz Shokhakimovという指揮者が初登場した。ウズベキスタン出身だ。プロフィールに年齢の記載はないが、動作が若々しいので、30代か40代だろう。現在フランスのストラスブール・フィルの音楽監督とテクフェン・フィル(どこのオーケストラだろう)の芸術監督を務めている。

 1曲目はドビュッシーの「管弦楽のための映像」から「イベリア」。第1曲の「通りから道から」でのアクセントの強い表現と第2曲の「夜の香り」での陶酔的な弦楽器の音色が印象的だ。全体的に個々のパートが明瞭に聴こえた。

 2曲目はアンリ・トマジ(1901‐1971)の「トランペット協奏曲」(1948)。トランペット独奏はティーネ・ティング・ヘルセット。ノルウェー出身の女性奏者だ。キラキラ光るドレスを身にまとって登場。ドレスの反射光がトランペットの反射光と一体となり、ステージの照度が一段と増すように感じられた。演奏も(その反射光と一体となって)トランペットの輝かしい音色を放射した。

 アンリ・トマジのこの曲はわたしも何度か聴いたことがあるが、ヘルセットの演奏を聴いて、なるほど(トランペットとオーケストラの)こういう照度の高い明るい音色の曲だったのかと腑に落ちる思いがした。

 ヘルセットのアンコールがあった。一転して翳りのある表情の、滑らかに歌うような曲だった。オーレ・ブルという人の「メランコリー」という曲だそうだ。アンリ・トマジの「トランペット協奏曲」の切れ味鋭い演奏とは対照的な演奏だった。

 3曲目はプロコフィエフの交響曲第5番。前半2曲の演奏でショハキモフという指揮者に好印象を持ったので、プロコフィエフのこの曲をどう振るかと注目したが、いまひとつ精彩に欠ける演奏だった。プロコフィエフはドビュッシーやトマジに引けを取らない音色の明るさを持っているはずだが、なぜかそれが出てこない。どこかくすんだ音色に終始した。

 いうまでもないが、この曲は静―動―静―動の4楽章構成をとっており、静の楽章は音色の層の重なりで聴かせ、動の楽章は畳みかけるリズムで聴かせるが、静の楽章の音色は照度が低く、また動の楽章では、リズムの躍動感はあるものの、やはり音色の点で十分には満足できず、そのためか、リズムの切れ味にも物足りなさを覚えた。

 全体の構築はしっかりしていたので、ショハキモフの手の内に入った曲のように思えた。初顔合わせのオーケストラなので、まだ呼吸が合っていなかったのだろうか。
(2022.9.17.サントリーホール)
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ファビオ・ルイージ/N響

2022年09月12日 | 音楽
 ファビオ・ルイージがN響の首席指揮者になって初めての定期演奏会。曲目はヴェルディの「レクイエム」。宗教曲ではあるが、実際には祝典的でオペラ的でもあるので、演奏が始まると、首席指揮者就任祝いの曲として違和感はなかった。

 わたしには約2年ぶりのNHKホールになるが、内装も音響もとくに変わっていなかった。あのデッドな音響はそのままだ。そこで聴くN響の音も変わらない。N響はこの約2年間、東京芸術劇場に会場を移したが、音響的には癖のある同劇場なので、最初はてこずった風もある。だが、さすがにN響だ、見る見るうちに同劇場を巧みに鳴らすようになった。ところがNHKホールに戻って、N響はふたたび同ホールを鳴らすことにてこずっているように見える。

 ファビオ・ルイージの指揮は、激情に身を任すのではなく、沈着に音楽を造形した。とくに第2部「怒りの日」の後半で、最後の「ラクリモーサ」にむけて徐々にテンポを落としていくあたりに、たいへんな凝縮力があった。全般的に首席指揮者就任のお祭り騒ぎにはせずに、じっくり音楽に向き合う点がルイージらしいところだ。

 先ほど触れたように、この曲はオペラ的といわれるが、その要因は4人の独唱者の歌唱パートにある(逆にいうと、合唱のパートは「怒りの日」を除いてオペラ的な要素はあまりない)ことがよくわかったのは、4人の独唱者が高水準だったからだろう。

 ソプラノのヒブラ・ゲルズマーワとメゾ・ソプラノのオレシア・ペトロヴァは、ともに声に伸びがあり、とくに第2部「怒りの日」のなかの「リコルダーレ」のような二重唱になると、その密度の濃さがオペラを聴いているようだった。もちろん二人が個々に歌っているときもよくて、とくにこの曲では、第6部の「ルクス・エテルナ」まではメゾ・ソプラノの比重が大きく、最後の第7部「リベラ・メ」ではソプラノが主役になるので、高度な二人の存在はきわめて大きかった。

 バスは大ベテランのヨン・グァンチョルだった。深々として、しかも滋味あふれる声だ。もちろんピークは越えているだろうが、またその声を聴けただけでも満足すべきだろう。テノールはルネ・バルベラという人で、若手の有望株らしいが、4人のなかでは印象が薄かった。

 合唱は新国立劇場合唱団(合唱指揮は冨平恭平)。第7部「リベラ・メ」の最後の部分が、リズムが浮き立つように歌われ、思わず目をみはった。その合唱はいまでも耳に残っている。団員は少しずつ間隔をあけて配置された。コロナのいまだ終息しないご時世での苦労をうかがわせた。
(2022.9.11.NHKホール)
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ラルス・フォークト追悼

2022年09月10日 | 音楽
 ドイツのピアニストのラルス・フォークトが9月5日に亡くなった。享年51歳。2021年に癌が見つかり、闘病を続けながら演奏活動をしていたそうだ。最後は自宅で家族に見守られながら息を引き取ったという。ご冥福を祈る。

 51歳というとまだ働き盛りだ。だからなのだろう、わたしも少々ショックだった。訃報に接して以来、フォークトのCDを聴き続けている。にわか仕込みのわたしにフォークトの演奏を語る資格はないかもしれないが、CDを聴いて感じたことを書いてみたい。

 わたしがフォークトの実演を聴いた経験は2度ある。いや、2度しかないというべきだろう。来日回数の多いフォークトのことだから、その演奏を何度も聴いたファンも多いだろう。わたしはわずか2度だが、それでもフォークトの演奏は記憶に残っている。

 2度ともN響の定期演奏会だった。1度目は2013年10月にロジャー・ノリントンの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を聴いた。だが、このときは、聴いたというよりも、見たといったほうがいい。なにしろ楽器の配置に驚いたからだ。舞台中央にピアノが置かれ、フォークトは聴衆に背を向けて(通常なら指揮者がいる位置で)ピアノを弾く。ピアノの先にノリントンがいて、聴衆のほうを向いて指揮をする。ピアノの左右には弦楽器とトランペットとティンパニが配置され、指揮者のほうを向いて演奏する。木管楽器とホルンは指揮者の後ろで演奏する。

 この配置で音はどう聴こえるのか。わたしはそればかりが気になって、正直、フォークトの演奏がどうだったかは覚えていない。ただアンコールに弾かれたショパンのノクターン第20番嬰ハ短調の、弱音が完璧にコントロールされた繊細な演奏には衝撃を受けた。

 2度目は2016年9月にパーヴォ・ヤルヴィの指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲第27番を聴いた。オーケストラの、終始弱音を維持して、不用意な音が鳴るのを避けるような(たとえていえば、羽毛が舞うような)演奏をバックに、フォークトは、ときに立ち止まり、音の陰影を確かめるような演奏をした。

 前述のように、この数日間フォークトのCDを聴いたが、シューベルトの「4つの即興曲」作品90 D.899に行き当たったとき、はっきりとそのときの演奏を思い出した。音楽の流れに身を任せるのではなく、音のすべてのニュアンスを吟味する演奏だ。あえて大胆にいえば、その演奏にはクララ・ハスキル、マリア・ジョアン・ピレシュにつながる要素を感じた。フォークトはそういうピアニストだったのか。いかつい風貌からは想像できない品位と内面性をもったピアニストだったのかもしれない。壊れやすく傷つきやすい内面をもっていた人だろうか。
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山田和樹/日本フィル

2022年09月04日 | 音楽
 山田和樹が指揮する日本フィルの定期。1曲目は貴志康一(1909‐1937)のヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は日本フィルのソロ・コンサートマスター田野倉雅秋。田野倉は2019年9月に間宮芳生(1929‐)のヴァイオリン協奏曲を演奏した(バックは今回と同じく山田和樹指揮日本フィル)。そのときの熱演を記憶しているのだが、それとくらべると、今回はすっきりスマートに演奏していたように思う(日本フィルも同様)。それはそれでよいのだが、今回は音の細さを感じた。前回は感じなかったので、今回の演奏スタイルのせいか。

 ところでこの曲は、小味渕彦之氏のプログラム・ノートによれば、全3楽章のうちの第1楽章が1934年3月29日にベルリンで、20世紀の音楽史にその名を残すゲオルク・クーレンカンプの独奏、貴志康一自身の指揮、映画会社ウーファのオーケストラで初演されたという(全曲の初演は1944年1月17日に大阪で、辻久子の独奏、尾高尚忠指揮大阪放送管弦楽団によって行われた)。

 当時クーレンカンプに初演をお願いすることは、20代の若者の貴志康一にはたいへんな出来事ではなかったろうか。その気負いのためか、第1楽章に横溢する和風のテイストは、わたしにはクーレンカンプを意識した(あるいはベルリンの聴衆を意識した)もののように聴こえた。

 その意識は仕方がないし、むしろ当然だと思うが、でも、いま聴くと、こういってはなんだが、そのテイストはいかにもステレオタイプで、外国人が好むような(ある意味で)珍妙なところがある。わたしは居心地の悪さを感じた。もちろんそれを否定するのではなく、歴史の一断面として捉えるべきだが。

 2曲目はウォルトン(1902‐1983)の交響曲第1番(1935)。尾高忠明がレパートリーにしているので、尾高の指揮で何度か聴いたことがある。その記憶とくらべると、山田和樹の指揮は目の覚めるような極彩色に彩られ、まったく別の曲のように聴こえた。しかも振幅が大きく、音楽の高まりと沈潜との差は、高層ビルほどの落差があった。加えて、とくに第1楽章と第2楽章では破格のエネルギーがフル回転して、恐ろしいほどだった。

 だが、第2楽章まででエネルギーを使い切ったのか、第3楽章はなんとか持ちこたえたが、第4楽章では集中力にゆるみが出た。そして最後の2組のティンパニが連打する箇所では、八方破れの爆演と(日本フィルの定期会員であるわたしも)思わざるを得ない演奏になった。日本フィルの未来を託すのは山田和樹しかいない(そうなってほしい)と思うがゆえに(※)、あえていうのだが、最後の最後まで緊張を途切れさせずに、アンサンブルをきっちり保ってほしい。
(2022.9.3.サントリーホール)

(※)山田和樹は8月末で日本フィルの正指揮者を退任したらしい。だが、いまはともかく、いつかは渡邉暁雄→小林研一郎と続く日本フィルの支柱を引き継いでほしい。(2022.9.6.追記)
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高関健/東京シティ・フィル

2022年09月03日 | 音楽
 高関健指揮東京シティ・フィルの9月の定期。曲目はエルガーのヴァイオリン協奏曲とシベリウスの交響曲第4番。渋いというか何というか、券売は難しそうだが、そのプログラムをやれるところまで東京シティ・フィルはきたのだろう。

 エルガーのヴァイオリン協奏曲の独奏者は竹澤恭子。わたしは久しぶりだが、音の太さ、音楽の熱量、スケールの大きさ、その他演奏全体が日本人離れしている。若いころからそうだったが、その竹澤恭子が健在で、しかも年齢に応じてどっしりした存在感を備えるようになった。わたしは昔からのファンだが、いまの竹澤恭子を聴き、かつ見ると、演奏家もファンも同じ時間を生きてきたのだという感慨を持つ。

 竹澤恭子が会場の聴衆を自分の土俵に引きこみ、リラックスさせ、楽しませる、その余裕あるステージマナーと演奏への自信が、当夜は感じられた。千両役者という言葉はふさわしくないだろう。そんな大仰な言葉ではなく、もっと身近な、同じ時代を生きる仲間のような存在に感じられた。

 エルガーのこの曲は大曲なので、アンコールはないだろうと思っていた。ところがオーケストラ伴奏付きで同じくエルガーの「愛の挨拶」が演奏された。サービス精神満点だ。演奏も通り一遍ではなく、緩急のメリハリをつけて、聴きごたえのあるものだった。

 余談になるが、エルガーのヴァイオリン協奏曲は、交響曲第1番と第2番のあいだに書かれた。3曲は連続して書かれたといえる。それだからというのは短絡的だが、交響曲第1番の大英帝国の栄光のような側面と、第2番のその黄昏のような感慨と、両者がヴァイオリン協奏曲に入り交じっている。とくに黄昏の要素は、第3楽章の長く引き伸ばされたカデンツァに感じられる。オーケストラも参加するそのカデンツァは、音色の点で、CDで聴くよりも実演で聴いたほうがおもしろい。

 シベリウスの交響曲第4番は、冒頭の深々とした低音に度肝を抜かれた。そこには並々ならぬ気合が感じられた。その後の短いモチーフの積み重ねが、モチーフの出現ごとに適切な音色と強度が添えられ、ニュアンスを刻々と変化させる様子に、これはたいへんな演奏だと背筋を伸ばした。その緊張感は途中で弛緩せずに最後まで続いた。

 シベリウスのこの交響曲は、シベリウスの最高傑作という人もおり、わたしもいままでいろいろな演奏を聴いてきたが、北欧のムード的なものではなく、個々のモチーフを明確な意思をもって鳴らし、それを徹底する。それらの巨大な連鎖から、だれも聴いたことがない清新な音楽が出現する。それを目撃する思いがしたのは初めてだ。
(2022.9.2.東京オペラシティ)
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