Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

MUSIC TOMORROW 2011

2011年06月29日 | 音楽
 N響のMUSIC TOMORROW 2011。今年も興味深い作品が並んだ。指揮は1977年生まれのパブロ・ヘラス・カサド。2009年8月に演奏されたシュトックハウゼンの「グルッペン」のときの3人の指揮者のうちの一人だ。あのとき中心的な位置にいて、他の2人にキューを出していたスザンナ・マルッキも、今年7月にN響を振る予定。曲目にベートーヴェンの「運命」が入っていて、びっくりだ。

 1曲目は尾高尚忠の「フルート小協奏曲」。普段聴いている「フルート協奏曲」は2管編成だが、これはその初稿で、ホルン2、ハープ、弦楽5部という小編成。そのため独奏フルート(N響の首席奏者、神田寛明さん)がオーケストラに埋もれず、大きな音で明瞭に聴こえた。第2楽章冒頭のピアノのアルペッジョは、予想どおりというか、ハープがやっていた。ハープとピアノではやはり感じがちがう。ハープは弦楽器に溶け込むが、ピアノははっきりと異質性を主張している印象だ。

 2曲目はデュティユーの「コレスポンダンス」。ベルリン・フィルの委嘱作品で、2003年にドーン・アップショウのソプラノ独唱、サイモン・ラトル指揮のベルリン・フィルによって初演された。その後も各地で再演が続いている。

 本作は6曲からなる連作歌曲集だ。テキストにはライナー・マリア・リルケとプリトウィンドラ・ムカルジーPrithwindra Mukherjee(インドからフランスに渡った人文学者・詩人)の詩句のほかに、ソルジェニーツィンがロストロポーヴィチとその妻ヴィシネフスカヤに宛てた手紙と、ゴッホが弟テオに宛てた手紙が使われている。

 これらの手紙には共通のパターンがあって、自己の存在が危機に瀕して、狂気に陥る可能性もあったが、ソルジェニーツィンの場合はロストロポーヴィチ夫妻のおかげで、ゴッホの場合は神のおかげで、そこから抜け出せたことを感謝する内容だ。

 音楽は昔のデュティユーには考えられない暗い面があった。昔の明るく、明晰で、恰好よいデュティユーではなく、なにかが壊れて、暗い淵をのぞきこんだデュティユーだった。

 3曲目は西村朗さんの「蘇莫者」(そまくしゃ)。天王寺楽所(がくそ)雅亮会(がりょうかい)の舞楽をともなった大作だ。西村さんのトレードマーク、ヘテロフォニーが全編にわたって展開された曲。ヘテロフォニーの定義はわたしの力には及ばないが、ともかくその不定形な音の動きが、圧倒的な存在感をもって迫ってきた。舞楽には日本的な美学よりも、大陸的な力強さが感じられた。それが西村さんの音楽の本質を逆照射していた。
(2011.6.28.東京オペラシティ)
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カリニャーニ&読響

2011年06月24日 | 音楽
 読響の6月定期はパオロ・カリニャーニの客演指揮。カリニャーニは新国立劇場の「コジ・ファン・トゥッテ」をキャンセルして、わたしたちをがっかりさせたが、読響には予定どおり登場した。

 プログラムはオール・ベートーヴェン・プロ。1曲目は「フィデリオ」序曲。冒頭のアレグロのテーマが、勢い込んで演奏され、直後のアダージョの部分が、大きくテンポを落として演奏された。一瞬にして耳目を引く出だしだ。主部に入ると、明瞭にふちどりされた、きびきびした音楽の運びが際立った。音色は明るく、透明だ。なるほど、カリニャーニが振ると、ベートーヴェンはこうなるのか、という感じ。

 2曲目はピアノ協奏曲第5番「皇帝」。ピアノ独奏は辻井伸行さん。辻井さんのピアノは何度か聴いたことがあるが、今回こそ名演だと思った。明るく、太い音と、肉体の内部から湧き出るような流れは、今までも経験しているが、今回はオーケストラとの息が合っていて、実に豊かな存在感があった。辻井さんの音は体温が高くて、西欧人のいう「愛」の質量がある。

 アンコールに「テンペスト」の第3楽章が演奏されたが、これには雑なところがあった。

 3曲目は交響曲第6番「田園」。明るい音色とメリハリのきいた流れは前の2曲と同じだが、さらに音色の多彩さと安定感のあるテンポが加わり、これもカリニャーニならではのベートーヴェンだった。第2楽章では弦楽器に弱音器が付けられ、他の楽章の音色との対比が鮮やかだった。念のため、インターネットで閲覧できる楽譜を見たら、弱音器の指示はなかった。このへんの事情について、どなたか、教えていただけるとありがたいが。

 総体的には、最近、読響をこれだけきれいに鳴らした人は、カンブルランを除いて、いなかったのではないかと感じた。演奏会前には、カリニャーニは来るのか、来ないのかと、ずいぶん気をもませられたが、いざ来てみると、有無をいわせない演奏でわたしたちを納得させた観がある。

 これでよいのだと思う。原発事故で外人演奏家のキャンセルが続出している。そういう演奏家は、キャンセルにともなうリスクを承知しているはずだ。だからわたしたちも、あまり物分かりがよくなる必要はない。怒るなら怒ってもよい。あとは演奏家が、演奏によって、わたしたちを納得させられるかどうかだ。ハンディを背負った再出発だが、それは仕方がない。
(2011.6.23.サントリーホール)
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小泉和裕&都響

2011年06月21日 | 音楽
 都響の6月定期Aシリーズはリスト生誕200年プロ。曲目はピアノ協奏曲第2番と「ファウスト交響曲」。指揮は小泉和裕さん、ピアノ独奏はマルクス・グローさん。

 ピアノ協奏曲第2番は、例の第1番と相前後して書かれたそうだ。第1番は人気曲のひとつだが、第2番は地味な印象だ。わたしには第2番のほうが面白い。その理由を説明しても、理屈っぽくなるだけで、退屈だろうが。

 第1番は人気曲なので、安易に演奏会で取り上げられ、かえって曲の本質が見えにくくなることが気掛かりだ。それは交響詩「レ・プレリュード」でも同じだ。現に5月に在京の某オーケストラがオール・ハンガリー・プロを組んで、これらの2曲を取り上げたが、その演奏は名曲コンサートの乗りだった。

 今回の演奏はそれとは一線を画していた。ピアノ協奏曲第2番は、ピアノもオーケストラも、がっしりした構成のなかに、自由な滑らかさも欠けず、この曲の幻想曲的な(としか言いようのない)味わいを楽しませてくれた。

 「ファウスト交響曲」は今年1月に下野竜也さん指揮の読響で聴いたばかりだ。あのときは一部の隙もなく緊密に構築された演奏に圧倒されたが、オーケストラに首根っこをつかまれて、引きずりまわされた感もあって、息苦しい思いがした面もある。

 そこで今回は、もう少し楽に息ができて、しかもスケールの大きい演奏を期待して出かけた。結果的には、難しいもので、一面では期待どおりだったが、他面では下野さん&読響の演奏が懐かしくもあった。

 期待どおりなのは、力を抜くべき部分が、きちんと力を抜いて演奏され、一息付けたことだ。他方、全体的に几帳面過ぎて、曲の並外れたスケール感が出なかった。演奏とは難しいものだ。生身の人間がやっていることなので、なにかの拍子にできることもあり、またできないこともある、ということだと思う。

 小泉さん指揮の都響は、2010年5月にベルリオーズの序曲「海賊」とニールセンの交響曲第4番「不滅」で、実にスケールが大きく、かつテンションの高い演奏を聴かせてくれた。今回はそのレベルにはたっしなかった。

 コーダで男声合唱が登場し、そこからテノール独唱(今回は福井敬さん)が浮かび上がるが、このテノール独唱はファウスト自身ではないかと思った。ゲーテの原作では「神秘の合唱」のみなので、そこに独唱を入れたのはリストの創意だ。
(2011.6.20.東京文化会館)
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沼尻竜典&日本フィル

2011年06月18日 | 音楽
 原発事故の影響で来日中止の演奏家が続出しているが、日本フィルの首席指揮者ラザレフは、腰の手術を受けたため。代役は沼尻竜典さん。

 1曲目はストラヴィンスキーの交響的幻想曲「花火」。初期の習作のような曲で、めったに演奏されないが、最近聴いた記憶がある。一夜明けて調べてみたら、2009年6月に小泉和裕さん指揮の都響で聴いていた。花火がポンポン上がるような曲。都響のときはもっと乾いた音がしたが、今回はちょっと湿っていた。

 2曲目はチャイコフスキーの「ピアノと管弦楽のための幻想曲」。これは面白い曲だ。2楽章構成。第1楽章は提示部が終わるといきなりカデンツァになる。山あり谷ありの長大なピアノ独奏だ。これが終わると、いきなり再現部。こういう曲は聴いたことがない。第2楽章は前半が緩徐楽章。映画音楽にも使えそうな美しい音楽だ。後半がフィナーレ。終わりそうで終わらないコーダが、演奏者を奮い立たせる。

 ピアノ独奏は小川典子さん。知的で実力があり、華もあるこのピアニストの魅力全開の演奏だった。

 3曲目はショスタコーヴィチの交響曲第10番。沼尻さんの指揮に求心力があり、オーケストラをよく引っ張っていった。日本フィルにもこの曲に真正面から取り組もうとする真摯さがあった。

 事前にWikipediaの解説を読んだら、作曲家の吉松隆さんがこの曲とリストの「ファウスト交響曲」との関連を指摘しているという記述があった。そこで同氏のホームページを見ると、「ショスタコーヴィチ/交響曲第10番に仕掛けられた暗号」という論考があった。譜例付きの説明には目からうろこが落ちる思いだった。

 同ホームページには『「ショスタコーヴィチの証言」は偽書的「聖書」である』という論考もあったので、今日読んでみた。これは、今まで読んだなかで、「証言」の核心に触れた唯一の論考ではないかと思った。

 「証言」は偽書であるというのが定説だが、それで済ますわけにはいかない何かがあると思っていた。あるいは、仮に偽書だとしても、ショスタコーヴィチの作品の本質を言い当てた(と思われる)ヴォルコフという人物は何者だろうと思っていた。そういうモヤモヤが解消した。わたしなどが下手に要約するよりも、「証言」に興味をお持ちで、まだこれを読んでいないかたには、ぜひ一読をお勧めしたい。
(2011.6.17.サントリーホール)
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蝶々夫人

2011年06月16日 | 音楽
 新国立劇場の「蝶々夫人」。以前このオペラは苦手だったが、数年前から好きになった。自分なりの視点ができたからだ。そのきっかけはドレスデンで観た公演だった。詳細は省くけれども、そのときの演出は、アメリカ人の異文化にたいする無理解、傲慢、横柄さを描くものだった。考えてみれば、原作はアメリカ人が書いたわけで、これはアメリカ人による自己批判の作品だ。

 今回の演出は栗山民也さん。栗山さんらしく実に丁寧な作り込みだ。その意味では感心するほかないが、終わってみると、なにか思想的なものはなかった印象だ。その原因の一つは、シャープレスの描き方が凡庸で、影が薄く、ドラマにあまり関与していなかったからだ。上記のドレスデンの公演では、ピンカートンを批判する役割を担っていた。別にそういう役割でなくてもよいのだが、より明確に描いてほしかった。

 とはいっても、栗山さんの演出は、日本的なしぐさに目を配り、島次郎さんの美術、勝芝次朗さんの照明ともども、音楽にぴったり寄り添って、上質な舞台を作り上げていた。全編にわたってシルエットが使われているのも面白かった。わたしとしては、第2幕の最後(本公演では第2幕第1部の最後)のハミングコーラスの場面が気に入った。蝶々夫人の心象風景を視覚化した演出だ。

 タイトルロールはオルガ・グリャコヴァOlga Guryakova。強い声の持ち主だ。登場の第一声から、「おおっ」と思った。舞台を囲んだ半円形の装置が反響板の役目をはたしたからかもしれない。声質は暗め。スラヴ系のオペラもよさそうだ。今秋にはドヴォルザークの「ルサルカ」に出演する予定なので期待したい。ヴィジュアル的にも美しい人だ。

 なおこれは演出上の意図だったのかもしれないが、「ある晴れた日に」では、なんとなく始まり、なんとなく終わった感じがした。スズキを相手にした長いモノローグの一環という印象だった。このアリアは、普通は思い入れたっぷりに歌われ、まさに西欧的な感情の表出になるわけだが、今回のようにさらっと歌われると、日本的な文脈から外れることがない。それはそれでよいのだが、実のところ、わたしは一瞬「キーを下げたかな」と思ってしまった。

 指揮はイヴ・アベルYves Abel。いつもベルリン・ドイツ・オペラで振っている人で、今年2月には「カルメル会修道女の対話」を聴いたばかりだ。以前聴いた「ドン・パスクヮーレ」がとくによかった。今回の「蝶々夫人」も、オーケストラの感度がひじょうによく、これは指揮者の手腕だと思った。オーケストラは東京フィル。
(2011.6.15.新国立劇場)
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2011年06月10日 | 演劇
 井上ひさしの「雨」。1976年初演なので、比較的初期に属する作品だ。がっしり構築された力作。初演以来再演を重ねている。わたしは今回が初めてだ。新国立劇場ができて、安定的にオペラ公演が行われると同時に、バレエ、ダンスそして演劇に幅広く接することができるようになったのは有難い。

 今回の「雨」の主役は、若手の歌舞伎役者、市川亀治郎さん。NHKの大河ドラマ「風林火山」にも出演したそうだから、多くの方々には馴染みだろうが、わたしは普段テレビを見ないので、初対面(?)だ。

 歌舞伎役者とはすごいものだ、というのが第一印象。中劇場のあの広い空間を一人で支えている。考えてみると、歌舞伎の舞台はもっと広いので、鍛えられているのだろう。台詞を一言発するだけで、空気がピリッと引き締まる。

 歌舞伎には「型」があって、観客の笑いをとるときなどにそれが出ていた。その意味では、今回は市川さんなくしては成り立たない舞台だ。これを観ていて、ある体系的な約束事(あるいは文化の存在)を感じた。

 市川さん以外は現代演劇の役者さんたちだ。そのなかに市川さんが入ってなんの違和感もないのが、むしろ感心すべき点かもしれない。これには役者さん個々の力量はもちろんのこと、演出の栗山民也さんの力量も与って大きいはずだ。

 市川さん以外では、永作博美(ながさく・ひろみ)さんの「透明な美しさ」(栗山民也さんの言葉)が光っていた。

 総論はこのくらいにして、各論でもいろいろ述べたいことがあるが、なにしろ昨日は初日、これから観る人も多いので、詳述は避けたい。あっと驚く演出があるので、お楽しみに。

 作品としては、前半は主人公の上昇局面、後半は下降局面で、大きく放物線を描くような構成だ。主人公は野心を遂げようとするが、実は不安にさいなまれ、夜も眠らずに学習(?)し、昔の仲間を殺すことも辞さない。このへんのディテールではブレヒトの「アルトゥロ・ウィの興隆」を思い出した。権力を握ろうとする人間の心理は、洋の東西を問わず、似ているのだろう。そして、だからこそ、この作品はなにを暗示しているのか、と考えさせられた。

 作品にちなんで、ロビーには山形県の紅花が並び、お米やお菓子が配られ、ミニ物産展が開かれていて、わたしも買い物をした。ビュッフェでは地酒も提供された。
(2011.6.9.新国立劇場中劇場)
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コジ・ファン・トゥッテ

2011年06月09日 | 音楽
 新国立劇場の「コジ・ファン・トゥッテ」。演出にダミアーノ・ミキエレットの名があったので、これは2度観たいと思い、6月2日と8日のチケットを買った。

 ミキエレットの演出は、幸いにも、2007年にペーザロで「泥棒かささぎ」を観ることができた。そのときはもう心底から仰天した。一言でいうと、各場面、各場面が、意表を突く演出の連続だった。これはハンブルグで観たペーター・コンヴィチュニー演出の「ばらの騎士」とともに、今までのわたしのオペラ経験の双璧だ。

 今回の「コジ・ファン・トゥッテ」も期待に違わない演出だった。場所はドン・アルフォンソの経営するキャンプ場。フィオルディリージとドラベッラ、フェルランドとグリエルモはそこに集う若者たち。デスピーナはキャンプ場の従業員。

 あっと息をのんだのは、第2幕が「夜」に設定されていたことだ。なにが起きても不思議ではないキャンプ場の夜。そうでなくても濃密なモーツァルトの音楽が、さらに濃密さを増した。

 まずドラベッラがグリエルモの求愛に陥落する場面。官能がひそかに匂い立つ二重唱では、地面に腰を下ろした2人の前で焚き火が燃え上がる。次には心の動揺に苦しむフィオルディリージの長大なアリアの場面。フィオルディリージは、ほてった気持ちを冷まそうと、池に入っていく。滴り落ちる水の音が伴奏に加わる。

 感心したのは、第1幕の後半で(ほんとうの恋人)ドラベッラへの愛を歌い上げるフェルランドが、気持ちの変化に悩んでうずくまるドラベッラの背後から、そっと上着をかけてやる演出。同じように、前述のフィオルディリージのアリアの場面では、(ほんとうの恋人)グリエルモが、背後からそっと毛布をかけてやる。男たちの心情を視覚化した演出だ。

 今までいろいろな「コジ・ファン・トゥッテ」を観てきたが、ストーリーを信じることができたのは、これが初めてだ。

 フィナーレでは全員の絆が切れてしまって、各人孤独で不幸になる。暴かなくてもよい「真実」を暴いて人々を不幸に陥らせたドン・アルフォンソは、イプセンの演劇「野鴨」の登場人物グレーゲルスのようだ。

 演奏は8日のほうが格段によかった。2日にはオーケストラの細かいリズムが合っていないことがあり、歌手との呼吸も今一つだった。ところが8日はこれらが解消され、アンサンブルが整っていた。歌手の演技にも余裕があった。
(2011.6.2&8.新国立劇場)
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飯守泰次郎&シティ・フィル

2011年06月08日 | 音楽
 飯守泰次郎さんが、東京シティ・フィル常任指揮者最後の年に、チャイコフスキーを集中して取り上げるのは意外だった。同フィルのホームページには、意気込みを語る飯守さんの動画がアップされ、6月3日にはレクチャーが開かれた。わたしは残念ながら参加できなかったが、いつも愛読している「Thunder’s音楽的日常」さん(左欄のブックマークに登録)にレポートが載っていて、当日の熱っぽさがよくわかった。

 昨日は第1回。プレトークを聞くことができた。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を例に引きながら、ロシアについて熱く語り、チャイコフスキーを通してロシアにどっぷり浸かりたいという趣旨だった。

 1曲目は交響曲第3番「ポーランド」。今まで聴いたこの曲の演奏のなかには、記憶に残っているものがあるが、それらを含めても、この日の演奏ほど本気になった演奏は聴いたことがない。熱い思いが湧き上がり、最後は堰を切ったように奔流した。それはもう稀に見る演奏だった。

 2曲目は交響曲第4番。演奏の基本は前曲と同じだが、この曲になるとチャイコフスキーの筆致が一段と流麗になるので、演奏にも豊かな色彩感と緩急の変化が出た。飯守さんは、ドイツ音楽を振るときは剛直な演奏スタイルだが、そのイメージを一新する演奏なので、目を見張った。

 飯守さんの本領は、ワーグナーやブルックナーにあると思っていたが、チャイコフスキーでこれほど共感のこもった演奏をするのが興味深かった。日本人の感性との距離を考えた場合、ゲルマン系と、ラテン系と、スラブ系では、どういう位置関係になるのだろうと思った。

 東京シティ・フィルの演奏は、「最近の在京オーケストラでこれほどやる気に満ちた演奏は聴いたことがない」と思うほどのものだった。これはほんの一例にすぎないが、たとえば第4番の第1楽章フィナーレで、最後の一音にむけて全オーケストラが転がり落ちる直前の一瞬は、ぞっとするほどの緊張感があった。

 第3番と第4番を続けて聴くと、第4番ではチャイコフスキーが自分のやりたいことをやれるようになった、ということがよくわかった。微妙なニュアンスに富み、語り口は滑らかになり、やりたいことをやるに当たり、もうなにも臆することはなくなった。あらためて聴いて、この曲では、第3楽章を除き、下降音型が絶えず滝のように流れ落ちることを感じた。
(2011.6.7.東京オペラシティ)
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レンブラント展

2011年06月01日 | 美術
 「レンブラント 光の探求/闇の誘惑」展。レンブラントは油彩の画家のイメージが強いが、生涯にわたって版画の制作を続けていて、本展は版画を中心とした構成。

 昨年はブリューゲルの版画展とデューラーの版画展が開かれた。ブリューゲルもデューラーも、レンブラントと同様に、油彩の画家のイメージが強かったが、両展をみて、版画の世界の豊饒さに啓発された。

 本展はその文脈上に位置する展覧会。もっともブリューゲルともデューラーともちがう作風だ。それを説明しようとすると、理屈っぽくなるし、わたしの手には負えそうにない。

 ブリューゲルにもデューラーにもなかった点として、レンブラントには「ステート」の問題があることを、本展で初めて知った。これは一度(あるいは数度)刷った原版に、新たに手を加えて、もう一度(あるいは数度)刷ることがあった結果、異なるステートの作品が残されたこと。

 たとえば3種類のステートによる4点の作品が展示されている「3本の十字架」は、ゴルゴダの丘で二人の盗賊とともに磔刑に処せられたイエスを描いた作品だが、あるステートからは、画面が黒く塗りつぶされ、異様に不気味な画面になっている。ディテールも、馬の向きが変更され、盗賊の一人と前面の男の一人は、黒の闇に溶解している。

 次の「エッケ・ホモ」(4種類のステートによる5点の作品。)は、総督ピラトによって民衆の前に引き出されたイエスを描いた作品だが、本作の場合、あるステートからは、バルコニーの前の民衆が消えている。その結果、わたしたちの視線はバルコニーに立つイエスに集中する。他にも細かい改変があり、少々不謹慎だが、まちがい探しのクイズのようだ。

 このような「ステート」の問題は、音楽でのブルックナーの交響曲の「版」の問題と似ているので、興味深く思った。

 油彩画も何点か来ている。「書斎のミネルヴァ」は1635年の作。1635年というと、レンブラント29歳、独立してアトリエを構えた年だ。野心みなぎるレンブラントの、驚異的な力量を誇示する作品。

 晩年の「ヘンドリッキエ・ストッフェルス」(1652年)は、破産をし、人生の苦渋をなめ尽くしたレンブラントの、穏やかな諦念を感じさせる作品。実質的な妻であったヘンドリッキエへの信頼感が漂い、くつろいで、安らぎに満ちている。
(2011.5.30.国立西洋美術館)
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