Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

サーリアホの管弦楽

2016年08月31日 | 音楽
 サントリーホール国際作曲委嘱シリーズの今年のテーマ作曲家、カイヤ・サーリアホ(1952‐)の新作演奏会。指揮はエルネスト・マルティネス=イスキエルド(昨年サーリアホのオペラ「遥かなる愛」を指揮した人)、オーケストラは東京交響楽団。

 1曲目はシベリウスの交響曲第7番。サーリアホが「影響を受けた作品」として選んだ曲だ。2014年のテーマ作曲家パスカル・デュサパンはシベリウスの交響詩「タピオラ」を選んだ。偶然の一致かもしれないが、シベリウスの最後のスタイルを評価する作曲家が一定数いるのかもしれない。

 演奏は、指揮者はあまり関与していなかったが、オーケストラから出てくる音楽は、わたしのシベリウスのイメージと合っていて、日本のオーケストラにはシベリウス演奏の伝統があることを感じた。

 2曲目はサーリアホの新作「トランス」。3楽章形式のハープ協奏曲(ハープ独奏はグザヴィエ・ドゥ・メストレ)。冒頭、ハープが短いフレーズを奏し、その最後の音を木管が引き延ばす。そうすることによってハープの余韻が補強され、音の層が生まれる。それが(楽器を変えながら)繰り返される。

 第2楽章ではハープ奏者が左の手の平でハープの弦を叩く音が何度も出てくる。バスドラムがその音を補強する。音楽が美しく流れることを阻止して、立ち止まって考えさせるような効果がある。なにを? この楽章のタイトル「ヴァニテ」(人生の虚しさ)を、か。

 サーリアホは今や、どんな曲を書いても、自分の音が鳴るようになった。この曲はその証しだと思う。透明な結晶のような音。少し聴いただけでサーリアホだと分かる音。

 会場では日本のハープ奏者の第一人者と目されている方の姿を見かけた。メストレの演奏もいいが、できればその方にこの曲を演奏してもらえないかと思った。作曲者も女性、その方も女性、同性なので分かりあえる繊細さ、あるいは柔軟さがあるのではないだろうか。

 3曲目はサーリアホが「注目している若手の作品」、ゾーシャ・ディ・カストリ(1985‐)の「系譜」。音の鮮度がいい。わたしも注目した。4曲目はサーリアホの「オリオン」。2曲目の「トランス」はハープ協奏曲なので、オーケストラは小編成だったが、「オリオン」は大オーケストラのための曲。雄弁な語り口は大家のそれだ。3曲目と4曲目では、イスキエルドの指揮も積極的だった。
(2016.8.30.サントリーホール)
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佐藤紀雄/アンサンブル・ノマド

2016年08月28日 | 音楽
 サマーフェスティヴァル2016の佐藤紀雄/アンサンブル・ノマドの演奏会。今回は大ホールに会場を移した。小ホールの親密な雰囲気もよいが、大ホールになると、音に空間性が生まれるのが興味深く、演奏もクォリティが高かった。

 演奏された曲は4曲。先に作曲者を記すと、クロード・ヴィヴィエ(1948‐83)、マイケル・トーキー(1961‐)、武満徹(1930‐96)、リュック・フェラーリ(1929‐2005)。武満徹を除いて知らない作曲家ばかりだ。

 佐藤紀雄がプログラムに寄せた一文によると、これらの人たちは「単独者」であるとのこと(「単独者」という言葉は、「ただ一人だけで目的地に達する」使徒パウロからキルケゴールが敷衍させた言葉だそうだ)。

 20世紀の音楽は、ベリオ、シュトックハウゼン、ケージ、メシアン、ブーレーズなど「その時代の潮流を作った作曲技法における主義を確立した」作曲家たちに沿って解説されることが多いが、その一方で「自分の耳で聴き、自分の直感だけをたよりに模索しながら一歩一歩結果を求めていく人達がいた。」。そのような作曲家を「単独者」と呼びたいと。

 わたしはひじょうに美しい言葉だと思った。そして、そう呼ばれてみると、武満徹の位置付けというか、むしろその音楽の本質が、胸にストンと落ちるのを感じた。

 1曲目はヴィヴィエの「ジパング」。弦楽アンサンブルの曲。雅楽のような響きで始まるが、それだけに終始するのではなく、変化に富んだ音が続く。2曲目はトーキーの「アジャスタブル・レンチ」。3群のアンサンブルによるノリのよい曲。マリンバ奏者のセンスがいいなと思ったら、加藤訓子だった。

 3曲目は武満徹の「群島S.」。最晩年の作品だけあって、音に一切の無駄がない。蒸留された音の世界。ステージ上の3群のアンサンブルの他に、客席の左右に1本ずつクラリネットが配される。ステージ上の音に呼応する各クラリネット。モーツァルトやブラームスが最晩年になってクラリネットの音を好んだこととの共通点が感じらる。

 4曲目はフェラーリの「ソシエテⅡ‐そしてもしピアノが女体だったら」。破壊的で、かつユーモアたっぷりのライヴのための曲。最後にハイドンの交響曲第90番の結尾のような仕掛けがあった。

 アンコールに武満徹の「波の盆.」のテーマ音楽。没後20年のよい追悼になった
(2016.8.27.サントリーホール)
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武満徹の『ジェモー(双子座)』

2016年08月27日 | 音楽
 サマーフェスティヴァル2016のプログラムに「国際作曲委嘱シリーズ」の一覧が載っている。それを見ると、同シリーズはサントリーホールが打ちたてた金字塔という感を強くする。その再演シリーズとして、第1作の武満徹の「ジェモー(双子座)」(1986)と第17作の譚盾(タン・ドゥン)の「オーケストラル・シアターⅡ:Re」(1993)が演奏された。

 1曲目は武満徹の「ジェモー(双子座)」。舞台下手(左側)にはオーボエ独奏(荒川文吉)とオーケストラⅠが陣取る。指揮者は三ツ橋敬子。上手(右側)にはトロンボーン独奏(ヨルゲン・ファン・ライエン)とオーケストラⅡが陣取る。指揮者はタン・ドゥン。オーケストラは東京フィル。

 外見的にはオーボエとトロンボーンの2重協奏曲だ。木管と金管、高音と低音、鋭い音と柔らかい音という具合に、対照的な音色の組み合わせ(その経緯はともかくとして、結果としてはそうなった)。

 一方、2群のオーケストラのほうは、対照的というよりも、一つのテクスチュアを交互に織っているような感じだ。多層的というよりは、いつもの武満トーンを、いつもより入念に織っている感じがする。

 演奏は、独奏者2人も優秀だったが、オーケストラⅠを率いた三ツ橋敬子の敏感さに注目した。音楽への反応がよく、加えてはっきりした主張がある。オーケストラのリードにためらいがない。三ツ橋敬子は今まで何度か聴いたことがあるが、その才能が花開く時期が近づいたようだ。

 2曲目はタン・ドゥンの「オーケストラル・シアターⅡ:Re」。武満ファンのわたしがこんなことをいうのも何だが、この曲のほうが鮮やかなインパクトがあった。細かい描写をしても冗長になるし、言葉でそのインパクトを伝えられるものでもないので、結論だけいうと、劇場のライヴ感を演出するタン・ドゥンの手腕に圧倒された。なおオーケストラは三ツ橋敬子が振り、客席に配置された奏者と聴衆(!)をタン・ドゥンが振った。

 3曲目の武満徹の「ウォーター・ドリーミング」(1987)は、いつもの武満の世界で、ホッと一息ついた。そして4曲目はタン・ドゥンの「3つの音符の交響詩」(2010)。ラ・シ・ドの3つの音符が陳腐なコラールを奏するが、それを妨害し、揶揄するような足踏みその他の音が入る。でも「ラ・シ・ド」も負けていない。バトルが起きる。これもライヴのための曲だ。
(2016.8.26.サントリーホール)
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サーリアホの室内楽

2016年08月25日 | 音楽
 「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」の今年のテーマ作曲家はサーリアホ。その室内楽の演奏会があった。

 1曲目はチェロ独奏の「7匹の蝶」。蝶の羽のような、薄く、儚い音で始まる。7曲のミニアチュールの基本はその音だが、時々、軋むような音や、抉るような音が混じる。バッハの朗々としたチェロの響きとは別世界のサーリアホの音。演奏はフィンランドのチェロの名手アンッシ・カルットゥネン。さすがの名演だ。

 以下4曲が演奏されたが、先に演奏者を記すと、カルットゥネンの他に、石川星太郎が率いるアンサンブルシュテルン。石川星太郎は最近その名を見かけるようになったが、1985年生まれで、現在はロベルト・シューマン大学デュッセルドルフに在学中とのこと。アンサンブルシュテルンは石川星太郎が藝大在学中に仲間と結成した(メンバーを固定しない)アンサンブル。

 2曲目はヴァイオリンとピアノのためのデュオ「トカール」。演奏はアンサンブルシュテルンのメンバー(ピアノは石川星太郎)。1曲目の「7匹の蝶」の張り詰めた演奏とは違って、日常風景のような演奏。その落差が大きい。演奏を貶しているのではなく、若いメンバーにはカルットゥネンに学ぶよい機会だろうと思った。

 3曲目はフルート独奏と打楽器、ハープ、ヴァイオリンそしてチェロのための「テレストル(地上の)」。急‐緩の2楽章構成の曲。独奏フルートは声を交えながら演奏する。急の楽章は(いつもの瞑想的なサーリアホとは違って)‘前衛的な’感じがする。

 演奏は、チェロをカルットゥネンが弾いたので、アンサンブルが引き締まった。カルットゥネンは、ソロはいうまでもないが、アンサンブルもうまい。後でプロフィールを見たら、ロンドン・シンフォニエッタの首席チェロ奏者だったことがある。

 休憩後、4曲目はヴァイオリン独奏の「ノクチュルヌ」。この曲だけフランスの若い女性(ノルウェー国立音楽大学に在学中)が弾いたが、なぜこの人が起用されたのか、真意が測りかねた。

 5曲目はチェロ独奏と室内アンサンブルのための「光についてのノート」。チェロ独奏はカルットゥネン。全5楽章からなり、最終楽章では「ついにファ#が光の中心となり、チェロを光輝に満ちた空間へと持ち上げる」(プログラムノート)そうだが、そうは聴こえなかった。室内アンサンブルに粗さがあったからか。
(2016.8.24.サントリーホール小ホール)
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ヴァイグレ/読響

2016年08月24日 | 音楽
 セバスティアン・ヴァイグレの指揮は、今までに2度(ベルリンとバイロイトで)オペラを聴いたことがあるが、あまり印象に残っていなかった。でも、今回の読響定期で、どういう指揮者なのか、よく分かった。

 プログラムはオール・シュトラウス・プロ。1曲目は交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」。冒頭、羽毛のような柔らかな音で弦が入ってきた。続くホルンのソロは、驚くほどゆっくりしていた。もう一度繰り返されるホルンのソロが、今度はテンポを速めて(‘普通の’テンポで)演奏された。細かいドラマ作りだ。

 音は終始(どんな場合でも)明るく、艶がある。耳に心地よい。音楽の流れも明快だ。よどみなく流れる。安心してその流れに身を任せることができる。その流れの中に生起する細かいドラマを、余裕をもって楽しむことができる。ストレスが残らない演奏だ。

 7月の定期を振ったコルネリウス・マイスターも、その点では似ていた。でも、どっしりした安定感では、ヴァイグレのほうが一枚も二枚も上手だ。

 それにしても、次代を担う若手の有望株であるマイスターと、今が働き盛りの中堅のヴァイグレと、その2人のドイツ人指揮者が、往年の巨匠とは、音も、音楽作りも、違うタイプであることは、今の時代を(その一面を)物語っているようでもあった。

 2曲目は「4つの最後の歌」。ソプラノ独唱はエルザ・ファン・デン・ヘーヴァー。オーケストラの豊かな起伏を乗り越えて、ヘーヴァーの声が響き渡り、ホールの大空間を満たした。まるでワーグナーのブリュンヒルデか何かのようだった。オペラ的な演奏。この曲のこういう捉え方もあるのかと‥。

 3曲目は「家庭交響曲」。ヴァイグレの音楽性、そして能力が全開だった。読響もよくその指揮に応えた。複雑な紆余曲折を辿るこの曲が、方向感を見失うことなく、豊かなドラマを伴って(さらにいえば、ゴージャスなサウンドで)演奏された。両者はよくかみ合っていた。相性のよさが感じられた。

 個別の奏者では、コンサートマスターの日下紗矢子が見事なソロを聴かせた。その存在感はたいしたものだ。首席ホルンの松坂隼も健闘した。2人はこの日のプログラムではどの曲にもソロがあり、注目の的だったが、立派な出来だった。

 会場ではファビオ・ルイジの姿を見かけた。お目当てはヴァイグレか、読響か。
(2016、8.23.サントリーホール)
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佐藤紀雄/アンサンブル・ノマド

2016年08月23日 | 音楽
 サントリー芸術財団のサマーフェスティヴァル2016が始まった。初日は佐藤紀雄指揮アンサンブル・ノマドの演奏会。

 1曲目はエベルト・バスケス(1963‐)の「デジャルダン/デ・プレ」(2013)。作曲者名も曲名も初耳だが、プログラム・ノートによると、バスケスはメキシコの作曲家。曲名のデジャルダンはフランスのヴィオラ奏者クリストフ・デジャルダンから、またデ・プレはフランス・ルネサンス期の作曲家ジョスカン・デ・プレから、それぞれとっているとのこと。

 本作は2楽章構成のヴィオラ協奏曲。第2楽章にジョスカン・デ・プレのシャンソンや「(南米:引用者注)コロンビアの世俗的な音楽を思い起こさせるパッセージ」が現れる。

 演奏は、アンサンブルのまとまりに欠け、書き留めるべき感想は残らなかった。

 2曲目はニュージーランドの作曲家ジャック・ボディ(1944‐2015)の「死と願望の歌とダンスSongs and Dances of Death and Desire」(2012/2016)。本作も初めて聴く曲だ。演奏は一転してよく練られ、音に緊張感があって、思わず惹きこまれた。

 オリジナルはオーケストラ伴奏の連作歌曲だが(2013年初演)、佐藤紀雄の依頼で室内楽版が作られ(13曲の抜粋、2014年アンサンブル・ノマドが初演)、今回さらに改訂版が作られた(2曲が追加され、使用楽器も増加)。

 これはユニークな作品だ。歌手は3人。1人は先住民族のマオリ族の言葉で歌うメレ・ボイントン。魂の叫びを感じさせる。もう1人はスペイン語で歌う波多野睦美。本場の味わいがある。もう1人はビゼーの「カルメン」の断片をフランス語で歌うカウンター・テナーのシャオ・マ。「カルメン」本来の官能性を蘇らせるような声だ。

 さらに加えて、森山開次のダンスが入った。衣装を変えながら4つのキャラクターを踊ったが、最初のキャラクターは、本作がその想い出に捧げられたマオリ族出身の女装のダンサー、カルメン・ルーペを描いたもの。性的マイノリティの苦しみと欲望が感じられた。

 カーテンコールに子どもたちが何人も登場した。あれッと思ったら、アンコールを歌ってくれた。フルートとマリンバの伴奏によるリズム中心の元気のよい曲。ジャック・ボディの「レイン・フォレスト」から『子どもの遊び』という曲だった。
(2016.8.22.サントリーホール小ホール)
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ポンピドゥー・センター傑作展

2016年08月20日 | 美術
 「ポンピドゥー・センター傑作展」はかなりユニークだ。フォービスム(野獣派)が登場した1906年から、ポンピドゥー・センターがオープンした1977年まで、1年1作家1作品で構成している。しかも1度登場した作家は2度と登場しない。またフランス人か、フランスで制作したことがある作家に限られている。

 一般的に展覧会というと、ある画家に焦点を当てたり、ある流派に焦点を当てたりすることが多い。前者を「点」で構成した展覧会、後者を「面」で構成した展覧会とするなら、本展は「線」で構成した展覧会といえそうだ。

 本展の基本コンセプトは「線」だ。「線」が本展の展示方法やホームページの作り方を規定している。「線」は直線であったり、曲線であったり、ギザギザの線であったりするが、ともかく不可逆性のある「線」が基本だ。

 このような展覧会の場合、わたしがいつも展覧会の感想のときに使っている方法(数点のとくに自分にとって意味のある作品を取り上げて、その感想を記す方法)では、本展の感想を語れないような気がする。では、どんな方法が有効か。

 素直に自分の心の動きを辿るなら、最初は淡々と歩を進めていた。何点かの惹かれる作品はあったが、それはいつものことだ。ところが1935年のピカソの「ミューズ」(チラシの絵↑)の前に来たときに、これは悲しい絵だと思った。ピカソが愛人を孕ませ、妻との関係が破綻したときの作品。愛人はあどけなく眠っている。妻はその横で自画像を描いている。その妻の辛い気持ちを、ピカソは描いている。

 あらためて年代を見ると、1935年。もしかすると本作には、ピカソの私生活の反映だけではなく、戦争前夜の緊迫した空気の影響もあるかもしれないと思った。

 そう思って進むと、次の1936年はガルガーリョという人のブロンズ彫刻「預言者」だった。荒野で「悔い改めよ」と叫ぶ預言者ヨハネが、戦争に突き進む社会への警鐘のように感じられた。

 次の1937年はカンディンスキーの「30」。カンディンスキー晩年のデザイン的な作品だが、白(青味がかった灰色)と黒とのモノトーンの作品であることが異色だ。同じモノトーンということで、ピカソの「ゲルニカ」を思い出した。「ゲルニカ」のパリ万博での公開も1937年だった。何らかの影響関係があるのか、ないのか。いずれにしても、緊迫する時代の空気が感じられて、思わず緊張した。
(2016.8.16.東京都美術館)

本展のHP
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ダッハウ強制収容所自由通り

2016年08月16日 | 身辺雑記
 「ダッハウ強制収容所自由通り」(エドモン・ミシュレ著、宇京頼三訳)を読んだ。ダッハウ強制収容所はミュンヘン郊外にあるナチス・ドイツの施設。現在も保存・公開されている。ミュンヘン中心部から電車とバスで簡単に行ける。今から何年も前だが、わたしも行ったことがある。小学生や中学生くらいの生徒たちが、先生に引率されて大勢来ていた。

 著者ミシュレは第2次世界大戦中レジスタンスの活動に加わり、ゲシュタポに捕らえられて、ダッハウ強制収容所に収容された。本書はその経験を書いたもの。

 ダッハウ強制収容所はアウシュヴィッツのような絶滅収容所ではなく、レジスタンス、共産主義者、聖職者、その他ナチスへの抵抗勢力を収容していた。

 絶滅収容所ではないとはいっても、暴力が支配し、飢餓が慢性化し、衛生状態が悪くて伝染病が蔓延したことに変わりはない。死と隣りあわせの毎日。明日は自分が死ぬかもしれない不条理な日々。それがいつまで続くか見通しも立たない絶望的な日々。

 だがミシュレは、そんな日々にあっても、人間性を失わなかった。驚くべきことに、収容所のバラックの中では、SS(ナチス親衛隊)の目を盗んで、司祭が秘密裏にミサをあげていた。ミシュレも熱心にミサに参加した。ミシュレの精神的な支柱は信仰にあった。また文学、歴史、その他の広範な教養もミシュレを支えた。

 ミシュレは典型的なヨーロッパ精神の持ち主かもしれない。ヨーロッパ人といえども、だれでもミシュレのように身を処すことができるわけではないので、その最良の部分を体現する人物といった方がよいかもしれない。日本人のわたしには、理解はできても、真似ることは難しい。

 ダッハウを生き抜いたミシュレは、解放直後の1945年、シャルル・ド・ゴールに要請されて、臨時政府の国防大臣に就任する。政治的にはまったく無名だったミシュレなので大抜擢の人事だ。以後ミシュレはド・ゴールとともに戦後政治を歩み、重要閣僚を歴任した。

 原著が出たのは1955年。それから約60年経った2016年1月に翻訳が出た。なぜ今頃になって翻訳が出たのだろう。翻訳者あるいは出版社に何かメッセージがあったのだろうか。わたしはあったと思う。翻訳者の「あとがき」を読むとそれが分かる。一言でいうと、今の時代にミシュレの「それでもドイツを憎まない」という寛容の精神を伝えたかったようだ。
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メッケネムとドイツ初期銅版画展

2016年08月13日 | 美術
 国立西洋美術館で「メッケネムとドイツ初期銅版画展」が開かれている。メッケネムという版画家は、わたしには未知だった。1445年頃に生まれ1503年に亡くなったドイツ人。デューラー(1471‐1528)よりも前の世代の人だ。

 デューラーの版画展が、やはり同館で2010年に開かれた。デューラーの油彩画はもちろんだが、版画もすばらしいことを、そのとき初めて知った。今回も、メッケネムという名前は知らなかったが、見るだけ見ておこうと思って出かけた。

 版画は小さいので、混んでいるとよく見えない。そこで平日の夕方に出かけた。それでも小中学生が結構いた。大人も多かった。夏休みということもあるが、同館が世界遺産に登録されることになったのも、多くの人々が訪れる一因だろう。

 チラシ(↑)に使われている「モスカリダンス」は、奇想という面ではインパクトが強いが、メッケネムの初期か、中期か、ともかく描線にまだ硬さがある(本作の場合はそれが魅力でもあるが)。一方、後期の作品になると、線描が柔らかくなり、自由に動き、かつハッチング(平行線)による陰影が繊細になる。

 そういう作品の好例と思われるものに「恋人たちのオーナメント」があった(画像は下記リンク参照↓)。本作は装飾的な作品なので、宗教的な題材や世俗的な題材を扱ったものではないが、その繊細さには驚くべきものがあった。

 宗教的な題材を扱った作品をあげると「ヘロデ王の宮廷での舞踏会」(画像は↓)。サロメが洗礼者ヨハネの首を受け取っているが、その光景は左上に小さく描かれているだけで、画面の前景には舞踏会を楽しむ賓客がぎっしり描かれている。メッケネムの力量の高まりを示す好例だと思う。

 一言触れておきたい作品は「聖グレゴリウスのミサ」(画像は↓)。キャプションによると「免罪の機能を持つ銅版画の最初期の例」。本作を買うと「2万年分の贖罪の免除」になるそうだ。免罪符の一種。免罪符という言葉は知っていても、実物を見たことはなかったので、興味深かった。作品としても力作だと思う。

 閉館までまだ時間があったので、常設展にも回ってみた。人が大勢いた。常設展がこんなに賑わっているのを見るのは、わたしは初めてのような気がした。‘世界遺産’効果だろうか。ひょっとすると同館を初めて訪れる人だっていたかもしれない。そうだとしたら嬉しい。
(2016.8.10.国立西洋美術館)

「恋人たちのオーナメント」
「ヘロデ王の宮廷での舞踏会」
「聖グレゴリウスのミサ」
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コジ・ファン・トゥッテ(ザルツブルク)

2016年08月09日 | 音楽
 スヴェン=エリック・ベヒトルフの演出は、何年か前のチューリヒ歌劇場の来日公演での「ばらの騎士」と、昨年のザルツブルク音楽祭での「フィガロの結婚」との2度しか経験がないが、正直いって、あまり特徴のあるものとは思わなかった(もっとも演奏面では「ばらの騎士」は優れていたが)。

 今回「コジ・ファン・トゥッテ」のチケットを取ったのは、ザルツブルクが「皆殺しの天使」の1泊だけでは物足りなかったからだ。

 ところが往きの飛行機の中で観たベヒトルフ演出の「ドン・ジョヴァンニ」(ザルツブルク音楽祭のライヴ映像)が、高級ホテルの中に舞台を設定した巧みなストーリー展開で、ひじょうに面白かった(これは今年も上演される)。そこで俄然「コジ・ファン・トゥッテ」にも興味が湧いてきた。

 会場に入ると、すでにドラマが始まっていた。ドン・アルフォンソが老人の仲間たちと椅子に座って、人体の解剖図を広げながら、女とは何かと議論中だ。やがて指揮者が登場し、序曲が始まる。舞台が動き始める。舞台からオーケストラピットを丸く囲んで通路が付いている。歌手たちはそこを行き来する。

 フェランドとグリエルモが、出征すると偽って、フィオルディリージとドラベッラに別れを告げる場面で、4人の歌手はその通路に出て(つまりオーケストラピットよりも前に出て)4重唱を歌う。その4重唱の美しかったこと。虚構から思いがけない真情があふれ出る瞬間だった。

 ピットを囲む通路を付けること自体は、珍しくはないが、この演出では、音楽的にここぞ!という箇所で通路に出てきて歌う。その選択に音楽への理解の深さが感じられた。オーケストラピットの前の通路と、その奥の舞台との2重構造が、ピットの前での真情の迸りと、舞台での虚構の戯れとのコントラストを反映していた。

 4人の若者が各人各様の心の傷を負うのは、一般的な演出だったが、ドン・アルフォンソが仲間たちに拍手喝さいで迎えられる幕切れは、自説に閉じこもる老人の固陋さを表して、真の敗者はドン・アルフォンソかもしれないと思わせた。

 指揮のオッタヴィオ・ダントーネは、期待どおり、生き生きした音楽作りだった。モーツァルテウム管弦楽団の音には、ウィーン・フィルとは違った懐かしさがあった。歌手ではフィオルディリージのユリア・ライトナーの正確で、しかもニュアンス豊かな歌唱に注目した。
(2016.8.2.フェルゼンライトシューレ)
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皆殺しの天使(ザルツブルク)

2016年08月08日 | 音楽
 トマス・アデス(1971‐)の3作目のオペラ「皆殺しの天使」。去る7月28日が世界初演。ザルツブルク音楽祭、ロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場およびデンマーク王立歌劇場の共同委嘱。

 原作はルイス・ブニュエル監督のシュールレアリスム映画「皆殺しの天使」(1962)。アデスとトム・ケアンズ(1952‐)が共同で書いたオペラ台本は、原作をほぼ忠実になぞっている。19人のブルジョワたちが、オペラを観た後、ある邸宅で晩餐会を開く。夜も更けたので帰ろうとするが、なぜか部屋から出られない。一夜明け、さらに一夜明け‥。ブルジョワたちは苛立ち、憎み合い、退廃的になる。

 原作と異なる点は、大きくいって2つある。1つはブルジョワたちの人数を19人から14人に変更した点。もう1つは結末に関して、原作ではついに部屋から出ることができたブルジョワたちが、教会のミサに参列するが、今度は教会から出られなくなる、というものだが、オペラでは、部屋からは出られたものの、(オペラの)舞台から出られなくなる、となっている。

 ともかく、14人のブルジョワと1人の執事、合計15人が常時舞台にいる特異なオペラだ。

 音楽は、アデスの1作目のオペラ「パウダー・ハー・フェイス」のキッチュなダンス音楽と、2作目のオペラ「テンペスト」のガクガクと動く不均等なリズムや不安定な音程、さらには甘い旋律を基調にして、今回はそこに15人のアンサンブルが加わった。

 15人のアンサンブルはベルクのオペラ「ルル」の第3幕のパリの場を連想させた。勝手気ままに動く各声部が、それでも全体としては一つの集合体となって、どこへともなく動いていく。それが本作では(「ルル」と違って)いつでも起こり得る。

 このオペラは何を描いたのかという問いは、(ルイス・ブニュエルの原作の場合と同様に)おそらく避けられない。わたしは(原作がフランコ政権の民衆への弾圧を背景にしているのと同様に)身近に迫っている危機を暗示した近未来的なオペラか、と思った。

 演奏は、作曲者自身の指揮、ORF放送交響楽団、歌手はアンネ・ゾフィー・フォン・オッター、ジョン・トムリンソンを含む実力ある歌手たち。演出は台本の共作者トム・ケアンズ。新作オペラがこれほど見事に上演されるとは、驚くばかりだ。聴衆はスタンディングオベーション。
(2016.8.1.モーツァルトの家)
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ニュルンベルクのマイスタージンガー(ミュンヘン)

2016年08月07日 | 音楽
 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、ワーグナーの諸作品の中でも傑作の一つだが、問題作でもあると思う。まずハンス・ザックスの幕切れの大演説。「名もないマイスターたちを敬いなさい」という部分まではよいが、その後の「ドイツ的なものが外国勢力によって脅かされている」という部分が気になる。

 次にベックメッサーの描き方。批評家ハンスリックのカリカチュアとも、ユダヤ人のカリカチュアともいわれているが、ともかくその描き方には底意地の悪さが感じられる。これはワーグナーの根底にあるものだ。たとえば「ジークフリート」のミーメにも共通している。ミーメはジークフリートの育ての親だが、ジークフリートに殺される。ジークフリートには良心の呵責などない。

 以上の2点について、今回のダフィット・ベッシュの新演出は、真っ向から向き合い、解決を図った。まずハンス・ザックスの大演説だが、拍手喝さいするマイスターたちを尻目に、ヴァルターとエファは肩を抱き合って立ち去る。2人は少しもザックスの大演説に説得されていない。がっかりするザックス。

 次にベックメッサーの描き方だが、上記のがっかりしたザックスの背後に、ベックメッサーがピストルを持って現れ、銃口をザックスに向ける。アッと思った瞬間、ベックメッサーは銃口を自らに向けて自殺する。いじめ抜かれたベックメッサーは、もう生きていくことができなかった。そこまでいじめたのはワーグナーか、それともそれを見て面白がっていたわたしたちか。

 今まで、ハンス・ザックスの大演説については、ペーター・コンヴィチュニーのハンブルク演出も疑問を呈していた。だが、ベックメッサーの描き方については、今回のように問題意識を持って見つめた演出は、わたしは観たことがなかった。

 指揮はキリル・ペトレンコ。わたしはこの人のオペラは初めてだったが、想像以上だ。剛直な押しの強さとは対極の、揺らめき、変化に富み、表現意欲にあふれた指揮。たとえば第2幕の前半でハンス・ザックスが第1幕のヴァルターの歌を反芻し、その捉えがたい魅力を追っているとき、オーケストラから漂ってくる香り高い音楽に、わたしは度肝を抜かれた。

 ヴァルターを歌ったのはヨナス・カウフマン。評判どおりの輝かしい声だと思ったが、弱音になればなるほど、発音が篭もるようなところがないだろうか。
(2016.7.31.バイエルン国立歌劇場)
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インドの優雅な国々(ミュンヘン)

2016年08月06日 | 音楽
 ラモーの‘オペラ・バレエ’「インドの優雅な国々」は、今まで観る機会がなかったので、楽しみにしていた。事前にウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサンのパリのガルニエでの公演のDVDを観た。たしかに優雅で楽しい作品だと思ったが、正直にいうと、少し退屈した。

 だが、今回のバイエルン国立歌劇場の公演は、それとはまったく違っていた。なにが違うかというと、バレエが、現代的な、動きの激しいダンスになっていた。こうなると、作品の印象がまったく変わった。

 ガルニエ公演は、優雅で、繊細で、ちょっとお色気のある公演だったが、バイエルン国立歌劇場の公演は、ユーモラスで楽しいが、それだけではなく、現代社会を反映したところがあり、フランス・バロックの世界に留まるものではなかった。

 具体的にいうと、序幕の美の女神エベの楽園は、小学校の教室になっていた。エベは先生。生徒たちに愛の尊さを教えている。そこに戦いの女神ベローナ(男の上級生?)が現れ、生徒たちを戦争に駆り立てる。生徒たちはついて行こうとする。慌てて何人かの生徒を引き止めたエベは、生徒を連れて平和を探す旅に出る。

 以下、第1幕から第4幕まで、相互に関連のないオムニバス的なストーリーが展開するが、今回の公演では、所々にエベと生徒たちが登場したり、前の幕の登場人物が後でも登場したりして、緩やかながらも、相互のつながりが図られていた。

 最後の第4幕には難民たちが登場した。ブルーシートのテントを張り、やがてそれを撤収して、あてどのない旅を続ける。そしてフィナーレになると、原作どおり、人々の喜びの踊りになるが、いつの間にか不和が生じ、喧嘩が始まる。喧嘩が収まり、これで終わるかと思ったら、機関銃を構えた男(テロリスト?)が紛れ込み、銃口を人々へ、そして観客へ向ける。ゾッとしたところで幕になる。

 演出・振付はSidi Larbi Cherkaouiという人。大変な才能だと思う。ダンサーの中には日本人もいた。大活躍だ。舞台装置はアンナ・フィーブロック。いつもながら、現代的な感覚の装置だ。

 指揮はアイヴォー・ボルトン。演奏はピリオド楽器のオーケストラ。コンサートマスターはスズキ・シュンスケという日本人。この人も大活躍だった。歌手は、アンナ・プロハスカ以外は知らない人たちだったが、皆さんたいしたものだ。
(2016.7.30.プリンツレゲンテン劇場)
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帰国報告

2016年08月04日 | 身辺雑記
 本日帰国しました。今回はミュンヘン3泊、ザルツブルク2泊の旅でした。観てきたオペラは次のとおりです。
 7月30日 ラモー「優雅なインドの国々」(ミュンヘン)
 7月31日 ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(ミュンヘン)
 8月1日 アデス「皆殺しの天使」(ザルツブルク)
 8月2日 モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」(ザルツブルク)

 「優雅なインドの国々」はラモーの代表作の一つとされるオペラ・バレエですが、今まで観る機会がなかったので、この機会に、と思って‥。
 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」はキリル・ペトレンコの指揮とヨナス・カウフマンの出演が期待でした。ダフィット・ベッシュの新演出にも注目です。
 「皆殺しの天使」はトーマス・アデス(1971‐)の新作オペラです。アデスは、オペラの新作が今一番期待されている作曲家の一人ではないでしょうか。ザルツブルク音楽祭、ロンドンの王立歌劇場コヴェントガーデン、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場そしてコペンハーゲン王立歌劇場の共同委嘱です。
 モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」はスヴェン=エリック・ベヒトルフの新演出。今このオペラをどう演出するか‥。
 以上の各オペラの感想は後日報告します。

 出発前にはミュンヘンでテロが起きたので、空港や駅は警備が厳重だろうと思っていたら、とくに警官の数が多いとか、そんなピリピリした雰囲気はなく、いつもののんびりした街にホッとしました。

 もっとも「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、当初は歌劇場の前の広場にスクリーンを張って同時中継し、市民に無料で公開される予定でしたが(これは毎年恒例の行事です)、今年は直前に中止になりました。

 またザルツブルクでは、公演の途中の休憩のときに外に出た場合(皆さん外に出ます)、いつもなら出入り自由ですが、今年は再入場の際にチケットの提示を求められました。

 でも、変わった点というとそれくらいで、あとはいつもどおりの様子でした。現地の人々はともかく、わたしのような旅行者には、目立った変化は感じられませんでした。

 ミュンヘンでは1度、ザルツブルクでも1度、雨に降られましたが、そのお陰もあって比較的涼しい毎日でした。帰国した今日の東京は、入道雲が湧き起こり、いつもの暑い夏ですね。我が家にはクーラーがないので、これからが大変です。
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