Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

遥かなる愛

2015年05月29日 | 音楽
 サーリアホのオペラ「遥かなる愛」の演奏会形式上演。わたしにとっては今年前半の目玉の一つだ。

 予習には、ナクソス・ミュージック・ライブラリーに入っているので、音源だけならそれで十分だったが、どうしてもリブレットがほしくて、CDを購入した。CD到着後、初めて聴いたときには、涙が出るほど感動した。2度目に聴いたときには、リブレットを追うことに専念した。そして3度目は音響をつかむことに集中した。

 自分としては万全の準備をして臨んだ公演だったが、2つの点で躓いた。1つは、倍音を積み上げて構成する(スペクトル楽派の)音響が、あまりきれいに聴こえなかったことだ。なぜだろう。電気的な音響処理のせいだろうか――と思った。

 ライブエレクトロニクス的な音響の変化や自然音の挿入などはいいのだが、独唱者や合唱、さらにはオーケストラの生音の部分的な強調や微調整は、わたしには素直に受け入れられない。それらの生音を脳内でバランス調整して、聴くべき音を選択する自由を奪われているような気がする。

 もう1つは映像の存在だ。ジャン=バティスト・バリエールの映像は美しかったが、美しいが故に、映像に集中すべきか、それとも映像はわき見をする程度で、音楽に集中すべきか、どっちにするか――という状態で終わってしまった。

 そんな結果になったが、でも、会場に入ってくるサーリアホを見たときは、ミーハー的かもしれないが、心ときめくものがあった。サーリアホはわたしと同世代だ。なので、特別の想いがある。とくに「遥かなる愛」(2000年初演)あたりからは、その音楽が雄弁になった。アイドルを見るファンの心境が、わたしにはあるのだ。

 藤田茂氏のプログラムノーツによると、本作はサーリアホがメシアンのオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」を観たことが創作の契機になっているそうだ。これは納得だ。本作をCDで聴いたとき、「アッシジ……」を連想したからだ。オペラというより、オラトリオに近い。そんなドラマトゥルギーの共通性を感じた。わたしの大好きなオペラ「アッシジ……」が、こうして別の作品につながっていることが嬉しかった。

 3人の独唱者の与那城敬、林正子、池田香織は、皆さん大健闘だった。ただ、わたしは林正子の、頑張って強く出る声が、ちょっと苦手だが――。東京混声合唱団の透明なハーモニーも印象に残った。
(2015.5.28.東京オペラシティ)
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ばらの騎士

2015年05月28日 | 音楽
 新国立劇場のジョナサン・ミラー演出「ばらの騎士」は、今回で3度目だ。3度目ともなると、新鮮味は薄れる。とはいっても、第1幕の幕切れの窓外の雨、そしてそれを見つめる元帥夫人の姿は、やはり名場面だ。とくに今回はシュヴァーネヴィルムスが元帥夫人を演じているので、‘絵になる’美しさだ。

 もう一つ、第3幕の幕切れで、オクタヴィアンとゾフィーが手に手を取って駆け去る場面。これも大好きだ。若い二人の喜びがあふれる場面だ。その後に出てくる黒人のお小姓は、ゾフィーが落としたハンカチを拾うのではなく、テーブルに残ったお菓子をつまみ食いする。これも微笑ましい。

 今更ながら、このオペラは、各幕の幕切れが用意周到に計算されていることに感心した。第1幕は、前述したように元帥夫人の一人舞台。時の移ろいを省察した後、メランコリーにしずむ元帥夫人の心情が滲み出る。

 第2幕はオックス男爵の一人舞台だ。腕に怪我をしてひどい目にあったオックス男爵だが、マリアンデル(じつはオクタヴィアンの女装)との逢引きに胸をときめかして上機嫌になる。その姿が憎めない。

 そして前述の第3幕。オクタヴィアンとゾフィー、若い二人の喜びで幕を閉じる。

 このオペラの主人公はだれなのだろう――と、時々思うことがある。元帥夫人だろうか、オックス男爵だろうか、それともオクタヴィアンとゾフィーか。演出によって印象が異なるし、同じ演出でも配役によって印象は変わる。どれが正解ということはないことが、このオペラの奥深さだ。

 今回この配役では、わたしはオクタヴィアンとゾフィーだと思った。元帥夫人もオックス男爵もすばらしかったが、それら2役を演じる名歌手シュヴァーネヴィルムス(元帥夫人)とユルゲン・リン(オックス男爵)は、味のあるバイプレーヤーにまわり、まだ無名の若手ステファニー・アタナソフ(オクタヴィアン)とアンケ・ブリーゲル(ゾフィー)を盛り立てていたように思う。

 シュテファン・ショルテスの指揮は、とくに第1幕が面白かった。絶え間なく生起する細かい動きと突然のギアチェンジが、克明に辿られていた。一方、陶酔にひたる面は見られなかった。プロフィールによると、ショルテスはウィーン育ちだが、ハンガリー生まれだ。そういわれてみると、なるほど、往年のハンガリー生まれの巨匠指揮者たちに通じる演奏スタイルが感じられた。
(2015.5.27.新国立劇場)
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海の夫人

2015年05月22日 | 演劇
 イプセンの「海の夫人」。イプセンの戯曲はいくつか読んだが、この作品は未読だ。イプセン61歳のときの作品。すでに代表作のほとんどを書いており、次作の「ヘッダ・ガーブレル」とともに晩年の作品の一つだ。

 「ヘッダ・ガーブレル」は新国立劇場で2010年に上演された。宮田慶子芸術監督が立ち上げたシリーズ「JAPAN MEETS… ―現代劇の系譜をひもとく―」の第1回だった。今回の「海の夫人」は第10回。本作を含めてすでに10作品が紹介されたわけだ。

 灯台守の娘だったエリーダは、医師ヴァンゲルと結婚し、先妻の娘2人と穏やかに暮らしている。そこにかつての恋人が現れる。恋人を選ぶか、夫を選ぶか――という物語。

 ‘自由’という言葉がキーワードだ。女性には自由がなかった時代。本作が初演された1888年になってやっと「結婚した女性の固有財産保有が認められた」そうだ(プログラムに掲載された毛利三彌成城大学名誉教授と宮田慶子芸術監督との対談)。それまで妻は「未成年者同様、夫の後見の下にあった」。

 自分の意思で人生を決める‘自由’を手にしたとき、エリーダの選択は――というわけだが、残念ながら、先が読めた。予想どおりの展開になった。

 全体的に濃密さに欠けた。エリーダにはもっと焦燥感があってもよかった。岡本健志津田塾大学非常勤講師のエッセイによると、20年くらい前にノルウェー国立劇場で上演されたときには、「エリーダ役を演じた女優が一糸まとわぬ姿で舞台上を悶えながら転がって自らの内面を表現するという演出」だったそうだ。なるほどと思った。

 エリーダ役は麻実れい。独特の存在感はいつものとおりだ。でも、今回の演出ではその個性に頼りすぎた面がなかったろうか。

 同様に医師ヴァンゲルを演じた村田雄浩も、苦悩の末にエリーダに選択を委ねる過程での、その苦悩が薄味だった。なので、選択の‘自由’にリアリティが欠けた。

 付け加えると、先妻の娘ボレッテは「ファザコン」だそうだ。「後妻のエリーダに父親を取られたくなかった」(前記の対談)。でも、太田緑ロランス演じるボレッテは、美しすぎて――そして聡明かつ上品すぎて――そんな泥臭さは感じられなかった。

 エリーダの元恋人は、黒いマントに黒いブーツで物々しい口調だ。ワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」のようだった。
(2015.5.21.新国立劇場小劇場)
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椿姫

2015年05月20日 | 音楽
 新国立劇場の「椿姫」新制作。演出のヴァンサン・ブサールは、フランクフルト歌劇場でグルックの「エツィオ」を観て感銘を受けたことがある。今回もひじょうに楽しみだった。また指揮のイヴ・アベルも、新国立劇場はもちろん、ベルリン・ドイツ歌劇場でも何度か聴いて、どれもよかった。

 まず演出から。「エツィオ」のときもそうだったが、舞台の床に鏡を張り、その反射光を壁に投影する。縦、横、斜めから照明を当てるので、その角度によって壁にうつる影は複雑に変化する。今回はさらに舞台の左側を(天井まで届く)巨大な鏡にした。その反射光もあるので複雑を極める。すべてが計算された複雑さだ。

 大事な点は、そういった影の変化が、自己目的化していないことだ。音楽の陰影を表現し、また登場人物の心の揺れを表現する。簡潔かつ的確な語り口のドラマだ。

 古いピアノ(19世紀のものだそうだ)がつねに舞台にあった。第2幕ではヴィオレッタがアルフレードへの別れの手紙を書く机になり、また第3幕では瀕死のヴィオレッタが横たわるベッドになり――という具合だ。あのピアノはなんだろうと思った。帰宅後、ブサールのインタビュー記事を読んだら、原作のモデルとなった高級娼婦の象徴だそうだ(「ジ・アトレ」2014年11月号)。なるほど。でも、わたしはこのオペラを作曲中のヴェルディの象徴だと思った。そんな想像も楽しい。

 第2幕の前半、ヴィオレッタとアルフレードとの愛のすみかの場面では、日傘が宙に浮き、その奥を渡り鳥の群れが飛んでいた。あれはなんだろう。美しかった。

 第3幕の巨大な紗幕にも触れておきたい。前述した舞台左側の巨大な鏡を覆う紗幕。そのインパクトの強さは、実際に見ないと分からないかもしれない。

 イヴ・アベルの指揮は期待どおりだった。とくに第2幕でのヴィオレッタとジェルモンとの二重唱の、刻々と変化する音楽の推移に感心した。少しも一本調子にならない。ヴィオレッタ役のベルナルダ・ボブロの丁寧な歌唱もさることながら、イヴ・アベルの克明なテンポの変化が歌手たちを主導していた。

 ボブロは各幕で性格の異なるヴィオレッタ像を、歌唱はもちろん、演技でもよく描き分けていた。アルフレード役のアントニオ・ポーリも文句なし。ジェルモン役のアルフレード・ギザは、歌唱はいいのだが、役作りは無個性だった。ジェルモンの造形は意外に難しいのかも‥。
(2015.5.19.新国立劇場)
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エド・デ・ワールト/N響

2015年05月17日 | 音楽
 デーヴィッド・ジンマンが振る予定だったN響定期のCプロ。ジンマンが緊急手術のためにキャンセルしたが、エド・デ・ワールトが代役に立ち、プログラムをそのまま引き継いだ。ショーソンの「愛と海の詩」を楽しみにしていたので嬉しかった。

 ホールに入ると、驚いたことには、指揮台に椅子が置かれていた。慌ててプロフィールを見た。1941年生まれだ。まだそんなに高齢ではない。急に衰えたのだろうか――と心配した。ステージに現れたその姿を見ると、足腰はしっかりしているように見えた。椅子が必要なようには見えなかった。

 でも、その椅子に浅く腰をかけて指揮を始めた。1曲目はラヴェルの組曲「マ・メール・ロワ」。棒が衰えている感じはしなかった。だが、出てくる音楽に生彩がない。きっちりやってはいるのだが――。

 2曲目はラヴェルの「シェエラザード」。オーケストラに色彩感が出てきた。こうでなくては――とホッとした。弦の編成が、「マ・メール・ロワ」では10‐10‐8‐6‐4だったが、「シェエラザード」では第1ヴァイオリンが2人増えて、12‐10‐8‐6‐4になった。その影響も大きいだろう。

 冒頭メゾ・ソプラノのマレーナ・エルンマンMalena Ernmanが「Asie,Asie,Asie,(アジア、アジア、アジア)」と歌いだしたとき、その艶のある声にゾクゾクした。フランス語の発音もきれいだ。すっかり魅了された。スェーデン生まれ。オペラから近現代歌曲、さらにはジャズやポップス、ミュージカルまで幅広くこなす歌手だそうだ。

 休憩後のショーソンの「愛と海の詩」には、大いに期待が高まった。案の定というべきか、すばらしい歌唱だった。声、フランス語の発音、さらには明→暗に移行する悲劇性、どれをとっても満足すべき歌唱だった。

 オーケストラの演奏も陰影豊かだった。きめの細かいドラマが付けられていた。その演奏とエルンマンの歌唱とがよく噛み合って、わたしの好きなこの曲の、モチベーションの高い演奏を聴くことができた。

 4曲目はドビュッシーの交響詩「海」。第2部「波の戯れ」の後半から第3部「風と海との対話」にかけてダイナミックな演奏が展開された。だが、音の磨きあげは、いまひとつだった。名指揮者エド・デ・ワールトといえども、代役(かなり急な代役だったのかもしれない)では限界があるのかと思った。
(2015.5.16.NHKホール)
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下野竜也/日本フィル

2015年05月16日 | 音楽
 下野竜也が指揮する日本フィルの定期。日本フィルが委嘱した作品(日本フィル・シリーズ)の再演プログラムだ。下野竜也が前回登場した2012年7月定期も、同様の趣旨のプログラムだった。あのときは山本直純(1932‐2002)の「和楽器と管弦楽のためのカプリチオ」(1963)の破天荒なズッコケぶりに腰を抜かされた。あまりに面白かったので、翌日も聴きに行った。

 今回1曲目は黛敏郎(1929‐1997)の「フォノロジー・サンフォニック」(1957)。熱い時代の反映だ。ただ、いかにも生硬。片山杜秀氏のプログラム・ノーツで気がついたが、傑作「涅槃交響曲」の前年の作品だ。わずか1年での飛躍が信じられない。演奏はこの曲のそんな本質をよく伝えていた。

 2曲は林光(1931‐2012)の「Winds」(1974)。想い出深い曲だ。わたしはこの年、日本フィルの定期会員になった。まだ大学生だったが、アルバイトで稼いだお金で定期会員になった。その最初のシーズンで初演された。争議中のオーケストラが新作の委嘱を再開したことに感動した。

 ただ曲そのものには戸惑った。なにをどう捉えたらいいのかと。でも、昨日の演奏でよく分かった。無数の風が、穏やかな微風から暗い一陣の疾風まで、ステージから吹いてくるような面白さがあった。演奏も多彩な風を的確に表現していた。

 3曲目は三善晃(1933‐2013)の「霧の果実」(1997)。テクスチュアの緻密さが前2曲とは格段の差だ。林光はあえて粗いテクスチュアを意図したのかもしれない。黛敏郎は若さにまかせて書いたのだろう。一方、三善晃のこの作品は、成熟した書法で書かれている。三善晃の想いがこめられた作品。でも、昨日の演奏ではそれが剥き出しにならない点が、この作品に相応しかった。

 4曲目は矢代秋雄(1929‐1976)の「交響曲」(1958)。堂々たる交響曲だ。今回のような特別の趣向のコンサートではなく、普通のコンサートでも、プログラムの最後を飾るに足る作品だ。

 全4楽章のうち第3楽章には、メシアンがオンドマルトノのために書いたような、非対称の拍節感をもった、延々と伸びる旋律が出てくる。また第4楽章の激しいリズムは、「春の祭典」の終曲「生贄の踊り」からの影響が感じられる。でも、それらを含めても、矢代秋雄の個性の枠内にとどまっている。大した才能だ。
(2015.5.15.サントリーホール)
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イェンセン/読響

2015年05月14日 | 音楽
 読響定期。アンドレアス・シュタイアーがモダン・ピアノを弾いてモーツァルトを演奏するというので、楽しみに出かけた。

 1曲目はそのモーツァルトのピアノ協奏曲第17番。吉田秀和の好きな曲で、何度か「名曲のたのしみ」で聴かせてもらった。あの番組で音楽の聴き方を学んだわたしには、懐かしい曲だ。最近は聴いていなかったので、楽しみにしていた。

 第1楽章のオーケストラによる提示部で、ピアノが自由自在に入ってきた。思わず微笑んだ。和音をアルペッジョで入れるというよりも、オーケストラのメロディー・ラインをピアノで縁取るような入り方だ。控えめだけれど、耳目を集めた。

 独奏ピアノの出番になると、音型の崩し方も、装飾音の入れ方も、シュタイアーの独壇場だ。しかも、しなやかで、しっとりしている。チェンバロやフォルテピアノで聴いているときには、リズムの粒立ちのよさが際立っているが、モダン・ピアノだと印象が違う。使用楽器はスタインウェイだった。

 第2楽章の透明な音の美しさは特筆ものだ。会場は静まりかえって、その音に耳を傾けた。シュタイアーの音は、演奏が進むにつれて、透明な世界に沈潜していくようだった。最後は水の一滴、一滴のように聴こえた。

 第3楽章はいかにもシュタイアーの演奏だった。主題と変奏からなるこの楽章の、各変奏のテンポ設定が、シュタイアー主導だったことは間違いない。各変奏の対比が、今まで聴いたことがないほど鮮烈で、それぞれ個性を主張していた。

 当然アンコールを期待した。指揮者(エイヴィン・グルベルグ・イェンセンという1972年生まれのノルウェー人)もステージ後方で耳を傾けたそのアンコールは、少々意外に感じたが、モーツァルトのピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330の第2楽章だった。

 ハッとした。この曲のクララ・ハスキルの演奏(古いモノラル録音)は、わたしの愛聴盤だ。その演奏では、第2楽章の短調への転調の部分で、深い淵を覗くような感覚になるが、シュタイアーのこの演奏では、さっと触れただけだ。でも、不思議なほど鮮明な印象が残り、いつまでも気になる――そんな後味が残った。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」だった。やけに長く感じられ、ぐったり疲れた。この数年間に聴いたラザレフ/日本フィルと、カエターニ/都響の名演が想い出された。
(2015.5.13.サントリーホール)
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飯守泰次郎/東京シティ・フィル&阪哲朗/日本フィル

2015年05月10日 | 音楽
 昨日の土曜日も演奏会が重なってしまった。もっとも、移動の時間を入れても、両方とも聴くことができる十分な時間差があったので、安心だったが。

 まず14:00からは東京シティ・フィルの定期。指揮は飯守泰次郎で、曲目はブルックナーの交響曲第8番(ノヴァーク版第2稿1890年)。毎年1回、第4番、第5番、第7番と続けてきたブルックナー・チクルスの第4回だ。前3回がいずれも名演だったので、今回も期待が膨らんだ。

 でも、今回は「?」だった。飯守泰次郎の想いが空回りしていた観がある。前3回は、肩の力が抜けて、おのずから生まれる音の充実感があった。今回は、どうしたわけか、オーケストラと噛み合っていなかった。

 とくに第1楽章がそうだった。第2楽章でも立ち直りきれなかった。第3楽章で音のまとまりが出てきたが、表現は十分に練れてはいなかった。第4楽章でやっと、音、表現とも、まとまってきた。でも、残念ながら、遅きに失した。

 次に、初台から横浜に移動して、ゆっくり夕食をとった後、18:00からの日本フィル横浜定期に臨んだ。指揮は阪哲朗で、1曲目はシューマンの交響曲第1番「春」。最初の音が鳴ったとき、こうでなくては!と思った。バランスの取れた響き、鳴りっぷりの良さ、ともに申し分ない。そうか――、第一線で活躍中の指揮者はこうなのかと思った。音のコントロールの違い。それを如実に感じた。

 楷書体の演奏。でも、きっちりしているだけではなく、しなやかで、瑞々しい。スタンダードなレパートリーの好演を聴いたという手応えがあった。

 2曲目はブラームスの交響曲第3番。第1楽章の冒頭、管楽器群の2つの和音の後に出てくる第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの下降音型が、線が細くて、他のパートに埋もれ気味だった。なぜだろう。バランスのミスというよりも、意図されたもののように感じられたが。

 以下の演奏では、シューマンほどの明快なイメージ――あるいは音像――は感じられなかった。だが、第4楽章になったら、オーケストラがよく鳴り、ドラマティックな演奏が展開された。彫りの深い、ダイナミックな演奏だった。

 アンコールに弦楽合奏で「トロイメライ」が演奏された。たんなるアンコール・ピースではあるが、表情の付け方は通り一遍ではなく、指揮者のこだわりが感じられた。そんな点が好ましい。
(2015.5.9.東京オペラシティ&横浜みなとみらい)
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「伊豆の踊子」執筆の宿

2015年05月08日 | 身辺雑記
 連休後半は伊豆の山へ行きました。天城高原ゴルフ場の脇から入って、天城山縦走。このコースはシャクナゲが有名です。シーズンになると登山者で混み合いますが、今はまだ早いので人も少なく、気持ちのいい山歩きができました。

 天城峠に下山してバスで湯ケ野温泉へ。1泊2食付7,000円の格安の民宿に泊まりました。たしかに古い建物ですが、温泉、食事共に十分満足しました。

 翌日はバスで天城峠に戻り、猫越岳(ねっこだけ)にむかいました。昨日のコースとつながって伊豆半島を東から西へ横断する形になります。昨日のコースは、少ないながらも、まだ人がいましたが、今日のコースはだれもいません。連休中にこんな山歩きができるなんて、望外の喜びです。

 このコースを歩くのは初めてです。なだらかな山道が快適です。ブナの新緑が目に染みるようです。山稜上に三蓋山(みかさやま)があります。その山頂は広くて、ブナの自然林がうっとりするほどきれいでした。

 仁科峠で西伊豆スカイラインに出ます。タクシーで湯ヶ島温泉へ。川端康成が「伊豆の踊子」を執筆したという湯本館にむかいました。

 湯本館は温泉街の奥まったところにありました。入るとすぐに年代物の階段が目に入ります。川端康成が泊まった頃と変わっていないようです。同館のホームページにその階段に腰を下ろした川端康成の写真が載っています(※)。まさにその階段です。

 階段ばかりではありません。階段を上ったところには、川端康成が「伊豆の踊子」を執筆した部屋が残されていました。4畳半に本床の間付きの部屋です。だれでも入っていいので、その部屋で胡坐をかいて座ってみました。往年の文学青年のわたしは、感慨に浸りました。

 つまらないことを想い出しました。高校2年生のときに、「古都」を読みだしたら、面白くて、面白くて、授業中に教科書で文庫本を隠して読みました。そのときのスリルが、忘却の彼方から蘇ってきました。「伊豆の踊子」と「雪国」を読んだ後のことでした。受験校でしたので、授業中に他の教科の勉強をする仲間もいましたが、わたしは小説でした。

 客室に「伊豆の踊子」の文庫本が置いてあったので、冒頭部分を読み返しました。さすがに名文だと思いました。引用すると――

 「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。」

(※)湯本館のホームページ
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ラ・フォル・ジュルネ(5月3日)

2015年05月04日 | 音楽
 ラ・フォル・ジュルネ2日目は2つのコンサートを聴いた。3日目はパスするので、今年はこれで終わりだ。

 まずアントニオ・ザンブージョAntonio Zambujo(1975‐)のリサイタルから。未知の歌手だ。プロフィールによると、「彼の音楽はポルトガルの大衆的音楽であるファドの基礎を持ちながらも、ボサノヴァや他の民族音楽などの影響も消化して、独特のものになっている。」とのこと。未知の音楽との出会いは、ラ・フォル・ジュルネの楽しみの一つだ。

 たしかにファドそのものではなく、現代的なテイストが加味されている。時々ファルセットの高音が混じる。囁くような曲から、ノリのよい曲まで多彩だ。10曲以上歌われたと思うが(曲名を書いたプログラムはなかった)、まったく飽きなかった。

 バンド編成は、歌とギターのザンブージョの他、ポルトガルギター(エキゾティックな味がある)、ベース、トランペット(普通のトランペットよりも低音の楽器との持ち替えあり)、クラリネット(バスクラリネットよりもさらに低音の楽器との持ち替えあり)各1名、合計5名だった。

 次にヴォックス・クラマンティスの演奏でアルヴォ・ペルトの「ヨハネ受難曲」を聴いた。昔FMでこの曲のさわりを聴いて(柴田南雄の解説だったような気がするが、記憶違いかもしれない)、今の時代にこんな曲があるのかと驚いた。すぐにCDを買った(ヒリヤード・アンサンブルの演奏)。生で聴くのは初めてだ。

 「ヨハネによる私たちの主イエズス・キリストの受難」と歌う冒頭の合唱の透明感がすばらしい。内側から光が発するようだ。続くソプラノ、カウンターテノール、テノール、バリトンの4人のアンサンブルが歌う福音史家もすばらしい。とくにカウンターテノールの艶のある高音が魅力的だ。

 ヴァイオリン、チェロ、オーボエ、ファゴットの4人の器楽アンサンブルは、福音史家のときのみ演奏する。主イエズスを歌うバス歌手とピラトを歌うテノール歌手、そして合唱のときはオルガンのみだ。そのことに今更ながら気が付いた。

 最後の合唱にも内側から発する光を感じた。冒頭の合唱よりもまばゆく感じた。ホールは静寂に包まれた。指揮者が手を下ろすと、大きな拍手が起こった。十分に準備されたすばらしい演奏だった。スタンディングオベーションをしている人が何人かいた。わたしもその一人だった。
(2015.5.3.よみうりホール、ホールC)
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ラ・フォル・ジュルネ(5月2日)

2015年05月03日 | 音楽
 ラ・フォル・ジュルネの1日目。まずケラー弦楽四重奏団から聴いた。曲目はハイドンの「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」。これは名演だった。全9楽章から成るこの曲の、楽章を追うごとに演奏の密度が濃くなった。音楽も、最初は淡々としているが、だんだん変化に富んでくる。それが実感できた。

 いうまでもないが、原曲はオーケストラ曲だ。後にハイドン自身が弦楽四重奏版とオラトリオ版を作成した。また、クラヴィーア版もあり、これはハイドン自身が監修している。では、どれが面白いか。わたしはやはりオーケストラ版が一番面白いと思う。では、詰まらないのはどれかというと、弦楽四重奏版だと、そう思っていた。

 そんな先入見をこの演奏はきれいさっぱり追い払った。第1ヴァイオリンのアンドラーシュ・ケラーの力量の故だが、もう一つ、第2ヴァイオリンのセンスの良さも付け加えたい。時々ハッとすることがあった。

 次の演奏会までに3時間ほど空きがあったので、近くの三菱一号館美術館で開催中の「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」を見た。その感想は後日また書いてみたい。

 美術館から帰ってきて、次はラ・ヴェネクシアーナによるモンテヴェルディのマドリガル8曲。まったく残響のないデッドな空間が、演奏者には気の毒だ。でも、聴いている方には、演奏者一人ひとりの力量や、楽曲の把握の程度がよく分かる。そんな意地の悪い聴き方をした。

 この演奏会はプログラムの変更があった。当初のプログラムはモンテヴェルディとジェズアルドを交互に歌い、さらに他の作曲家の曲を挟むものだった。急な変更だったのだろう。会場で配られたプログラムは翌日のもの。しかもそのプログラムにも変更があった。貼り紙で告知していた。

 次はメシアンの「世の終わりのための四重奏曲」。成田達輝(ヴァイオリン)、吉田誠(クラリネット)、萩原麻未(ピアノ)の若き俊英3人に、なんと!堤剛(チェロ)が加わったアンサンブルだ。今年のラ・フォル・ジュルネ最大の聴きものだった。

 第5曲「イエズスの永遠性への頌歌」での、チェロがきわめてゆっくり歌う長大なメロディーラインの演奏に、わたしは全神経を集中した。堤剛の往年の演奏にくらべると、音量は落ちているかもしれない。でも、ものすごい集中力があった。わたしの音楽人生の中でも、これは空前絶後の経験になった。
(2015.5.2.よみうりホール、B5、D7)
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