Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ミュージアム・コンサート:加藤訓子~ル・コルビュジエ展

2019年03月30日 | 音楽
 東京・春・音楽祭(東京春祭)の「ル・コルビュジエ展」記念コンサートの一つ、加藤訓子のパーカッション・コンサートへ。同展が開かれている国立西洋美術館の企画展示ロビーで行われた。

 プログラムが魅力的だ。三善晃の独奏マリンバのための曲が3曲(組曲「会話」、「トルスⅢ」と「リップル」)そしてクセナキスのパーカッション独奏曲「ルボン」。演奏に入る前に同館副館長の村上博哉氏によるル・コルビュジエ展のプレゼンが20分ほどあり、その後、演奏が約1時間あった。

 三善晃の3曲は、なるほど、この並びでなければならないのだなと思った。「会話」がシンプルなテクスチュアで構成されているのに対して、次の「トルスⅢ」では複雑化し(「会話」が子どものための世界であるのに対して、「トルスⅢ」は大人の世界に移行する)、「リップル」ではさらに重層化する。

 一方、クセナキスの「ルボン」は三善晃とはまったく違う音楽だ。大地を揺るがすようなバスドラムの響きが強烈なa.の部分と、華麗な撥さばきに瞠目するb.の部分と、その2部分からなる同曲は、紛れもなく西洋的な精神から生まれている。逆にいうと、三善晃の音楽はフランス的な感性云々といわれるが、やはり日本的な湿度をもった音楽だと感じる。

 加藤訓子の演奏は見事だった。三善晃の3曲では、ファンタジーが豊かに広がり、とくに「リップル」では、わたしは渦の中に巻き込まれるような感覚になった。クセナキスでは、しなやかな手首から打ち出される強烈な打音が、わたしの全身を貫いた。

 今、「しなやかな」と表現したが、実感からいうと、むしろ鞭が「しなる」感覚に近かった。それがこのパーカッショニストの個性を稀有なものにしているのではないかと思う。けっして無機質にならずに、有機的で柔軟な流れが、その手首から生まれる。

 当コンサートのチケットでル・コルビュジエ展にも入場できるので、コンサート終了後に覗いてみた。若き日のル・コルビュジエの絵画が、盟友オザンファンの他、ピカソ、ブラック、レジェなどのキュビスム絵画と比較展示されているが、それよりもむしろ、ル・コルビュジエが設計した国立西洋美術館をあらためて体感するよい機会になった。

 同展のプロモーション・ヴィデオで「重なり合う空間」とか「閉じられていない空間の連続」と紹介されているその内部空間は、そう意識してそぞろ歩き、さまざまな角度に視線を泳がせると、変化に富む多様な空間であることが実感された。
(2019.3.26.国立西洋美術館)
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カンブルランの読響常任指揮者最終公演

2019年03月25日 | 音楽
 カンブルランの読響常任指揮者としての最後の公演。プログラムはベルリオーズの「ベアトリスとベネディクト」序曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番(ピアノ独奏はピエール=ロラン・エマール)そしてベルリオーズの「幻想交響曲」。

 1曲目と2曲目は、クリアーな音と引きずらないリズムが特徴の演奏。カンブルランと読響が培ってきた個性が現れていた。エマールのアンコールが独特な音楽だった。だれの曲だか見当がつかなかったが、帰り際にロビーの掲示を見たら、クルターグの「遊戯」第6集からの2曲だった。アンコールにクルターグとはエマールらしいと思った。エマールからカンブルランへの贈り物でもあったろうか。

 3曲目の「幻想交響曲」は名演だった。シルクのような光沢のある音の織物といったらよいか。例をあげるまでもないだろうが、イメージの共有のために、一つだけ例示すると、第1楽章の第1主題を提示する第一・第二ヴァイオリンとフルートが、まるで薄いヴェールが上から舞い降りてくるようなフワッとした音で演奏された。

 このような、しなやかで、上品な音が最後まで続き、乱れなかった。しかも第3楽章の中間部の動揺にはインパクトがあり、また第4楽章と第5楽章はダイナミズムに事欠かなかった。そして、それらすべての要素は、上質な音楽の枠内に収まり、そこからはみ出すことがなかった。

 カンブルランと読響は、メシアンのオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」を筆頭に、数々の名演を繰り広げてきたが、「幻想交響曲」のようなスタンダードなレパートリーでもハイレベルな演奏を達成したことに、わたしは脱帽した。

 鳴り止まぬ拍手の中で、コンサートマスターに主導されて(カンブルランがキューを出したのではなかった)、「天国と地獄」のカンカン踊りの音楽が始まった。気が付いたように指揮を始めるカンブルラン。何人かの楽員(4~5人)が紅白のポンポンを持って踊りだし、カンブルランも促されて踊りだす。カンブルランにたすきがかけられ、花束が贈呈される。舞台の奥に「ありがとうシルヴァン、また日本で会いましょう」と書いたピンクの横断幕が掲げられる。なんと楽しい送別会だろう。

 カンブルランのソロ・カーテンコールは2回あった。多くの聴衆がカンブルランと別れを惜しんだ。カンブルランが多くの聴衆から愛されていることが、そのカーテンコールから実感された。カンブルランが読響と過ごした9年間は、カンブルランと読響にとってはもちろん、聴衆にも幸せな日々だった。
(2019.3.24.東京芸術劇場)
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「グレの歌」(2)

2019年03月23日 | 音楽
(承前) そこで、第3部を理解するために、次の3点を検討したい。(1)「道化師クラウス」とは何者か。(2)「夏風の荒々しい狩り」とは何か。(3)フィナーレの日の出(=太陽による救済)では、だれが何から救済されるのか。

 まず「道化師クラウス」だが、鷺澤伸介氏の訳注によると、この道化師はヴァルデマール王に仕えた実在の人物のようだ。いうまでもないが、道化師は宮廷で「王に向って皮肉、風刺、諌言など何でも自由にものを言うことを許されていた」(訳注)存在(ヴェルディのオペラ「リゴレット」もその一例)。その意味では、道化師クラウスは、百鬼夜行と化したヴァルデマール王を揶揄していると、まずは考えられる。

 だが、第2部で神を呪うヴァルデマール王の言葉の中に「だから主よ、どうか私をあなたの道化にしてください!」(鷺澤氏の日本語訳)というくだりがある。それを考えると、道化師クラウスとヴァルデマール王はいつの間にか一体化して、神をののしっているともとれる(鷺澤氏の訳注参照)。もちろんそう解釈した方がおもしろい。

 次に「夏風の荒々しい狩り」だが、「グレの歌」を通読すると、「夏風の‥」の部分で急にそれまでとはトーンが変わるのに気づく。それまでの暗い伝説の世界から、突然別の世界に紛れ込んでしまったような感覚になる。

 その点については、鷺澤氏の訳注で目から鱗が落ちる思いがしたが、作者のヤコブセンの草稿ノートには「序詞」が残されており、それは末尾の「夏風の‥」と対になって全体の枠を構成するそうだ。その枠は現代の(=ヤコブセンの時代の)グレ城址を訪れた旅行者が見る風景を描き、一方、「グレの歌」の本文は旅行者が見る幻影を描く。ところが「序詞」が省略されて「夏風の‥」だけが残ったので、わかりにくくなったという。

 そう考えると、草むらから蚊が飛んで来たり、蜘蛛が跳ねたり、蝶が舞ったりする光景は理解しやすくなる。では、その流れの末尾に出てくる日の出の情景(それは数行にすぎないが、シェーンベルクはそれを壮麗な合唱にした)は何を意味するか。

 その数行は、明らかに、旅行者が幻影から解放されて、現世に立ち返る場面なのだが、シェーンベルクがそこを切り取って、あまりにも壮麗な音楽を付けたので、まるでヴァルデマール王の救済を暗示するようなフィナーレになった。亡霊となったヴァルデマール王の荒々しい狩りは「最後の審判の日まで延々と続いていく」(訳注)のに。

 それはシェーンベルクの美しい誤解だったのか。いや、意図的な読み替えだったかもしれない。
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「グレの歌」(1)

2019年03月22日 | 音楽
 先日カンブルラン/読響がシェーンベルクの「グレの歌」を演奏した。今後は大野和士/都響とジョナサン・ノット/東響も同曲を演奏する予定なので、今年は「グレの歌」の当たり年だと、音楽好きの間で話題になっている。

 「グレの歌」はそれほどわかりやすい曲ではないと思う。シェーンベルクの音楽には圧倒的な力があるが、テキストはどうだろう。ヴァルデマール王とトーヴェの愛を語る第1部と、トーヴェの死に当たってヴァルデマール王が神を呪う第2部はわかりやすいが、道化師クラウスが出てきたり、「夏風の荒々しい狩り」と題する語りが出てきたりする第3部は、すっきり頭に入ってこないのではないか。

 「グレの歌」の原作はデンマークの詩人・作家のヤコブセン(1847‐1885)の未完のオムニバス的な作品「サボテンの花ひらく」の中の詩「グレの歌」だ。その「サボテンの花ひらく」を、鷺澤伸介氏が原語のデンマーク語から翻訳したものが、インターネット上に公開されている。しかも同氏による詳細な訳注付きだ。

 わたしは数年前にそれを読み、今回(読響を聴く前に)読み直した。以下はわたしの備忘録として――。

 まず、グレとは何かだが、グレ(デンマーク語では「グアア」)は地名。訳注によれば「ヘルシングウーアとティクープの間にある村」の名前。ヘルシングウーアは日本では一般的にヘルシンゲルと表記されている。シェイクスピアの「ハムレット」の舞台となった場所だ(「ハムレット」ではエルシノアと表記されている)。わたしも一度行ったことがある。コペンハーゲンから電車で1時間足らずで着いた。海に面した街で、わたしが行った日は寒い曇天だったので、「ハムレット」にふさわしい陰鬱な感じがした。

 そのヘルシンゲルの郊外にある村がグレだ。中世には城が建っていたが、今では廃墟となっている。その城にはヴァルデマール王とトーヴェの伝説が伝わり、今でも観光客が訪れる。その伝説を題材とした詩が「グレの歌」だ。

 ヴァルデマール王とトーヴェは愛し合い、グレの城で逢瀬を重ねる。それを知ったヴァルデマール王の妃はトーヴェを殺害する(殺害は「森鳩の歌」で伝えられる)。ヴァルデマール王は神を呪う。以上が第1部~第2部。

 さて、第3部。ヴァルデマール王の亡霊が軍勢(それも亡霊)を引き連れて、夜の荒野を駆け廻る。農夫がびっくりする。そこまではよいが、その後に登場する「道化師クラウス」とは何者か。また語りの「夏風の荒々しい狩り」とは何か。(続く)
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カンブルラン/読響アンサンブル

2019年03月20日 | 音楽
 カンブルラン/読響の小編成アンサンブルのための20世紀音楽特集。「読響アンサンブル・シリーズ」の特別演奏会。クラング・フォーラム・ウィーンを振っているカンブルランならお手のものだろうが、残念ながら日本では接する機会に恵まれなかった領域だ。最後の最後になってその機会が訪れた。

 1曲目はヴァレーズ(1883‐1965)の「オクタンドル」(1923)。大音響のヴァレーズではなく、木管4本、金管3本とコントラバス1台の編成。輪郭のはっきりした音で、鮮明な曲線を描く演奏だった。

 2曲目はメシアン(1908‐92)の「7つの俳諧」(1962)。ピアノ・パートにピエール=ロラン・エマールが入る豪華版だったが、その割に感銘が薄かった。カンブルランもエマールもメシアンを知りつくして、あっさり流したような演奏だった。

 3曲目はシェルシ(1905‐88)の「4つの小品」(1959)。まったく意外なことに、この曲が一番おもしろかった。沼野雄司氏のプログラム・ノーツによれば、「第1曲はファ、第2曲はシ、第3曲はラ♭、第4曲はラという音だけが鳴り響く(もっとも、正確にいえば、これらの音は時として半音より狭い音程で微妙に上下する)。」。まるで大気がゆっくり呼吸しているような、微妙な起伏が継続する曲だ。

 演奏は大変優れていた。おそらく演奏の正確性にすべてを負っている曲だろうが、音程その他の取り方が完璧だったと思う。そこからこの曲の真の姿が現れた。しかも緊張感が途切れず、その持続は快くさえあった。カンブルランと読響が追及してきた音色への配慮が成果をあげていた。

 周知のように、シェルシにはゴーストライターがいた。シェルシの死後、ゴーストライターが名乗り出た。シェルシはアイディアを提供し、ゴーストライターはそれを採譜・作曲したらしい。日本で数年前に起きた某事件と、どこか似ているが、どう違うのか。

 そんな微妙なところのある「シェルシ」だが、その曲を(プロ中のプロの)カンブルランと読響がこれほど見事に演奏したことを、どう考えたらよいのだろう。「シェルシ」の真価をあらためて世に問う、という気迫が感じられたが。

 4曲目はグリゼー(1946‐98)の「音響空間」から第3曲「パルシエル」(1975)。「音響空間」全曲はぜひカンブルランで聴きたいと思っていたが、最後の最後にその一部を聴けた。演奏は意外に淡白だった。全曲やったら、どうなっただろう。
(2019.3.19.紀尾井ホール)
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高関健/東京シティ・フィル

2019年03月17日 | 音楽
 読響、日本フィル、東京シティ・フィルの定期が続いた。読響は「グレの歌」、日本フィルはルトスワフスキの交響曲第3番と、それぞれ注目の定期だったが、東京シティ・フィルはコダーイとバルトークのハンガリー・プロを組んで、注目度では負けず劣らずだった。

 指揮の高関健がプレ・トークで語っていたが、プログラムはまずバルトークのピアノ協奏曲第2番を決めたそうだ。その前後に何をやるかということで、コダーイを選んだと。結果的にハンガリー・プロになったわけだが、それをハンガリー大使館が注目して、日本・ハンガリー外交関係開設150周年として「後援をいただいた」。プレ・トークではハンガリー大使も登壇して、流暢な日本語で挨拶した。

 1曲目はコダーイの「ガランタ舞曲」。全体的に音が硬く、アンサンブルに余裕がなかったが、その中ではクラリネットの表情豊かなソロが光った。だれだろう?当団のクラリネットの首席は海外研修中なので(それはフルートの首席もそうだが)、今回はエキストラが入っていたが、その人は在京の某オーケストラの首席に似ていた。

 2曲目はバルトークのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏は小山実稚恵。そのパワフルな演奏には度肝を抜かれた。パワフルと、今は上品な言葉を使ったが、実感としては、とどまるところを知らない馬力に押された、といったほうがいい。もちろんそれは第1楽章と第3楽章、そして第2楽章の中間部のことで、第2楽章の両端部はリリカルな美しさがあった。でも、その途中で緊張する箇所では凄みのある音が鳴った。

 それにしても、この曲の演奏は、ピアニストだけではなく、オーケストラにとっても、大変な挑戦であることが実感された。小山実稚恵と東京シティ・フィルと高関健とが(多少語弊はあるが)寄ってたかってこの曲と格闘している様子が、壮絶でもあり、また聴衆のわたしには楽しくもあった。

 当然アンコールはないだろうと思っていたら、バルトークの「ルーマニア民俗舞曲」から第1番が演奏された。小山実稚恵のプロ根性に感心した。

 3曲目はコダーイの「ハンガリー民謡「孔雀が飛んだ」による変奏曲」。この曲では練り上げられたアンサンブルが展開した。高関健が東京シティ・フィルと培ってきた演奏の精度が実を結んだ好例だ。

 当日はコントラバスが舞台正面の最後方に(打楽器の後ろに)配置された。そのため、視覚的な助けもあって、コントラバスの動きがよくわかり、思わぬ効果があった。
(2019.3.16.東京オペラシティ)
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リープライヒ/日本フィル

2019年03月16日 | 音楽
 日本フィルの定期にアレクサンダー・リープライヒが初登場した。わたしはリープライヒをサントリーホール・サマーフェスティヴァル2014で聴いたことがある。オーケストラは東京交響楽団で、曲目はフランスの現代作曲家パスカル・デュサパンの新曲を中心とするものだった。その鮮やかな指揮に強い印象を受けたわたしは、リープライヒって何者?と思った。

 今回プログラムに掲載されたプロフィールを見ると、ドイツのレーゲンスブルク生まれで、現在はポーランド国立放送交響楽団とプラハ放送交響楽団の首席指揮者兼芸術監督を務め、さらにガルミッシュ=パルテンキルヒェンのリヒャルト・シュトラウス音楽祭の芸術監督を務めているそうだ。実力のほどが窺われる。

 1曲目はロッシーニの「どろぼうかささぎ」序曲。きめの細かい音が日本フィルから流れ出た。インキネンの薫陶を受けた成果が感じられる。その意味で、日本フィルはよいタイミングでリープライヒに出会ったと思う。ロッシーニの中でも堂々たる序曲の一つのこの曲、その最後まできめの細かさが保持された。

 2曲目はルトスワフスキの交響曲第3番。この曲は昨年9月にアントニ・ヴィト指揮の都響が名演を聴かせたが、さて、日本フィルはどうかと、どうしても比較してしまう。日本フィルで特徴的だったことは、フレッシュな音だ。都響の場合は音のパワーが圧倒的だったが、日本フィルの場合は(まるで洗い上げたような)フレッシュな音が鳴った。その音は1曲目のロッシーニとも通じた。

 リープライヒは今年12月に日本フィルに再登場して、ルトスワフスキの「オーケストラのための書」を指揮する。今回の交響曲第3番を単発で終わらせるのではなく、継続してルトスワフスキに取り組むことは、日本フィルにとって得るものが大きいと思われる。

 3曲目はベートーヴェンの交響曲第8番。この曲では(1曲目のロッシーニとも2曲目のルトスワフスキとも趣向が異なり)音の勢いに主眼を置いているように感じられた。それはベートーヴェンが保養地のカールスバートで耳にしたポストホルンの響きが第3楽章のトリオで引用され、その背後には「不滅の恋人」がいたと推測されるこの曲にふさわしい幸福感を生んだ。弦は12型だったが、12‐10‐8‐7‐5の編成で、チェロとコントラバスの動きが浮き出るときがあり、それがおもしろかった。

 なお、当日は田野倉雅秋がゲスト・コンサートマスターを務めた。田野倉は今年9月にコンサートマスターに就任する。大歓迎だ。
(2019.3.15.サントリーホール)
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カンブルラン/読響「グレの歌」

2019年03月15日 | 音楽
 カンブルランの読響常任指揮者としての最後の定期。曲はシェーンベルクの「グレの歌」。舞台上のオーケストラを見て、その巨大さにあらためて驚いた。たとえばフルートは8本もある(!)。煩瑣になるので、他の木管、金管の数は省くが、推して知るべしといったところ。弦は18型だったと思うが、目を引くのはチェロがヴィオラと同数の14本だったこと。チェロが朗々と歌う箇所では、たしかに威力を発揮した。

 これだけの大編成になると、エキストラも多かったのではないだろうか。いつものカンブルラン/読響の明るい音色と緻密さは十分には現れていなかった。それは覚悟の上でのことだったろう。

 序奏のフルートとピッコロの細かな分節は、カンブルラン/読響らしく正確に、スコアが見えるように演奏された。ヴァルデマル王とトーヴェの歌が交互に歌われ、やがて沈潜して愛に浸る場面では、カンブルランの読響常任指揮者就任後の初めての定期(2010年4月の定期)で演奏されたシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」を彷彿とさせた。

 続く森鳩の声では、クラウディア・マーンケの歌唱が光った。だれが歌っても名唱が出やすい箇所だが(それだけこの箇所の音楽が優れているのだろう)、マーンケの彫りの深さとドラマ性は、今後もわたしの記憶に残るものと思われた。

 以上が第一部で、第二部はヴァルデマル王が神を呪う短い場面、そして第三部へと入っていくわけだが、当日は第二部の後に休憩が入った。わたしの経験では第一部の後に休憩が入るケースが多かったような気がするが、実際に聴いてみると、第一部の最後の音型(森鳩の声の最後の音型)と第二部の冒頭の音型が対応し、またドラマとしても第二部は第一部を引きずっているので、これで正解だと思った。

 第三部では道化師クラウスを歌ったユルゲン・ザッヒャーが優れていた。一方、農夫と語りを歌った(語った)ディートリヒ・ヘンシェルは、発音が柔らかいので、語りの箇所では物足りなかった。

 言い遅れたが、ヴァルデマル王を歌ったロバート・ディーン・スミスは、ペース配分のゆえだろうか(それは当然だが)、第一部では声をセーブしていたので、オーケストラに埋もれがちだった。トーヴェを歌ったレイチェル・ニコルズは過不足なかった。

 合唱は新国立劇場合唱団(合唱指揮は三澤洋史)。最後の夜明けの箇所で加わる女声の輝きは(それはシェーンベルクの手腕だが)、いつ聴いても感動的だ。
(2019.3.14.サントリーホール)
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黒井千次「流砂」&古井由吉「この道」

2019年03月12日 | 読書
 黒井千次の新作「流砂」を読んで感銘を受けたことはすでに書いたが、それ以来、老人の文学、そして老人の美術、老人の音楽ということを考えるようになった。そういう老人の領域があるのではないか、と。

 わたしの友人がやはり「流砂」を読んで、静かな絵を見ているような感じだった、といっていた。わたしはその読後感に共感した。老人は身の回りの小さな出来事に(あるいは小さな変化に)ハッとするのではないだろうか。けっして平穏無事な日常ではない。はたからは平穏無事に見えても、老人の中ではそれらの出来事や変化が波紋のように広がり、日常を脅かすのではないだろうか。そんな波紋が「流砂」には描かれているように思えた。

 老人の文学が気になったので、古井由吉の新作「この道」を読み始めた。本作は8篇の短編小説からなっている。文芸誌「群像」の2017年8月号から2018年10月号にかけて連載されたもの。一篇一篇は独立しているが、それらを通して、老人の日常というか、心象風景が描かれているように感じられる。

 「この道」には「流砂」のようなドラマ性はない。淡々と想念の赴くままに筆を走らせている、と感じられる文体だ。もちろん大作家の文体なので、想念の赴くままに、などということはありえないので、言い直すと、老人の心象風景が伝わるような文体を、技巧を凝らして作り上げたものだろう。

 黒井千次も古井由吉も「内向の世代」と呼ばれた作家たちだ。今それらの作家たちが80歳代に入り、類例のない(といってよいかどうか、ためらいもあるが、とりあえず一つのムーブメントとして)老人文学を発表するようになった。それは超高齢化社会に突入した我が国が求めているもののようにも思える。

 一方、美術に目を転じると、わたしは2月初めに富山県水墨画美術館で「愉しきかな!人生‐老当益壮の画人たち‐」展を見た。80歳代はまだ若い方、90歳代、100歳代の「老いてますます盛んな」画家たちの絵画の数々。奥村土牛、片岡球子などの奔放で力強い筆致もまた老人の一つの典型かもしれない。

 だが、それらのポジティヴな老人芸術とは別に、残念ながら音楽で(それは作曲ではなく、演奏なのだが)ネガティヴな経験もした。誰それと名前をあげるのは憚られるが、ある指揮者の演奏は、わたしには老人の自己愛を感じさせる演奏だった。その指揮者の平穏な日常に浸った演奏のように感じられた。

 では、かくいうわたしは、どういう老年を迎えるのかというと‥。
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マックス・リヒター「インフラ」「ブルー・ノートブック」

2019年03月10日 | 音楽
 1945年3月10日の未明に東京大空襲があった。一夜にして約10万人が亡くなったというその犠牲者を悼んで、毎年墨田区では「すみだ平和祈念音楽祭」が開かれている。今年はドイツ生まれ、イギリス育ちの作曲家マックス・リヒター(1966‐)の特集が組まれた。

 リヒターはヴィヴァルディの「四季」のリコンポーズで知られるが、わたしはそのリヒター版「四季」を知ったとき(あれは何年前だったろう)、リコンポーズという概念・手法にびっくり仰天したものだ(そのリヒター版「四季」はとても面白かった)。

 マックス・リヒター・プロジェクトと名付けられた今回の特集では、リヒター版「四季」も演奏されたが、わたしが足を運んだのは、リヒターの室内楽作品「インフラ」と「ブルー・ノートブック」の演奏会だった。

 会場のすみだトリフォニーホールに入ると、ステージはブルーとピンクの照明で彩られていた。多くの聴衆が写真を撮っていた。普通のクラシック演奏会とは異なるそのステージを見て、写真を撮りたくなる気持ちはよくわかった。だが、女性係員が「写真撮影、録音はお断りします」と言って歩いた。演奏中ならともかく、演奏前なら写真撮影くらいは認めてもよさそうなものなのに‥と思った。

 1曲目は「インフラ」だった。リヒター自身が弾くピアノとエレクトロニクスにアメリカン・コンテンポラリー・ミュージック・アンサンブルの弦楽五重奏が加わる。弦楽五重奏はシューベルトの弦楽五重奏曲と同様、ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ2の編成。ただしその弦楽五重奏はリヒターのピアノと同様に電気的に増幅される。

 全体の演奏時間は50分弱だったろうか。その間に短い曲がオムニバスのようにつながっていく。一曲一曲は昔の懐かしい映画音楽のように胸に沁みる。元々は英国ロイヤル・バレエのために書かれた曲。バレエのための曲と聞くと、なるほどと納得する部分がある。作曲のきっかけは2005年に起きたロンドンの地下鉄の爆弾テロだった由。

 2曲目は「ブルー・ノートブック」。楽器編成は「インフラ」と同じだが、サラ・サトクリフの朗読が加わる。朗読テキストはカフカのノートとミウォシュ(ポーランドの詩人・作家)の詩から採られている(ただし英訳)。音楽は「インフラ」よりも発展性があって聴き応えがあった。作曲のきっかけは2003年のイラク侵攻への想いだった由。

 わたし自身は、クラシック音楽を聴くときの習い性で、緊張して音を追ったが、これらの音楽はもっとリラックスして聴くべきだったと反省している。
(2019.3.9.すみだトリフォニーホール)
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亡父の呉海軍工廠時代

2019年03月07日 | 身辺雑記
 わたしの父は1917年(大正6年)に東京の羽田で生まれ、1998年(平成10年)に同地で亡くなった。満80歳だった。わたしが小さい頃は町工場で旋盤工をしていたが、わたしが中学生の頃にボール盤を購入して自宅で仕事を始め、しばらくして旋盤を購入した。亡くなる日まで仕事をしていたが、その日の午後に納品のため自転車で家を出たときに心臓発作に襲われ、そのまま息を引き取った。

 父は生前よく「戦争中は呉の海軍工廠にいた」と言っていた。「戦艦大和を見た。今度の艦は大きいなと驚いた」とも言っていた。そんな断片的な話がいくつか記憶に残っている。「戦争中はラジオに出てヴァイオリンを弾いた」とか、「広島の原爆のキノコ雲を見た。おれは原爆を知らなかったが、中には知っている人がいて、『あれは原爆だ』と言っていた」とか、「反戦ビラを見たことがある」とも言っていた。

 だが、いずれも断片的な話で、亡父の呉海軍工廠時代の全貌はつかめなかった。父が亡くなって久しいが、わたしはそんなモヤモヤした気持ちを抱いていたので、2018年1月に呉海軍工廠の跡地に行ってみた。

 そのときの訪問記をブログに書いたところ、それを読んだある方がコメントを寄せてくださった。その方は呉海軍工廠ゆかりの人々を訪ねた本(※1)を上梓している方だった。以後、その方とコメント欄での交流が続き(※2)、その方のご指導を受けて、わたしは亡父の軍歴照会を厚生労働省に行ない、先日その回答を得た。

 亡父は昭和16年(1941年)2月に国民徴用令により徴用され、呉海軍工廠製鋼部普通工員となり、昭和20年(1945年)9月に徴用解除(解傭)になったことがわかった。あわせて厚生労働省からは「呉海軍工廠徴工名簿(徴用工員・自家徴用)」の亡父の部分の写しが送られてきた。亡父の名が記載されているその名簿は、わたしには言葉にならないほど重かった。

 それらの事実をコメント欄でお伝えしたところ、その方(ハンドルネーム「フランツ」様)は驚くべき資料を教えてくれた。その資料は「つわぶき第48号」という会報誌で、そこに島根県立津和野高等女学校(当時)から呉海軍工廠の製鋼部(!)に学徒動員された方の手記が載っていた(「島根津和野高女から呉海軍工廠に動員される」)。

 その手記を書いた方は、呉海軍工廠製鋼部で旋盤を使ったというから、亡父と同じ職場にいた可能性が強いと思われる。また昭和20年8月15日に玉音放送を聞くために製鋼部本部に軍人、工員、学徒の順に並んだというので、その工員の中に亡父がいたことはまちがいない。わたしには亡父の姿が見えるような気がした。そんな思いがけない経験をさせていただいた「フランツ」様に心から感謝する。

(※1)書名は「ポツダム少尉‐68年ぶりのご挨拶‐呉の奇跡」(自費出版・非売品)。わたしは東京の大田区立図書館から借りた。全国では140か所の図書館に収蔵されているという。
大田区立図書館の該当ページ

(※2)2018年1月8日の「瀬戸内の旅(1):呉海軍工廠跡」のコメント欄で今までに合計30回のコメントのやり取りをした。
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ケストナー「エーミールと探偵たち」と「ふたりのロッテ」

2019年03月04日 | 読書
 ケストナー(1899‐1974)の「飛ぶ教室」(1933年)のみずみずしい感性に感銘を受け、また教えられることが多かったので、他の作品も読んでみようと思った。まず読んだのは「エーミールと探偵たち」(1929年)と「ふたりのロッテ」(1949年)。ともにワクワク、ドキドキしながら読んだ。

 両作品はある面で対照的だった。ケストナーの児童文学第一作の「エーミールと探偵たち」は、徹底して子どもたちの目線で書かれている。子どもたちの不安と冒険心、そして大人たちへの警戒心など、子どもたちの世界で完結する。大人の「上から目線」は入り込む隙がない。それは潔いくらいだ。

 一方、「ふたりのロッテ」は、子どもたちの大活躍によって変わる大人たちの物語だ。子どもたちの喜び、失望、そして絶望的な行動によって、大人たちが自らの至らなさに気付き、また自分を取り戻す。それは大人たちの成長物語だ。

 「ふたりのロッテ」は戦後発表された。わたしは同書が、戦争中はナチスから執筆禁止の迫害を受けたケストナーが、戦争が終わって、自由の空気を胸いっぱいに吸い込んで書いた作品だと思った。だが、解説を読んで、それが戦争中に映画の脚本用に書かれたことを知った。映画は制作されなかったので、その脚本を戦後になって児童文学として発表したものだった。

 著書がナチスの焚書の対象になるなど、弾圧下にあったケストナーが、よくあれほど明るい、清新な、人間への愛と信頼に満ちた作品を書けたものだと驚くほかはない。おそらくケストナーの強靭な精神力の表れなのだろう。

 わたしはさらに、児童文学以外にも、大人向けの「家庭薬局―ケストナー博士の抒情詩」と「ケストナーの終戦日記―1945年、ベルリン最後の日」を拾い読みした。どちらもおもしろかった。たとえば、終戦日記の中では、ケストナーがベルリンで目撃した水晶の夜(1938年)に触れて、同事件がナチスの自作自演だったことが生々しく語られていた。

 ケストナーはドレスデンのノイシュタット地区で生まれ育った。ドレスデンはわたしの好きな街で、何度か行ったことがある。わたしが歩き回るのは、歌劇場や美術館がある旧市街のほうだが、あるときエルベ川を渡って、ノイシュタット地区に足を踏み入れたことがある。そのとき、ケストナーの記念館か何かの方向を示す標識を目にした。

 わたしは当時ケストナーの作品を読んでいなかったので、標識が示す方向へは行かなかった。今なら行ったのに、と悔やまれる。
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