Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

高関健/東京シティ・フィル

2024年09月07日 | 音楽
 高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。曲目はブルックナーの交響曲第8番の第1稿ホークショー版。ホークショー版は2022年に出版された。わたしは2010年にインバル指揮都響の演奏で第1稿を聴いたが、そのときはノヴァーク版だった。ホークショー版とノヴァーク版には「基本的な差異はない」が、ホークショー版は「ノヴァーク版に残る約400個所の錯誤を訂正したとのことである」(プログラム・ノート(注)に掲載された高関健のエッセイより)。

 インバル指揮都響で聴いた第1稿の衝撃は大きかった。そのときの記憶が残っている。それ以来久しぶりに第1稿を聴いた。インバル指揮都響のときの記憶とすり合わせ、また通常演奏される第2稿との違いを追った(音の違いが無数にある)。

 いうまでもないが、第1楽章の末尾は第2稿では静かに終わるのにたいして、第1稿ではトゥッティの激しいコーダがつく。インバルのときは(予備知識はあったが)そのコーダで腰の抜ける思いがした。今回は「ブルックナーならこう考えるかも」と思った。第9番の第1楽章のコーダがそれと同じだからだ。でも、だからこそ、静かな終わり方をブルックナーに進言した弟子たちの慧眼を思った。

 第2楽章のトリオの前半部分は、第1稿は第2稿とだいぶ違うのに、なぜかインバルのときの記憶は残っていない。たぶん分からなかったのだろう。今回も、もやもやと音がうつろい、どこに行くのか、つかめなかった。

 以上の第2楽章まではオーケストラの音がまとまりに欠け、(読書にたとえれば)字面を追うような演奏だった。読書の醍醐味は作品の中に没入して、ストーリーに流されるところにあると思うが、そのような音楽の流れは生まれなかった。

 だが第3楽章に入り、第2稿と変わらない冒頭部分が始まると、音に陶酔感が生まれ、ぐっと音楽の中に入っていけた。第3楽章の冒頭部分はブルックナーとしても特別な霊感がはたらいた箇所ではないだろうか。この部分だけ使われる3台のハープがその証だ。クライマックスでの第1稿の3回+3回のシンバルは、インバルのときは仰天したが、今回は素直に聴けた。第4楽章は第3楽章で生まれた音のまとまりが継続して、長大な第1稿だが、その長大さに説得力があった。

 高関健の上掲のエッセイによると、交響曲第8番の場合は第1稿といえども弟子たちの介入があったようだ。第1稿はブルックナーのオリジナル、第2稿は弟子たちの介入という図式は成り立たない。わたしは藪の中を手探りする思いで第1稿を聴いた。
(2024.9.6.東京オペラシティ)

(注)プログラムノート

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