キリスト教の世界観・価値観が支配していた中世。
そんな中世のキリスト教に反旗を翻す勢力がある。
この物語は絶対的権威を持つ中世のキリスト教とそれに異を唱える者たちのドラマだ。
では異を唱える者たちとは誰か?
まずは異端者たち。
修道院のサルヴァトーレやレーミオ。彼らは密かに異端であるドルーチェ派を信仰している。ドルーチェ派は黒猫や黒い鶏を使って儀式をするなど、悪魔崇拝に近い教義。
しかし異を唱える勢力は異端者だけではない。
熱心に信仰していると見える修道院の僧たちも悦楽に耽っている。
ある者は男色を楽しみ、ある者は自らの体を鞭打ち、ある者は村の女と交渉を持つ。
ショーン・コネリー演じる主人公ウィリアムはフランチェスコ派だが異を唱えるという点では同じだ。彼とフランチェスコ派の仲間は現状の教会のあり方に異を唱えている。
彼らの主張はこう。
「現在の教会は富を蓄え民を苦しめている。それは違う。僧侶は財産を持たずに清貧であるべきだ。自ら持っている富を民衆に分け与えるべきだ」
なぜ、この様な異を唱える動きが出て来るかと言えば、現状の教会の権威・力が大きく重苦しいからだ。
人間は抑圧されれば、それから解放されたいという欲望を持つ。
その解消の仕方が、異端信仰であり、男色であり、新しい教義の探求(=フランチェスコ派)であるわけだ。
陰と陽の対立と言ってもいい。
物語はこの様に絶対的権威を持つ教会とそれに反する勢力という対立軸で展開されていく。
修道院内で起こる連続殺人事件もこの対立構造に起因している。
現在の教会に異を唱える勢力があれば、教会はそれを力で抑え込もうとする。
ネタバレになるので詳しく書かないが、犯人の殺人の動機は「反教会勢力の抑え込み」である。
キイとなるのは「アリストテレスの詩書 第2章」。
ここで描かれていることが公になれば、信仰は失われ世の中はカオスに陥ると犯人は考えている。
この様にこの作品の優れている所は「当時の社会の対立・矛盾をひとつの修道院の中に集約させ、さらに殺人事件として描いたこと」にある。それが修道院という特殊な舞台装置と相まって独特のエンタテインメントとして結実した。
もっとも犯罪は社会の矛盾を一番顕著に映し出す鏡であり、犯罪の動機を追及していけば社会が反映されるのは当たり前と言えば当たり前なのだが。
そして目を転じて、現代のミステリーが何を社会の矛盾として描いているかを考えてみるのも面白い。
さて、この作品のもうひとつ面白い点は、人間の情欲について描かれていることである。
修道士は女人との交渉を禁じられている(女は男の魂を奪うと信じられている)が、ウィリアムの弟子のアドリは村の娘に迫られて姦通の罪を犯してしまう。
その時のアドリのリアクションが面白い。
彼は罪の意識に悩みながら、一方で思う。
女性は実に神々しい。
恋に似た感情を抱き、彼女を貧しさから救い、魔女の汚名を着せられた彼女を救いたいと思う。
このアドリの思いには師であるウィリアムも適切な指導ができず、こう話すのみである。
「神が美徳を与えずに女を作ったとは思えない」
「ただし情欲のない生活は平穏だ」
このせりふにはウィリアムの限界が示されている。
逆に娘に心ときめかしたアドリは新しい世代の代表と言える。
アドリは名も知らない村の娘を忘れられない存在として一生思い続ける。
現代の心象に近い若者とも言えるだろう。
★追記
異端審問官のベルナール・ギーは教会権威そのものである。
彼の言葉は絶対で異を唱える者は異端のレッテルを貼られ、罪を問われる。
この抑圧の象徴である彼は「殺人者は別にいる」と主張するウィリアムを弾劾するが、修道院の塔が火事になり村人の暴動が起こった時、村人に殺されてしまう。
過剰な抑圧は反動を呼び、やがて自分に返ってくるのだ。(「風林火山」の信虎などもそう)。
そんな中世のキリスト教に反旗を翻す勢力がある。
この物語は絶対的権威を持つ中世のキリスト教とそれに異を唱える者たちのドラマだ。
では異を唱える者たちとは誰か?
まずは異端者たち。
修道院のサルヴァトーレやレーミオ。彼らは密かに異端であるドルーチェ派を信仰している。ドルーチェ派は黒猫や黒い鶏を使って儀式をするなど、悪魔崇拝に近い教義。
しかし異を唱える勢力は異端者だけではない。
熱心に信仰していると見える修道院の僧たちも悦楽に耽っている。
ある者は男色を楽しみ、ある者は自らの体を鞭打ち、ある者は村の女と交渉を持つ。
ショーン・コネリー演じる主人公ウィリアムはフランチェスコ派だが異を唱えるという点では同じだ。彼とフランチェスコ派の仲間は現状の教会のあり方に異を唱えている。
彼らの主張はこう。
「現在の教会は富を蓄え民を苦しめている。それは違う。僧侶は財産を持たずに清貧であるべきだ。自ら持っている富を民衆に分け与えるべきだ」
なぜ、この様な異を唱える動きが出て来るかと言えば、現状の教会の権威・力が大きく重苦しいからだ。
人間は抑圧されれば、それから解放されたいという欲望を持つ。
その解消の仕方が、異端信仰であり、男色であり、新しい教義の探求(=フランチェスコ派)であるわけだ。
陰と陽の対立と言ってもいい。
物語はこの様に絶対的権威を持つ教会とそれに反する勢力という対立軸で展開されていく。
修道院内で起こる連続殺人事件もこの対立構造に起因している。
現在の教会に異を唱える勢力があれば、教会はそれを力で抑え込もうとする。
ネタバレになるので詳しく書かないが、犯人の殺人の動機は「反教会勢力の抑え込み」である。
キイとなるのは「アリストテレスの詩書 第2章」。
ここで描かれていることが公になれば、信仰は失われ世の中はカオスに陥ると犯人は考えている。
この様にこの作品の優れている所は「当時の社会の対立・矛盾をひとつの修道院の中に集約させ、さらに殺人事件として描いたこと」にある。それが修道院という特殊な舞台装置と相まって独特のエンタテインメントとして結実した。
もっとも犯罪は社会の矛盾を一番顕著に映し出す鏡であり、犯罪の動機を追及していけば社会が反映されるのは当たり前と言えば当たり前なのだが。
そして目を転じて、現代のミステリーが何を社会の矛盾として描いているかを考えてみるのも面白い。
さて、この作品のもうひとつ面白い点は、人間の情欲について描かれていることである。
修道士は女人との交渉を禁じられている(女は男の魂を奪うと信じられている)が、ウィリアムの弟子のアドリは村の娘に迫られて姦通の罪を犯してしまう。
その時のアドリのリアクションが面白い。
彼は罪の意識に悩みながら、一方で思う。
女性は実に神々しい。
恋に似た感情を抱き、彼女を貧しさから救い、魔女の汚名を着せられた彼女を救いたいと思う。
このアドリの思いには師であるウィリアムも適切な指導ができず、こう話すのみである。
「神が美徳を与えずに女を作ったとは思えない」
「ただし情欲のない生活は平穏だ」
このせりふにはウィリアムの限界が示されている。
逆に娘に心ときめかしたアドリは新しい世代の代表と言える。
アドリは名も知らない村の娘を忘れられない存在として一生思い続ける。
現代の心象に近い若者とも言えるだろう。
★追記
異端審問官のベルナール・ギーは教会権威そのものである。
彼の言葉は絶対で異を唱える者は異端のレッテルを貼られ、罪を問われる。
この抑圧の象徴である彼は「殺人者は別にいる」と主張するウィリアムを弾劾するが、修道院の塔が火事になり村人の暴動が起こった時、村人に殺されてしまう。
過剰な抑圧は反動を呼び、やがて自分に返ってくるのだ。(「風林火山」の信虎などもそう)。