物語の概略はこう。
写真家の猛は、母の一周忌で帰郷した。父と折り合いの悪い彼だが、温和な兄・稔とは良好な関係を保っている。翌日、猛は稔、そして幼馴染の智恵子と渓谷へと向かった。智恵子が見せる「一緒に東京へ行きたい」という態度をはぐらかして、一人で自然へカメラを向ける猛。そんな彼がふと吊橋を見上げた時、橋の上にもめている様子の稔と智恵子がいた。そして次の瞬間、そこには谷底へ落ちた智恵子に混乱する稔の姿だけがあった…。(goo映画より)
稔(香川照之)は家・家業を守って来た男。
そのためにはまわりの人間に頭を下げ、気を遣いまくってきた。
彼は自分に嘘をついている。
本当は頭も下げたくないし、強圧的な父親の小言も聞きたくない。
それゆえ抑圧されている。
バランスのとれたいい人を演じているが、心の中はドロドロだ。
そんな抑圧された心が爆発する。
密かに思っていた智恵子(真木よう子)の拒絶された時だ。
智恵子は都会に憧れる女、弟の猛(オダギリジョー)に憧れ渓谷に3人で行った前日、猛に抱かれた。
抱かれたことを稔に覚られたと感じた智恵子は稔の狂気を感じる。
そして吊り橋の上で拒絶する。
稔にして見れば悔しくてしょうがない。
こんなに地道に誠実にまわりに尽くしているのにどうして自分は報われないのか?
想っていた智恵子は母の一周忌でぶらりと帰郷した猛にとられた(これを稔は猛の嘘、「智恵子と酒を飲んできた」と言ったことから認識する。智恵子は酒を飲めないのだ)。
そしてとられたばかりでなく、「触らないで」と拒絶された。
日常に潜む狂気。
稔という人物はそれを現している。
そして事件。
智恵子が吊り橋から落下して死亡。
稔が故意に突き落としたか、事故で落ちたのかが争われる。
猛は事故で落ちたことを裁判で立証しようとする。
それは兄を守る行為。
猛は稔が智恵子を突き落としたことを目撃している。
一方、稔はこう証言。
智恵子に拒絶されて怒りに駆られて突き倒したのは事実。
ただ智恵子はその時にバランスを崩して吊り橋から落ちてしまった。
自分は突き落としたわけではない。
錯綜する事実。
猛が目撃したこと(=突き落としたこと)が正しいのか?
稔が証言したこと(=バランスを崩して落ちた)が正しいのか?
裁判は、突き落としたことは猛が隠していたため問題にされず、稔の行為に殺意があったかなかったが争われる。
検事は問う。「智恵子は死ぬ前日、男と性交渉を持っていた(猛とのこと)。あなたはそれを知って凶行に走ったのではないですか?」
そしてここでもう一度、稔の心の中。
稔にしてみれば、自分は有罪になりたいと思っている。
理由のひとつは亡くなった智恵子への贖罪。
もうひとつは今まで自分を縛りつけていたものからの解放。
稔は有罪になれば、地域の人間から冷たい目で見られこの町を出られると思っている。新しい自分にリセットできると思っている。
一方、弟・猛の心の中。
彼は稔が智恵子を突き落としたと確信している。
それゆえに兄を守ろうとしている。
しかし兄の中の醜い心・ドロドロした感情を知っていくうちにもとの兄に戻ってほしいと思う。
それゆえ公判の最後で「兄が突き落としたのを自分は目撃した。罪を償ってもとの正直な兄に戻ってほしい」と証言する。
そして数年後、兄の刑期が終わろうとする頃、自分の思い違いを認識する。
兄の手には智恵子のひっかき傷があった。
それは智恵子を助けようとしてできたもの。
兄が公判で証言したこと(突き倒したが、突き落としてはいない)が真実だったのだ。
この様に様々に揺れ動く人物の心情。
この作品は人間のコミュニケーションの不確かさを描いている。
人の心には様々な欲望、思惑があり絶えず揺れている。
そして揺れ動くがゆえにすれ違う。
互いが揺れているのだから、なかなか交わることがない。
ラストの稔の笑みをどう解釈するかは意見がわかれている様だ。
兄弟の再生ととる人もいる。
僕はあの笑みにコミュニケーションできない絶望と諦めを感じてしまう。
『自分は街を出たいと思っているのにどうして迎えに来たのか?放っておいてくれ。どうして俺の気持ちをわかってくれないんだ』とあの笑みは語っている様に感じてしまう。
ラストの解釈がわかれる所も「コミュニケーションの不確かさ」を現しているのかもしれない。
それは見る人の人生観によってそれぞれに解釈されるものだからだ。
写真家の猛は、母の一周忌で帰郷した。父と折り合いの悪い彼だが、温和な兄・稔とは良好な関係を保っている。翌日、猛は稔、そして幼馴染の智恵子と渓谷へと向かった。智恵子が見せる「一緒に東京へ行きたい」という態度をはぐらかして、一人で自然へカメラを向ける猛。そんな彼がふと吊橋を見上げた時、橋の上にもめている様子の稔と智恵子がいた。そして次の瞬間、そこには谷底へ落ちた智恵子に混乱する稔の姿だけがあった…。(goo映画より)
稔(香川照之)は家・家業を守って来た男。
そのためにはまわりの人間に頭を下げ、気を遣いまくってきた。
彼は自分に嘘をついている。
本当は頭も下げたくないし、強圧的な父親の小言も聞きたくない。
それゆえ抑圧されている。
バランスのとれたいい人を演じているが、心の中はドロドロだ。
そんな抑圧された心が爆発する。
密かに思っていた智恵子(真木よう子)の拒絶された時だ。
智恵子は都会に憧れる女、弟の猛(オダギリジョー)に憧れ渓谷に3人で行った前日、猛に抱かれた。
抱かれたことを稔に覚られたと感じた智恵子は稔の狂気を感じる。
そして吊り橋の上で拒絶する。
稔にして見れば悔しくてしょうがない。
こんなに地道に誠実にまわりに尽くしているのにどうして自分は報われないのか?
想っていた智恵子は母の一周忌でぶらりと帰郷した猛にとられた(これを稔は猛の嘘、「智恵子と酒を飲んできた」と言ったことから認識する。智恵子は酒を飲めないのだ)。
そしてとられたばかりでなく、「触らないで」と拒絶された。
日常に潜む狂気。
稔という人物はそれを現している。
そして事件。
智恵子が吊り橋から落下して死亡。
稔が故意に突き落としたか、事故で落ちたのかが争われる。
猛は事故で落ちたことを裁判で立証しようとする。
それは兄を守る行為。
猛は稔が智恵子を突き落としたことを目撃している。
一方、稔はこう証言。
智恵子に拒絶されて怒りに駆られて突き倒したのは事実。
ただ智恵子はその時にバランスを崩して吊り橋から落ちてしまった。
自分は突き落としたわけではない。
錯綜する事実。
猛が目撃したこと(=突き落としたこと)が正しいのか?
稔が証言したこと(=バランスを崩して落ちた)が正しいのか?
裁判は、突き落としたことは猛が隠していたため問題にされず、稔の行為に殺意があったかなかったが争われる。
検事は問う。「智恵子は死ぬ前日、男と性交渉を持っていた(猛とのこと)。あなたはそれを知って凶行に走ったのではないですか?」
そしてここでもう一度、稔の心の中。
稔にしてみれば、自分は有罪になりたいと思っている。
理由のひとつは亡くなった智恵子への贖罪。
もうひとつは今まで自分を縛りつけていたものからの解放。
稔は有罪になれば、地域の人間から冷たい目で見られこの町を出られると思っている。新しい自分にリセットできると思っている。
一方、弟・猛の心の中。
彼は稔が智恵子を突き落としたと確信している。
それゆえに兄を守ろうとしている。
しかし兄の中の醜い心・ドロドロした感情を知っていくうちにもとの兄に戻ってほしいと思う。
それゆえ公判の最後で「兄が突き落としたのを自分は目撃した。罪を償ってもとの正直な兄に戻ってほしい」と証言する。
そして数年後、兄の刑期が終わろうとする頃、自分の思い違いを認識する。
兄の手には智恵子のひっかき傷があった。
それは智恵子を助けようとしてできたもの。
兄が公判で証言したこと(突き倒したが、突き落としてはいない)が真実だったのだ。
この様に様々に揺れ動く人物の心情。
この作品は人間のコミュニケーションの不確かさを描いている。
人の心には様々な欲望、思惑があり絶えず揺れている。
そして揺れ動くがゆえにすれ違う。
互いが揺れているのだから、なかなか交わることがない。
ラストの稔の笑みをどう解釈するかは意見がわかれている様だ。
兄弟の再生ととる人もいる。
僕はあの笑みにコミュニケーションできない絶望と諦めを感じてしまう。
『自分は街を出たいと思っているのにどうして迎えに来たのか?放っておいてくれ。どうして俺の気持ちをわかってくれないんだ』とあの笑みは語っている様に感じてしまう。
ラストの解釈がわかれる所も「コミュニケーションの不確かさ」を現しているのかもしれない。
それは見る人の人生観によってそれぞれに解釈されるものだからだ。