平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

チャタレー夫人の恋人 捨てられた夫に感情移入

2010年04月01日 | 洋画
 戦争で下半身不随になった夫。
 妻のコニーは夫を愛そうと思うが、哲学と文学の日々を送る夫に退屈を覚える。
 性的にも満たされない。
 そこへ森の番人メラーズが現れて……。
 コニーは英国の上流階級の夫人だが、身分の差を乗り越えてメラーズを愛するようになる。

 「チャタレー夫人の恋人」をケン・ラッセル監督のテレビシリーズ全4話で見た。
 日本でもその衝撃的な内容で裁判が起こされたほど、ポルノグラフィックな作品。
 テーマは<肉体の歓喜>。
 コニーは肉体的に満たされ、心も満たされることで<本当の愛>を知る。<生きる喜び>を知る。
 いわば<性愛の讃歌><人間の解放>を謳った作品。

 テーマとしては正しいのだろうが、少しひっかかる点もある。
 捨てられた夫だ。
 夫は差別意識がありスノッブ。
 典型的な上流階級の人間として描かれているが、コニーのことは心から愛している。
 「性的に不能な自分との生活は退屈だろう」と気遣い、「愛する人が出来たら出て行ってくれ」と言いながら、コニーが出て行くことを怖れている。
 そしてコニーに「子供が出来た」と告白された時には、跡継ぎのために愛していない男と寝てくれたと思い込み、コニーのことを「現代のマリア様だ」と賞賛する。
 その後、子供の父親が上流階級の人間でなく使用人のメラーズだと知って激怒するが、少なくとも夫は妻を愛している。
 差別意識や跡継ぎの父親に上流階級の人間を望むのはブルジョワジーの彼としては当然で、それ以上を要求するのは酷だろう。

 この作品のラストは、コニーとメラーズがカナダに旅立つハッピーエンドで終わる。
 捨てられた夫に対するフォローはまったくない。
 夫が完全な悪として描かれていたのなら別だが、この点が気になる。
 それはフロベールの「ボヴァリー夫人」を見た時も同じ。妻を信じ続け、破産した夫のことが哀れでならない。

 「ボヴァリー夫人」「チャタレー夫人の恋人」が書かれた時代から時が経ち、男性は弱くなり女性は強くなった。
 そういえば熟年離婚というのもあった。
 男が女性を縛りつけようとすることが根本の問題なのだろうが、捨てられた夫に感情移入してしまうのは、そんな時代の反映だろうか?


コメント
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