近世奇人伝(伴蒿蹊,寛政二(1790) 年刊)巻
「僧契沖、附門人 今井似閑、海北若冲、野田忠粛。僧契沖、諱は空心、俗性下川氏、其の先は近江海生郡馬淵村に住す。祖父は左衛門元宣、加藤肥後侯に仕ふ。父は善右衛門元全、尼崎青山侯に仕ふ。師、寛永十七年庚辰、尼崎に生る。年甫めて五歳、母間はざま氏口から百人一首を授るに不日にしてよく記憶す・父も実語教を授るに又同じ。父母おどろきあやしみぬ。七歳、疾を患ひ巫医しるしあらず。師、密かに天満天神の號百遍を書くこと三七日、一夜霊神を夢む。自ら菅神の霊と称して曰く『汝が至誠を感じて病を除き命を延ぶ、他日僧となりて自らつとめよ』と。覚めて後、病癒へぬ。(奇しくも契沖の命日元禄十四年一月二十五日は初め天神の日でもあります。)夢中の事を説きて出家せむ事を父母に乞へども聴さずありしかば、自ら腥葷を断ちて常に佛號を称ふ。父母その志を奪ふことを得ず。遂にこれを許し、其の近き今里の妙法寺手定(正確には「丯定(かいじょう)」と思われる・講元)密師の弟子とす。時に十一歳。手定(丯定)ははじめ般若心経を授く。読むこと四五遍にしてそらに唱へ、かつ書す。十三歳、髪を薙ぎて高野山に登り東寶院快賢に学ぶ。賢、又法器として是を導き法を伝ふ(「密教大辞典・契沖」には「快賢に五部灌頂を受け、阿闍梨位に列す。時に年二十四」とあり)。やうやう時の為に請せらる。寛文二年檀越の請により津の国生玉曼荼羅院に住めり。院に住して其の城市に隣りかまびすしきをいとひ、壁上に歌を題して遁れ去り、一笠一鉢、意に任せて大和の諸名区に遊ぶ。長谷に到りては食を絶ち、念誦一七日、室生にては練行三七日に及ぶ(義剛遺事(「録契沖師遺事」高野山での友人の僧義剛著)には幻身をいとひてここに形骸を捨てむともせりといへり)。(密教大辞典には「その他、吉野・葛城等の山川霊域躋攀せざるなく」とあり)又高野山にのぼり、菩薩戒を円通寺快円にうけ、持律益々清苦す。泉州久井の里に往て、山水の奇を愛し、住めること年あり、三蔵を尽し、自他宗の章疏、及び儒典詩文集におきても渉猟せずといふことなし。従ひまなぶもの多し。又池田川の側に居て、徧く皇朝の実録古記をよみ、専国歌を好て、広く其書を探る。延宝 五年河内鬼住山延命寺覚彦に就て、安流灌頂をうけ、儀軌二百余巻を手づから書て、生駒山宝山寺に納む。同八年、本師丯定寂せるにより、遺命して妙法寺に住持せ しむ。師もとより好む所にあらざれども、其母氏老て此里にあるをもてやむことを得ずして往き、別に一室を寺の傍に構て孝養す。水戸西山義公、長流が果 さゞりし万葉の註を(同じ近世奇人殿に「隠士長流(下河辺長流)」として「若き時は下河辺彦六具平と名乗たり。和州宇田の産。父は小崎氏、いかなるゆゑにか母の氏を称へ侍ける。もとより妻子なくして、中年より 津のくに難波のかたはらに隠居をしめ、静に書をよみ、中にも歌学を好み、万葉集、古今集、伊勢物語などは暗記したり。其学問おのづから伝聞るをもて、大坂 の富人多く弟子となれり。生得、世に謟ぬ人がらにて、心のおもむかぬ折は富家のまねきにも応ぜず、訪来れる人にもものをもいはず、枕を高うしてあるひは眠 り、或は書をよみて、心にまかせて過しける。西山公水戸黄門光国卿。 其才を聞しめし召けれども、終にしたがはざりしかば、紙筆を賜りて、万葉の註を請たまふにも、こゝろに趣たる時は一首二首づゝ註して、又懈がちに侍りし まゝ、果さずして貞享三年丙寅六月三日に身まかり侍りぬ。春秋六十三歳。円珠庵の契冲師と交深かりければ・・」とあり。)、此阿闍梨におほせ給ふとて召しかども、これも亦固く辞して参らず。然れども公の古義を好たまふをよろこび、遂に万葉代匠記廿巻、総釈 二巻を作りて参らす。開巻第一首、雄略帝大御歌(籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも)に、「籠」の字の訓をしらず、「こ」とよみきたれるを加太と訓し、神代紀の無目堅間を証とす。西山公その卓見をよろこび、且其おぼす所に合ふことを奇とし給ひ、白金千両、絹三十疋を賜ひて是を労ふ。師、即寺院の修造に充、かつ貧乏のものを贍して、一も蓄へず。又古今余材抄を著す。「明石のうらの朝霧」の歌(「古今和歌集巻第九羇旅歌」(題しらず)(よみ人しらず)「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島かくれゆく舟をしぞ思ふ」)、古註眺望とし、或は行を送るとせるものを非とし、こは家山日に遠く、前程限なき波の上、朝霧朦なる間にたゞよふ旅懐を述ぶ、故に紀氏も覊旅部に納ると説く。義公これを読みたまひ、掌を抵て千古の発明とし、書をたまひて、一たび来まみえん事をしひ給しかども、林壑の性、公侯に謁するに慣はずとて遂に就かず。母氏歿するに至て院を退き、難波の東高津に居を卜す。(高津といへども甚僻地にして、ゑさし町と号く。いまも畠など多き處なり。予ことさらに往てしれり。) 円珠庵といふ。俗客を謝し、清修自適す。義公時に物を送り起居をとはせ給ふ事絶へず。此の公薨じ給ひて師もまた続ひて寂す。義公にあらずば師の高きをしらじ、師 にあらすば義公の選にあたらじ、其終も亦相須がごときもの、まことに千載の奇遇といふべし、と義剛は書けり。水府の儒士安藤為章、命によりてしばしば往来 し、説をうけ事をとふ。師、元禄十四年正月微恙にかかり、廿四日にいたりて病革る故、其徒に永訣を告げ、且疑ふ所を正さしむ。涌泉問ひて曰、「師、今阿字本不生域 に住せるや否や」。答曰「然り。およそ人平等にして差別あるべし」。泉曰「平等差別異なることなき歟」。曰「心平等といへども、事差別あり。差別の中心平等に当る。老僧がことこれを記せ」と。此一条、義剛遺事には病中の自記を挙ぐ。大意同ければ略す。 廿五日、定印跏趺を結びて逝す。時に六十二。庵後に葬る。師人となり寛厚、人を愛し、恭謙能く下る。然も密教の上に邪義を説く者あれば、是を聞きて避くる所なし。 其論辨当時有識といへども当がたしとぞ。且記憶比類なきことは、円珠庵にして万葉を説に、古今の事実、援引せる所の歌詠等、始より思慮に亘らずして綿々口に絶ず、連珠の函を出ずるが如し。或は人ありて師の古歌の記得をとふに、三千首以上自ら知らずと答ふ。著する所、厚顔抄三巻(古事記、日本紀の詠歌・童謡を註す)、 勢語臆断四巻、百人一首改観抄三巻、源注拾遺八巻、勝地吐懐篇二巻(予校合、且補を頭に記して書林に附す。近刻すべし)。 河社二巻、類字名所集七巻、名所補翼抄八巻、和字正濫五巻、代匠記二十巻、総釈二巻、古今余材抄十巻、以上、為章著す行実に出す所かくのごとし。又正濫の難に答ル書八巻、義剛遺事にいふ。此外予知る所、雑記、雑々記、新勅撰の評、二十一代集、古今六帖の校合をはじめ、物語の類ひに、此師の書入あるもの多 し。また其宗門の疏鈔若干巻、其徒につたふるとぞ。(密教大辞典には「門人に今井似閑・海北若冲・野田忠粛・入江共俊・如海・涌泉・理元などあり」)