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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

第二十九 問答決着章(「真言宗義章」真言宗各派聯合法務所編纂局 1916)等より・・・38

2019-02-07 | 頂いた現実の霊験

第二十九 問答決着章(真言宗各派聯合法務所編纂局 1916)等より・・・38

三密の功徳

問。三密の中意密一つだにあらば身・語の二密なくとも成仏することを得べし如何?

答。意業観念の一つにて成仏すといふは顕教の意なり、真言密教の義には非ず。総じて顕教は真如を体とする故に定を修して智を起こし智に依りて真如を証するを究竟の仏果とす。真如は無相平等の理なるが故にこの理を証する時、空寂に帰して虚空の如し、三密無尽の荘厳ある事無し。是即ち遮情の分際なり。真言の意は三密平等を諸法の体性とするが故に、三密双修して平等の三密を証する時、三密無尽の万徳を円満して法界曼荼羅を成ず。是即ち表徳の分際なり。高祖大師の御請来目録にいわく、「一心の利刀を翫(もてあそ)ぶは顕教なり。三密の金剛を揖(ふる)うは密蔵なり」と。秘蔵宝鑰にいはく「顕薬塵を払ひ、真言庫を開く」と。この文の意は、彼の顕教において智観の利刀を以て煩悩を断じて真如を証するは唯是れ差別の迷情を断じて無相の空理に入るものにして、未だ自心本具の曼荼羅荘厳を開見せざるがゆえにたとへば宝蔵を開かんとして其の戸口なで行きて戸の塵を払いたるがごとし。真言において三密の金剛を揮って微細難断の爾二の隔執を取り除き諸法本具の性徳を開見して無尽荘厳法界曼荼羅を成ずるはたとへば正しく宝蔵の戸を開きて其中にある七珍万宝を自在に受用するが如し、といふ意なり。この故に意業一つのみにては究竟の成仏の果を得ること能わざることを知るべし。

 

問。究竟の仏果は三密平等なりとも能入の修行においては三密の中に正助の不同あるべし。その故は顕密二教共に開悟を宗とす、しかるに覚悟の開不開は偏に意密観念の力によるべきことゆえ、身語二密は唯是開悟の方便と覚りたる故也。如何?

答。究竟の仏果、三密平等なれば能入の修行も三密双修なるべきこと正理なり。已に三密双修を必要とせば意密を開く時成仏せざるは勿論、語密を開きても身密を開きても成仏せず。三密相応して三密の智見同時に開けて成仏することを得るなり。然らば三密の中いずれが正行となりいずれが助行方便なりといふとも謂ふべからず。摩醯首羅(まけいしゅら、大自在天)の三目の如く、伊字三点の如く(梵字の「伊」は〇が三つ)、鼎の三足の如し。全く勝劣なり。しかるに覚悟の開不開は偏に意密の観念によるといふはなほこれ三密に浅深勝劣を存するものにて顕網の執見なり。真言にては決して許さざる所なり。

 

問。三密相応する時、三密の智見同時に開けて成仏すといふことなほ疑いなきに非ず。なんとならば三密相応する時、身語二密能く意密を助けて智見を開き断惑証理の功を施すには非ざるべし。若ししからば設ひ三密双修といふとも身語二密は尚ほ開悟の方便といふべし。如何?

答。三密平等なるが故に身語二密にも本より智見を具して断証の功を施すべし。しかるに三密別々なる時は成仏の大智見を生ぜず。三密相応する時はじめて成仏の大智見を生ずる也。

問。三密双修せずんば成仏せずといはば一密二密は功徳無しといふべきや?

答。和讃に「一密怠ることなくば増上縁の力にて三密双修の時至り終には仏果を証すべし」とあり。(真言安心和讃は以下の如し、「帰命頂礼薄伽梵 八葉四重の円壇は一切如来の秘要にて 衆生心地の仏土なり十方三世の諸聖衆は大日普門の別徳を開きて示しし尊なれば密厳国土の外ならず 浄瑠璃界の薬師佛 一宝世界の宝生尊 堪忍娑婆の釈迦如来 極楽世界の阿弥陀仏 普賢薩埵の歓喜国 文殊覚母の清涼山 観音大士の補陀落山 弥勒菩薩の都支多天 其の余の天宮阿修羅界 鬼畜地獄にいたるまで入法界のひとつにて如来大悲の施設なり ただねがわくは大日尊 神変加地の力にて密厳国土の荘厳を はやく我らに見せたまへ 八万四千の煩悩は即ち宝聚と聞くからに四重五逆の罪過も みなこれ功徳と照らすべし即身是佛に住すれば密厳海会現前し法身自楽の説法を常に聞くこそ嬉けれ稽首甚深三密門神力難思の真言王 本来不生の妙義にて金剛宝蔵開くなり無上菩提に登るには自性成就の真言を心にまかせてとなへよと如来は教えをたれたまふ釈尊無量の劫を経て寂後のこの身に至る時 六年苦行したまへど菩提を得ることならざりき爾時化佛のつげを受け鼻端に奄字を観じてぞ明星いずる後夜分に毘盧遮那仏とはなりたまふ真言陀羅尼によらずして佛となる説くならば三世の諸仏の妄語にてこのことわりぞなかるべし南無大師遍照尊(三辺

真言法のなかにのみ即身成仏するゆえに秘密の規則を説くぞとは龍猛菩薩の仰せなり

 百千万の真言のなかに光明神呪こそこの土の因縁殊勝にて霊験日々に新たなり四重八重十重罪悪心邪見のともがらの狂乱おんあの業報人この世に法門きくこともとなふることもならぬ身の死して三途におちぬればいつをか出離の期とやせん。かかる業報深重の悪趣の衆生を救うには光明真言加地土砂の他力の方便ばかりなり他作自受のことわりはたへてなきとは思へども広長舌にのべたまふ法門いかで偽らん南無大師遍照金剛(三反)

 念仏行の其の徳は夜灯の光に異ならず真言加誦のちからをぞ月日の光と説き給ふ末法澆漓のこのころも剃髪染衣の身の上は三密修行おこたらず利他の大悲を励むべし在家男女のともがらは家業のいとまあるときは夢の憂世を夢としてかならず真言となふべし一密怠ることなくば増上縁の力にて三密具足の時いたり終には佛果にのぼるべし。過去は過去とてうちすぎぬ未来は未来はるかなり現在はげむことなむばいかでか輪廻を離るべき

南無大師遍照金剛(三反)

二佛出世の中間に果報つたなく生るれど甚深秘密の法門に結縁するこそありがたき青龍阿闍梨の教誡に菩提を得るのは易けれど真言秘密にあふことの得がたきなりとぞのべたまふ

かかるとうとき妙法に、あうてむなしく過ぎ果てば、宝の山にいりながら、空しく帰るに異ならず、帰命両部界会尊、本願力を憶念し数多のわれらを摂取して密厳国土に安きたまへ

南無大師遍照金剛(三反))」)

大疏十一にいはく「初観の時は一字を見るに随って三事自然と現るなり」(大毘盧遮那成佛經疏卷第十一悉地出現品第六「心上亦有圓明及字。初觀之時。隨見一字三事自然現也。後時心中圓明上見本尊。本尊圓明上復見自身。如是互相照見無有障礙。名影像成就。此亦是非等引地也。次第二正覺句者。初觀本尊今但觀佛。」)と。覚鑁上人の 「五輪九字秘釈」にいはく「正成仏の時に三密を具す」(五輪九字秘釈「則三大僧祇越一念之a字。無量福智具三密之金剛」)。と。和讃の文はこれらの御釈に依りたるものにて誠に尽理の文なり。この文の意は或はただ真言を唱え或は唯だ印を結び、或は唯だ印真言を結誦するのみなりとも、これらの一密二密に修行が強力の縁となりて、機根純熟し三密双修の時至りて三密平等の果に契ふことを得べしといふなり。必ず初めより三密双修せずは成仏ならぬものならば阿字本不生、凡聖一如の観念などは阿闍梨より授かりたるのみにて誰人にも苦もなく観ずることのできるものならぬ故、学問などしたることなき愚鈍の輩には真言の修行は叶ふべからず、しかるに阿字本不生、凡聖不二の観念などは委しく細かに観念せずとも阿闍梨より聞きたるままを深く信じて唯だ尊きことと思ひ込みて其の上にて印を結びまた真言を誦すれば機根純熟の因縁となりて一歩一歩仏果に近ずき今迄己が智力に叶はざりし凡聖不二の観念も自ずから調いて速やかに成仏するなり。されば意密観念の伴わざる印真言も速疾成仏の因縁となることゆえ其の功、甚だ大なり。又大疏七に「若し但し口に真言を誦するのみにして其の義を思惟せざらんは、ただ世間の義理を成ずべし。豈に金剛の体性を成ずることを得んや」(大毘盧遮那成佛經疏卷第七入漫荼羅具縁品第二之餘「若但口誦眞言而不思惟其義。只可成世間義利。豈得成金剛體性乎。」)と。この文は真言を唱えて真言の字義を観念せずんば只だ世間の義理を成ずれども直に成仏して如来金剛不壊の体性を成就すること能わずと云ふなり。これは三密双修を勧めたる釈文ゆえこの如く仰せらることなれどもこの文を打ち返して意得するときは唯だ真言を唱えるばかりにて義理を観念せざるときは直に成仏すること能わざれども能く世間の義理を成ずることを得べしといふ意になるなり。世間の義理とは災難を払い、病気を除き、寿命を延べ、福徳を招き、家内安全子孫長久、怨敵退散、国家安泰、五穀豊饒、万民快楽等の利益をいふなり。又、慈氏菩薩の儀軌に印の功徳を説いて曰はく「復、次にこの法を若し奉持する者は、凡夫に在りて未だ煩悩を断ぜずと雖も、法力をもっての故に所作の処に随って彼の聖力に等しく、諸の聖賢及び諸の天竜八部神を駆使するに皆、あえて違越せず。法印の不思議なるを以ての故なり」(慈氏菩薩略修愈誐念誦法卷上慈氏菩薩略修愈誐入法界五大觀門品第一 并 序「復次此法若奉持者。雖在凡夫未斷煩惱。以法力故隨所作處。等彼聖力驅使諸賢聖及諸天龍八部一切鬼神。皆不敢違。以法印力不思議故也」)又いはく「若し𡲼嚕左曩(べいろしゃのう)の法印を以て己身を印すれば亦𡲼嚕左曩(べいろしゃのう)の身と成じ、乃至諸の菩薩摩訶薩を生ずべし。諸の天竜八部乃至人等の身も印する所にしたがって即ち本身となる。己を印し他を印するに皆本体三昧耶身と成じ、凡愚一切の聖賢天竜八部,諸鬼神及び尾那夜迦(びびなやか)は皆本尊の身と見じ、諸の護法明王等これがために親近して俱に相助けて悉地を成ぜしめ速やかに成就す(慈氏菩薩略修愈誐念誦法卷上慈氏菩薩略修愈誐入法界五大觀門品第一 并 序「若以𡲼嚕左曩法印印於己身。亦成𡲼嚕左曩之身。乃至應生諸菩薩莽賀薩埵。諸天龍八部乃至人等之身。隨所印相即成本身。印己印他。皆成本體三昧耶之身。雖凡愚不見。一切聖賢天龍八部諸鬼神及尾那夜迦。皆見本尊眞身。諸護法明王等。爲此親近倶相助成悉地速得成就」)と。この経文によれば一迷未断の凡夫と雖も本尊の印を結べば自身直に本尊の其の身となる。凡夫の目には見えざれども諸仏・菩薩・明王等は之を知見して行者を囲繞し護衛し相助けて悉地を成就せしめ給う。是れ実に印契不思議の力なり。凡そ印真言は何れの印、いずれの真言に限らず総じて皆この如き現当二世広大甚深の利益あることを深く信じて修行すべきことなり。

 

問。深く信じて印を結び真言を唱えるといはば意密観念すでにこの所に具足するに非ずや、なんぞ一密・二密と謂ふべけんや?

答。大疏一にいはく「菩提心とは白浄信心の義なり」(大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一「如説而行。乃至施功不已漸見前相。爾時於寶藏功徳。離疑惑心。堪能發起殊勝加行。故菩提心。即是白淨信心義也。釋論亦云。佛法大海信爲能入。」)と。最初発起の菩提心を信心というなり。その後、修行の時にある信心は是れ菩提心の相続なり。この信心相続の上に阿字不生、凡聖一如の義を観じ、真言の字相・字義を観じ、本尊の相好、浄土の荘厳、入我我入の相、等を観ずるを三密修行の中の意密観念というなり。大疏三にいはく「或は三昧を修するに乃ち女人の像、或は忿怒等の形を観ず、乃至行者この衆縁事相に於いて皆な諦信をもって之を行ずべし」(大毘盧遮那成佛經疏卷第三入眞言門住心品之餘「或修三昧乃觀女人之像或忿怒等形。或以水灌頂。或造作火壇。若欲以心識籌量。則加持之迹又不可見。自非具深信者。安得不疑惑耶。又此行者。於此衆縁事相。皆以諦信行之。」)と。故に信心と意密観念とは義おのずから別なることを知るべし。

 

 

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