福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Q,ご真言、お経は意味を考えながら唱えるべきか無心にとなえるべきか?

2014-01-20 | Q&A
Q,ご真言、お経は意味を考えながら唱えるべきか無心にとなえるべきか?
A,
ずっと以前御真言を唱える時、意味を考えながらとなえるのがいいのか無心にとなえるのがいいのか、どういうイメージ、観念のもとにとなえるのがいいのか、というご質問がありました。そのときの講師からは「どちらでもいいが、無心に唱えるのがいいのではないか」という趣旨のご回答があったように思います。しかし結論は密教の念誦はご本尊と一体のイメージをしながらとなえることが大切ということです。
1、 念誦の功徳、
栂尾祥雲師の「密教の生活、念誦法による修養」には、増一阿含経の『南無佛と唱えよ、釈師は最勝者である。彼能く安穏を施して諸の苦悩を除去すべし。』、観音経の『もしこの観自在菩薩の名を持するものあらば、たとひ大火に入るとも火焼くことあたわず。この菩薩の威神力によるが故である。もし大水のために漂はさるるもその名号を称せば即ち浅所を得ん』、観無量寿経の『十念を具足して南無阿弥陀仏と称す。仏名を称するが故に念念のなかにおいて、八十億の生死の罪を除き、乃至極楽世界に往生することを得 』を引いて念誦の功徳を述べています。
2、 念誦の種類もいろいろあります。栂尾祥雲師の「密教の生活、念誦法による修養」から引用します。
・ 浄土門の称名念誦・・念・聲互いに融合し、念念聲聲なんらの意義を考えることなしに繰り返し口称することにより、心が統一されて神秘感にひたるもの。
・ 字念誦・・・現前に本尊を観じ、本尊の心上に月輪を観じ、月輪の中に真言の字を照見し、其の色恰も淳浄の乳の如く、或は明珠を貫けるが如くにして一一に光明を放ち、其れが次第に行者(念誦者)の頂きより入り深く身分に遍じて無始以来の垢障を消除すと観ずる。
・ 聲念誦・・・次にこの真言の一一の字が次第に微妙の声を発して、金鈴のようにかすかに点々循環して絶えることなく聞こえそれが身中に徹して涼風が熱悩を除き去るが如く,きわめて清亮にして快味言うべからざる境地に入る。
・ 句念誦・・・真言の一一の字が微妙の音声をはっするに至れば、次にこの一一の字。一一の音声が集まりて語をなし、句をなし、それが全体として一真言であるとともにそのまま法身としての佛の全身である。恰も一一の相好、一一の福徳が聚り集りて色身としての佛を形成するが如くに法身としての佛を形成するが如くに、この真言句の実義の集まりが智身にして同時に法身たる佛の全身を構成する。この形色と音声と実義とを具足せる真言身を観ずるのを句念誦といふ。
・ 命息念誦・・・さらに行者の出入りの気息に随って真言の一一の字句を観じ、行者の口より出る真言の一一の字句が気息に従って本尊の臍輪より入りてその心月輪に至り、右に旋って列なり住するとともにそれがまた本尊の御口より出て行者の頂より入りえ心月輪に至り、右に旋って列なり住し、さらにそれが行者の口より出でて本尊の臍輪より入り、綿々として、水の流れるごとくに、出入りの気息に従って行者と本尊の間を流注し循環すると観ずるもの
・ 絶対念誦・・・(いままでのように本尊と自分を別に感じるのではなく)自身即ち本尊なりとの瑜伽に住し、宇宙に遍満せる全一としての本尊がそのまま行者の全身に表現して、三十二相、八十種好を具し、其の本尊としての行者の口より出る真言の実義が、本不生の全一としての実相を示すが如くに、内外の一切諸法,、一として本来不生の実体にあらざるなく、本尊も自心もすべて本来不生の実相の當体なることを観ずるのが絶対念誦。

このように色々な念誦がありますがそのときの自分の状態によりなかなかご本尊のイメージが湧いてこないこともあります。自分のコンデションをよほど整えてないと目標とする絶対念誦にはとどくことは難しいとおもいます。
自分の求聞持などの経験から考えると常日頃懺悔を徹底すると共に、神仏のありがたさ、畏れ多さを骨の髄から感じ、さらに衆生無辺誓願度の願いを強く持っていなければできない念誦と思われます。


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