福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

不条理を論う者あれば、逆に自己錬磨の種とする者もいる

2025-01-18 | 法話

「すべて手を挙げるのも、足を動かすのも、物を見るのも、考えるのも、ことごとく「生」そのものの動きであり、働きであるとともに、それは常に上下とか、高低とか、前後とか、左右とか、進退とか、遅速とか、さては見るものと見られるもの、考えるものと考えられるものとうように、いずれも矛盾対立(不条理)を離れることはできない
・・・この天地間のありとあらゆる一切のものは、何一つとして、矛盾対立を包蔵して居らぬものはないのである(此の世で不条理でないものはない)。  しかし一切のものが、この矛盾対立を蔵して居ればとて、それが必ずしもつねに嫉妬や排斥や闘争を招来するに限ったわけではない。・・矛盾対立(不条理)があるがために嫉妬したり、排斥したりして、悩みに悩みぬくものもあれば、自らを錬磨し、自らを昂揚し、自らを発展し向上せしむるものもあるのである。・・・かの水は舟を浮かべ、物を運び、人を助くるものであるけれども、またよく人を溺らすものである。火は家を焼き,災禍を与えるものであるけれども、またよく人を温め、人を生かすものでもある・・・。(真言宗読本、栂尾祥雲)」
(天地間の一切は不条理でないものはない.必ず死すべきものが生まれてくるということなど不条理中の不条理である。人はなぜ四苦八苦の中に人生を送らねばならないのかということも不条理である。そう云う不条理を批判してばかりで一生を送るのは救われがたい。すべての人は遁れ難い不条理の真っただ中で生きているのだが、さて自分はどうするのか・・・。)

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