妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・35
妙法蓮華経秘略要妙巻十普門品之四
二には別答を頌するに初めには七難に答ふるを頌するに十二。
初めには正しく第一の大火の難を頌す。(正とは長行にも第一にあり。今も第一にある故なり。又加ふるには非ざる故也なり。)
「假使興害意 推落大火坑 念彼觀音力 火坑變成池」
「假使」とは假に設る辞なり。長行の中の「若有設有」等と其の義同じ。
「興害意」等の八字(興害意 推落大火坑)は別して急難を彰す。長行には凡尒に「入大火」と云(「若有持是觀世音菩薩名者。設入大火火不能燒。由是菩薩威神力故」)。若し自ら誤りて入るは出やすきこともありぬべし、今は害する意樂を以て推落と云、故に入りて出難こと決定せり。是則ち至極失命の難を云なり。此の中に「興害意」とは害する意を起こす、是難の根源なれば先ず其の本を挙るなり。
「推落」とは正しく害する作業なり。
「大火坑」とは正しく難處を明かす。縦使小火なりとも是難なり。況や大火なるをや。假饒(たとひ)常の處の大火なりとも亦難なり。況や火の坑の出がたきをや。かくのごとくの難の中の最極の難なりといへも観音の神力を以て能く救玉ふと云て、聖應の大なることをあらはすなり。
「念彼觀音力」とは、念は謂く心念なり。
問、天台の義疏に長行の三毒の中の常念を釈すとして、常念とは乃ち是れ正念なり、煩悩を體達するに即ち是れ実際なり、能も無く、所も無しといへり(觀音義疏卷下隋天台智者大師説 弟子灌頂記「體達煩惱性無所有。住貪欲際即是實際。絶四句無能無所念性清淨。」)。今既に「念彼」と云て彼此を分つ。豈能く所を亡ずる正念ならんや。
答、圓妙の教は言浮かして意深し。文字を執して實義を失ふべからず。今「念彼」と云は其の義両向なり。若し佛、金口を以て説き玉ふに約して云はば、観音を彼とし佛を此とす。即是師弟を以て彼此を分かつ。更に今難ずる所に非ず。若し衆生の念ずるに約せば、彼は即ち観音、念は即ち衆生なり。是感(衆生なり。此なり。)應(観音なり。彼なり。)を以て彼此を分かつ。彼此異なるに似たれども法界悉く真性の一理なれば、理の一念に此圓融して具足す。衆生は自心中の観音を念じ、観音は菩薩の心中の衆生に應ず。能念所念皆是一心なり。彼比感應豈差別あらんや。然れども無差別(理)に即する差別(事)なれば、能所あることを妨げず。差別(事)即ち無差別(理)なれば正念なることを簡(きら)はず。畢竟万法皆自心の性徳なるが故に、修するに随って即ち彰る。慎んで悪を修すること勿れ。恐らくは悪道足下に現ぜん。偏に勤むらくは善を行ぜよ。善果目前に来らんのみ。
「火坑變成池」とは、正しく應の益を得ることを明かす。此れ則ち観音は諸法平等にして皆畢竟空寂の實相なることを悟玉ふが故に、水火無碍にして同一性なり。故に火を轉じて清涼の池とし玉ふ。凡夫は自心の迷執に封ぜられて知見自在ならざるが故に、大火とのみ見て苦とす。喩ば人は水と見るを餓鬼は火と見るが如し。是則慳恡の業力に心を覆れて水と見ること能はざるなり。又人は水と見て没溺の畏あれども、天は瑠璃寶と見て受用す。此又人の迷見に覆れて瑠璃と見ること能はざるなり。若し佛眼の知見に約せば、水に即して一切諸法と了達し玉ふが故に水とも見、火とも見、瑠璃とも見、宮殿とも見、乃至十界の有情の差相とも見て、前後次第にも見、又一時にも見玉ふ。是則ち圓融自在の知見に由れり。衆生は唯差別の一邊をのみ知りて圓融の大方を知らざるが故に地水火風皆難と成る。佛は差別(假)にも達し圓融(空)にも達し、又雙(ならべ)て達(雙照の中道)し又雙べて非し玉ふ(雙遮の中道)の故に煩悩生死に於いて大自在を得玉へり。今観世音は已に等覺無垢の大士として四十一分の圓融の知見を得玉へり。何ぞ火坑を變じて池となし玉はざらん。外道の有漏定の力、猶能く山を移し流れを止どむ。二乗の但空の無漏の定通力、亦能く空を履み歩み、無窮の神変を為す。今の菩薩の不思議の妙観の力、豈愚童凡夫の能く測るところならんや。復次にたとひ今日の凡夫なりとも、此の圓融の理を信解して四威儀に修観し歳月を累ねて功を積めば、自然に水火不二にして自在無礙なる境界に到るべし。豈必ずしも大士の神力にのみ關(あず)けんや。若し秘密趣に約して解せば地水火風空の六大は其の性円融無礙なるが故に地即ち水なり、水即ち地なり、水即ち火なり、火即ち水なり、火即ち風なり、地水火風空即ち識(識とは心なり)なるを以て、若し此の性徳に通達する時は(是大日の佛知見なり)地を履むこと水の如く、水を履むこと地の如し。火に入ること水の如く自由自在なり。故に寶筐印陀羅尼經に曰、若し悪人ありて死して地獄に堕して免脱の期なからんに、其の子孫ありて亡者の名を呼んで此の陀羅尼を誦すること纔に七遍に至らば洋銅熱鐵忽ちに變じて八功徳水と成って蓮華生じて其の足を承け、七寶の蓋、亡者の頂に覆ひ地獄の門破して菩提の道開け、其の蓮華飛ぶが如くに極楽世界に至り、初地、二地乃至等覚地を證することを得べしといへり(一切如來心祕密全身舍利寶篋印陀羅尼經「若有惡人死墮地獄。受苦無間免脱無期。有其子孫稱亡者名。誦上神呪纔至七遍。洋銅熱鐵忽然變爲八功徳池。蓮生承足寶蓋駐頂。地獄門破菩提道開。其蓮如飛至極樂界。一切種智自然顯發。樂説無窮位在補處。復有衆生重罪報故。百病集身苦痛逼心。誦此神呪二十一遍。百病萬惱一時消滅。壽命延長福徳無盡・・」https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjs2sTLhtSCAxW9slYBHaP6DRwQFnoECA0QAQ&url=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ffukujukai%2Fe%2F875fe0fd387b5ce22ffb6f867de44f59&usg=AOvVaw2e1b8SJbqft7b4_XSJHpwh&opi=89978449)
彼の六大無碍の實義は自即他なるが故に、我誦するところの真言、即ち亡者の誦するに成る。火即ち水なるが故に、洋銅熱鐵忽ちに變じて池水と成る。苦即ち樂なり。穢土即ち浄土なるが故に地獄を出て浄土に至る。凡即ち聖なるが故に地獄の衆生速に初地に至るものなり。真言陀羅尼には一一の文字に本より此の理を具足せざるが故に縦使浅観但信にして此の深理を了解すること能はずといへども、信心深くして疑惑することなく、念念相続し散乱を離れて修する時は其の中の一一の文字に無量の法門を具足するを以て、一字の真言能く無盡の功用を起こす。観音の名号を念じ真言を誦するも亦復かくの如し。真言の一一の文字皆無邊の妙義を具足せり。今且(しばら)く「おんあろりきゃそわか」(梵字)の真言(此は諸観音に通ず。又蓮華部心の真言と云。)に就いて略して其の字義を釈せば、初めに「おん」(梵字)字は三身の義、供養の義、帰命の義、流注不可得の義等なり。先の三身の義とは「おん」字の最初の點は是阿字なり。次の「う」(梵字)の形は譬喩不可得の「う」字(梵字)なり。上の圓點は是「ま」(梵字)字なり。故に守護國界主陀羅尼經に「おん」(梵字)字を釈するに、「あ」(梵字)は法身の義、「う」(梵字)は報身の義、
「ま」(梵字)は化身の義といへり(守護國界主陀羅尼經卷第九陀羅尼功徳軌儀品第九「所謂。唵字所以者何。三字和合爲唵字故。謂a婀u烏ma莽一婀字者。是菩提心義是諸法門義。亦無二義亦諸法果義。亦是性義是自在義。猶如國王黒白善惡隨心自在。又法身義。二烏字者即報身義。三莽字者是化身義。以合三字共爲唵字。」)「あ」(梵字)は本不生の義にして諸法の根本體性なれば法身とす。報身の無量の光明、無量の相好、無量の功徳は一切の物の譬とすべからざれば、譬喩不可得の「う」字(梵字)を以て報身とす。「ま」字(梵字)は吾我不可得の義なり。化身の一代の説法は一切衆生をして人法二我を断ぜしめんが為なれば「ま」字(梵字)を化身とす。
次に供養の義とは「おん」(梵字)字の本体たる「を」字は暴流の義とて諸法の流出する義なり。上の點は大空の義なり。大虚空の如くなる庫蔵より雲海の供養自然に流出するが故に供養の義とす。故に虚空庫菩薩は八供養の菩薩の能生根本にして而もこの「おん」(梵字)字を種子とす。次に帰命の義とは、「を」字は暴流の義なれば水の流れて少しも駐ることなきが如く諸法の前滅後生して住することなき義なるが故に、帰命の義とす。次に一切諸法流注不可得の義とは、流注とは上に云ふが如く生滅の義なり。諸の凡夫は一切諸法生滅変異すと見るが故に、花開くと見ては悦び(生)、花散るとみては惜しむ(滅)。男女生ずると見ては喜び(生)夫妻死すと見ては悲しむ(滅)。されども是は皆凡見を執するが故なり。實には一切諸法本有にして不生滅なりと知る時は(是則ち佛知見なり)生滅の見は皆諸法の實體に當らず。是を流注不可得の實義とす。然る時は此の流注不可得の義は普く一切諸法に往旦(ゆきわたる)るなり。又上の供養の義の時は一切の香華飲食等の五塵の供養、称名礼拝行道等の供養及び運心供養までも悉く此の「おん」字(梵字)に収まれり。故に真言門には一切の供養に皆此の一字を唱へて供養す。又日本の𦾔風として神明に供養を捧る時、長く引きて唱ふる言あり。是則ち「おん」(梵字)の音なり。是豈神道と佛法とに懸(はるか)に契へるに非ずや。二に「あー」字(梵字)は一切諸法本不生の義なり。本不生とは諸法本有にして始めて生ずるに非ずと云義なり。佛眼を開いて一切諸法不生不滅なりと照見する時は、衆生も有情も非情も浄土も穢土も佛法も世法も悉く皆本来本有にして此の「あ」字(梵字)に漏れたるは無し。十界の依正(自分自身の過去の業の報いとしてまさしく得られた有情の身心を正報といい、有情の生存のよりどころとなる山川草木などの外的な環境を依報)は皆此の「あ」字(梵字)の功徳の彼彼に彰れたるなり。又八万の聖教・百億の契經も皆此の「あ」字(梵字)の義を説き、亦此の「あ」(梵字)の音を轉じて無盡の文字と成せるなり。一切の真言陀羅尼の文字も皆「あ」字(梵字)本不生の義の支派なり。故に此の「あ」字(梵字)を誦ずる時は十方三世の諸佛菩薩、金剛、天等の真言を誦するに成る。又一切の諸佛所説の經教を誦するに成る。乃至世出世の諸法悉く皆修正顕現するなり。第(ただ)恨らくは迷見に閉じられて、智見(不生の智見)開くこと無きが故に目前に羅列し玉へる諸佛をも見ること能はざるのみ。(「あー」字(梵字)は金剛頂經に寂静不可得の義といへり(梵字悉曇字母釋義に「「あー」音阿去聲長引呼 一切諸法寂靜不可得義」)。されども右の傍點も亦是阿字なるが故に今は阿字について釈するなり。)三に「ろ」字(梵字)をいはば「ろ」字(梵字)の本体は一切諸法塵垢不可得の「ら」字(梵字)なり。塵垢とは煩悩は本心を汚すこと塵の如く垢の如くなるが故に尒云なり。不可得とは我等凡夫の日夜朝暮念念に起すところの百に九十九までは悪心なるが故に皆煩悩塵垢なり。偶ま一念の善心発起することあるも、有為有漏の善心にして更に諸法実相の無為無漏の心にあらず。然れば善心ながら是亦煩悩なり。然るにかくの如く念念の煩悩は今始めて起こるに似たれども、佛眼を開て知見するに實には本来本有にして法尒法然なり。此の位を塵垢不可得と云。是則ち今新たに起こると思ふは皆迷情の執着にして真実の佛知見に非ず。喩ば野狐の人を誑かして男女等の形を現ずるに本来野狐なりと知らざるものは實に男なり女なりと見て其に執着す。本と野狐なりと知る者は男女の變相も皆是野狐の相なりと知るが故に、更に男女の相に迷ひて實に執着することなし。今も亦かくの如し。諸法本不生なるが故に今始めて生ずるにあらずと知るものは、本来野狐なりと知るものの男女の相に驚かざるが故に執することなきがごとく、諸法生じ滅するといへども驚かず、煩悩生ずといへども驚かざるが故に其れに隨ふことなし。隨はざるは是自ら其の主人公と成りて彼の煩悩に使れざるものなり。煩悩に使はれざる者は却って能く煩悩を使ひて自家の具徳とす。此の故に欲触愛慢等の煩悩、皆其の體性を改めずして即ち曼荼羅の位に列なり、真言教教には其の理を以て煩悩即菩提と談ずるなり。是煩悩を轉じて菩提と成るには非ず、煩悩を微塵ばかりも改むるには非ざれども本有にして始めて生ずるには非ずと知るが故に。本有なる法は悉く佛智の境界なれば煩悩即菩提とは云なり。されども本有なりと云事を如実に知らざる間は煩悩即菩提の宗義しがたし。始めて生ずる物は是凡夫の迷情の上に生ずるが故に、迷見には有るに似たれども空華の如くにして本来無體なり。此の空花の如くなることを知らざるが故に自ら見出して亦自に執着す。かくの如く展轉して繫縛するが故に三界に輪廻して自ら苦しむなり。今「ろ」字(梵字)の塵垢不可得の字義に安住して此の字を唱ふる時は、一切の煩悩本有不生にして新起の煩悩は微塵ばかりも無し。然れば則ち一切の煩悩、法爾法然の體性に帰して煩悩する動用一部もなし。但し是は能く本不生の理に通達して観心自在なる人の唱ふる時のことなり。若し浅観但信の人はただ少分煩悩を休、悪業を滅する利益あるべし。四に「り」字(梵字)とは、此の「り」字(梵字)の字體は「ら」字諸法相不可得の義なり。傍の「い」點は自在三昧の義なり。先ず相不可得とは、相とは地水火風、青黄赤白等の相なり。若し佛知見に約すれば此等の諸相も皆本有にして更に新に起こるに非ず。然るを我等如きの底下の凡夫は、男女等の相新たに生ずと見るが故に、若し一人の女あって雲の鬟(みずら)、月の顔、花の姿、柳の腰、婀娜(あだ)とたおやかに嬋娟(せんけん。容姿のあでやかで美しい)とうるはしければ見るに心あこがれて迷亂顛倒す。春の日遅々たれども猶長からんことを思ひ、秋の夜曼曼たれども猶曙(あけ)んことを恐れて、晝夜に耽樂す(是は生の相始めて生ずると見る故なり)。然れども臘闌(ろうたけ)齢深けぬれば雲の髪も霜の頂と成り。柳の腰も九折(つずらおり)に成る時は、寵愛の心引替て厭離の思ひ日に切なり。是皆諸相始めて生ずと見て驚くが故なり。若し諸の相、本有にして更に今始めて美しき相あるにも非ず。始めて衰ふる相を生ずるにもあらずと知る時は、盛んなる顔にも著せず、衰へたる容をも厭はず、一切の相に於いて自在を得なり。若し諸相に於いて自在なるときは却って能く無量の妙相を現じ無量の光明を放ちて、又三乗六道の機に随て三十三身乃至無量の身相を變ずること自由自在なり。故に妙音品、観音品、地蔵十輪経等の普現色身は皆此の「り」字の自在現相の三昧なり。一切諸仏の現相神変も亦是「り」字の三昧なり。今日の我等も若し是の「り」字の實義を達悟し證得しぬれば観音と異なること無く、自在に身を現じて説法するなり。五に「きゃ」字(梵字)を云はば、一切諸法作業不可得の「きゃ」字(梵字)に「たつ」の畫(是生の義)を加へたり。しかるを「きゃ」(梵字)の字に書くことは「きゃ」字の上の横の一點を首に置くことは「あ」字をば大日経に第一命と説き玉ふが故に(大毘盧遮那成佛神變加持經持明禁戒品第十五「有情及非情 阿字第一命」)此の點即ち諸字の壽命なり。密教の深旨一一の字門即ち人體なるが故に諸字に咸(ことごとく)命點を具するなり。今「きゃ」字の上の命點を除くことは深意あり。観音は廣大の悲心を起こして無量劫の間衆生界に入て長に生死の中にあり。不取正覚の誓あるが故に是菩提の慧命を失へるに似たり。故に「きゃ」字の命點を缺せり(之上求菩提の作業を断絶する理あるが故に作業の「きゃ」字の命點を除くなり)然りといへども法性同體の大悲日を追って深くなる時は、我成仏すべしと云意なけれども任運自然に成仏するなり(同体の大悲とは十界は本来自心の性徳なるが故に本より佛と我と衆生と平等にして無二無別なり。然れども衆生は迷ふが故に佛と一體なることを知らずして生死に入りて苦を受く。今我、衆生も自身の如しと知るが故に偏頗なく一切衆生を度して成佛せしめんと大願を発す。是を同體の大悲と云。是則法性の一味なることを知りて、衆生と佛と我と同體の心に住して發すが故に爾か名くるなり。若し此の大悲深く成る時は心佛衆生三無差別の知見法性の底に徹するが故に自然に平等の知見を成満して妙覚の佛果を得るなり)。求めざれども自ら成佛するは、菩提の慧命を失ひながら還って慧命を得る理あるが故に、「きゃ」字の下に「たつ」點を加ふ。此の「たつ」の畫は生の義なれば慧命還生する義を顕はすなり。復次に「きゃ」字は上求菩提の作業の命根を失へる字なれば、是則死字なり。「たつ」の畫は生の字となり。半ば死し、半ば生る字なれば、是を半死半生の字とも云。故に此の字の音を呼ぶには「きゃ」と入聲に呼ぶなり。聲を促して呼べば全くは呼ばれぬ故に是半音なり。自體已に半死半生なれば音も亦半音なり。是則密教の聲字即實相の深義なり。六に「そは」字は一切諸法自他不可得の義なり。謂く上に云うが如く六大の體性に約すれば生佛迷悟因果自他等の諸法皆悉く一味平等なり。故に自他不可得と云。深く此の義に住するときは自身と観音と平等なるが故に加持感応す。自身即ち一切衆生なるが故に能く無量の身相を示現し無量の衆生を度す。七に「か」字は一切諸法因果不可得の義なり。上に云が如く迷悟生佛本来一體なれば、因と定執すべきやうも無く、果と定執すべきやうも無し。又諸法本有なれば因の當體即ち果なり。此の因種より芽を生じて次第に生長し遂に秋に至て實を結ぶは是果なり。然るに今年の果実を一分も動ぜずしてそのまま来年の種子とす。豈是因果一體なるに非ずや。能くこの因果不二の實義を解了するときは、我が口に唱ふる真言即観音の唱玉ふ真言なり。我が手に結ぶ所の印契即観音の結玉ふ身印なり。我が心に作せるとことの観想即観音心中の観想なり。此の故に世間出世の所願速疾に成就す。上の如くの義の故に「おんあろりきゃそわか」の真言を誦すれば三身の佛果頓に成就し(おん梵字)、一切の佛法を得(あ梵字)、一切の煩悩一時に佛地の万徳と轉じ(ろ梵字)、能く一時に無量の相好を現じて自在に他の為に説法し(り梵字)、能く同體の大悲を起こして而も自ら任運に成仏し(きゃ梵字)、他の一切衆生をして皆自身と同じく(そは梵字)、生佛一味解脱の境地に至らしむ(か梵字)。然るを我等愚昧にして此の深理を解せず偶(たまたま)微塵ばかり解すれども妄想のみ起て暫くも平等の心地に住すること能はざるが故に口には此の真言を誦すれども更に此の功徳を成就せず。若し一切の妄念を息て、無念無想にして誦せば無邊の功徳を成ずること掌を指すが如くなるべきものなり(無念無想とは一向に木石の如くなるには非ず、諸法平等の観に住して餘念なきを云なり)。
問、尒らば妄念を雑へて称名読経し真言を唱ふるは一向に利益なかるべきや。
答、假饒(たとひ)妄念の中に唱ふるとも、既に我真言を誦すと思ふて誦するが故に早佛の境界に一歩踏み入るる理あり。此の義有るが故に一分の功徳を得るなり。復次に其の心は如何様なるにもあれ、口に唱ふる真言に無量の功徳を具するが故に、一念なりとも信を起こして唱ふるには其の功徳空しからず。現生には利益なくとも當世には必ず薫發すべし。此の故に妄想繋縛の凡夫なりとて自ら卑みて自捨ることなかれ。文殊五字陀羅尼頌經に曰、或は一念を起こして我は是凡夫なりと言はば、三世の佛を謗ずるに同じ。法の中に重罪を結すと云へり(五字陀羅尼頌「或起於一念 言我是凡夫 同謗三世佛 法中結重罪」)。此の経文の意は無始より本有に十界を備たれば凡身と佛と本来不二一体なるを、我は是凡夫なりとのみ思つめて、生佛不二の實理を罔(なひがしろに)する時は自身本有の佛を隠没するに成るが故に、三世の佛を誹謗するに同じと説き玉へり(自身に三世の佛を具せるを誤りて自身に佛なしとおもふは是三世の佛を破するなり)。又三世の諸佛は皆此の凡身即佛の教をなし玉ふを以て出世の本意とし玉ふ。然るを我は凡夫にして佛に非ずと思ひつむるは是三世の佛の教えに背くなり。されども凡夫の妄想の任(まま)にして即佛の理に誇らば、又是大なる僻見なり。喩ば天子の子なれども、潦倒(おちぶれ)して民間に下り、垢衣を着、不浄の糞を掃ふ等の賤しき作業をなす時は少しも王の威なきが如く、凡夫も亦かくの如し。本体は佛を具たれども迷心に封ぜられたれば一分の了解もなく、愚痴暗鈍なり。此の分にては一切智人とは云ひがたし。彼の賤しき作業を改めて寶殿に登り王位に就いて大臣百官崇敬して命を聞く時、始めて王と云はるるが如く、今日の凡夫の差別の迷を閣(さしおい)て一味平等の知見豁開しぬる時、始めて佛とは号するなり。彼の王子の民間の肉身を改めざるが如く、今日の我等も亦復かくの如し。迷心に封ぜられるといへども佛性をば失はず、又成仏すれども強に凡身を改むるにも非ず(是は自行の成仏なり、化他の成仏には非ず)。唯一味平等の知見を成就すると(佛)、成就せざるとの(凡夫)異ばかりなり。此の一章は修行者の大要なれば繁言を顧みず此れを記すものなり。請ふらくは後生予を罪することなかれ。