今、世界の宗教は 7
迫害に抗するスーフィズム、チェチェン
荒木 重雄
またぞろチェチェンがニュースの表面に現れてきた。
8月、首都グロズヌイで人権活動家サドゥラエワ夫妻が武装集団に連れ去られ、翌日、車のトランクの中から無数の傷を受けた遺体で発見された。夫妻はチェチェン紛争の被害者を支援する非政府組織を主宰していた。その前月には、ロシアの人権保護団体メモリアルのチェチェン支部長エステミロワ氏が誘拐され殺害されている。現地では、これらうち続く人権活動家や住民の誘拐・殺害を、ロシアから治安の全権を委ねられたカディロフ大統領の私兵集団によるしわざと読んでいる。
他方、8月には、チェチェンに隣接するイングーシ共和国で警察署に突入した車が爆発し、警官ら百人以上が死傷した。今月に入ってからも、ダゲスタン共和国を含む北カフカス各地で連日、自爆テロや襲撃事件が続いている。こちらは押さえ込まれたチェチェン独立派の抵抗と目される。
チェチェンといえば、読者は、特殊部隊の突入で多数の犠牲者を出した02年のモスクワ劇場占拠事件や04年のベスラン学校人質事件を思い出されるだろう。これらに加え、ロシア各地で起きた多くの爆破事件などがチェチェン独立派によるテロとされ、「イスラム教徒チェチェン人即野蛮なテロリスト」のイメージが広められてきた。
◇◇4百年余の殺戮に耐えて
ロシア連邦内の一共和国チェチェンは、黒海とカスピ海を繋ぐ北カフカスの一角を占める地域である。この地に住む人々とロシアとの対立は根深い。
16世紀半ばのイヴァン雷帝による侵攻以来、チェチェンを含む北カフカスの人々は、ロシアの南下に抵抗してきた。とりわけ18世紀末からついにロシア帝国に併合される1859年までの戦いは激しく、この間にチェチェン人の半数が殺されたといわれる。
1917年のロシア革命後、ソ連ははじめ民族自治を掲げたが、スターリンが政権を握ると弾圧策に転じ、第二次大戦末期の44年には、対独協力の懼れありとしてチェチェン民族全員を中央アジアのカザフスタンに強制移住させた。移動中や移住地の劣悪な環境のために当時の人口の40乃至60%が死亡したといわれる。
57年には故郷への帰還を許されるが、そこにはすでロシア人が多数入植していた。
91年、ソ連の解体に際してチェチェンは、ドゥダエフ初代大統領のもと独立を宣言する。これは合法的な手続きを踏んでのことだが、94年、エリツィン元大統領は、分離独立阻止にロシア軍を侵攻させる。96年に一旦、停戦が実現するが、99年、権力欲に燃えるプーチン前大統領(当時首相)が制圧作戦を再開する。とりわけプーチン指揮の侵攻は徹底的な無差別壊滅作戦で、90年代初頭のチェチェン人推定人口百万人から、05年までに20万人が死亡した。
00年、独立派を破ったプーチン政権はチェチェンに傀儡政権を立て、その軍・警察による間接支配に移ったが、ゲリラ狩りと称して市民を拉致し、拷問や裁判なしの処刑、遺体投棄を繰り返し、こうした拉致による行方不明者は00年以来2万人を超えるという。
◇◇チェチェン人が守ってきたもの
4百年余の殺戮にも耐え、かれらが守ろうとしてきたものは何か。そのひとつは宗教であろう。
チェチェンにイスラムが入ったのは16~18世紀だが、それは、イスラム神秘主義ともよばれ、地元古来の宗教儀礼とも融合しやすいスーフィズムであった。スーフィーは、イスラムが一般に忌避する舞踊や音楽を積極的に活用し、旋回して舞う恍惚感のなかで神との一体感を求める。チェチェンの人々の旋舞はとりわけ熱狂的で、円陣をつくった男たちが手拍子を打ち床を踏み鳴らし、体を激しく動かして舞いつつ神を称える。この儀礼は、また、仲間同士の連帯感を高揚させるものでもある。
かねて王侯貴族や奴隷のような階級をつくったことはなく、長老のもとで村ごとの自治を行ってきたチェチェン人の性格を特徴づけるのは、平等意識と自由の気風、連帯意識と愛郷心であるという。自己犠牲や尚武の気風も加えられる。ロシアの作家ソルジェニーツィンはその著『収容所群島』のなかで、収容所においても服従を拒否し敵意を隠そうとさえせず、昂然と胸を張るチェチェン人に賛嘆の声を発しているが、それはかれらの誇りがなさせるわざであろう。
そうしたかれらの精神を解放させるのがスーフィズムに他なるまい。じつはこのイスラムの普及は18世紀のロシアへの抵抗のなかで急速に進んだ。そしてまた、宗教指導者シャイフ・マンスールや同じくイマーム・シャミール率いる18・19世紀の戦いでロシア軍を破ったのも、強制移住やエリツィン、プーチンの侵攻に耐えたのも、宗教により開花されるかれらの結束と誇りによってに他なるまい。
◇◇チェチェンを巡る米露の怪
では現在、ロシアがチェチェンの独立派にかくも強硬な姿勢をとるのは何故であろう。
ひとつには、多民族国家ロシア連邦内で他の少数民族に独立運動が波及することを懼れるからである。次に、世界有数のカスピ海油田から黒海沿岸に繋がるパイプラインの通り道にあたることである。第三には、権力者が失政を隠し、国民の不満を逸らし、求心力を高めるには、侵略戦争が最も安易で効果的な手段だからである。
「先のチェチェン戦争はエリツィン大統領再選のために必要であった。今回の戦争は、エリツィンが自ら選んだ後継者プーチン首相が世論調査で順位を上げるために必要とされている」と米下院で証言したのは、反体制物理学者アンドレイ・サハロフ博士の未亡人エレーナ・ボンネル女史であった。
「テロとの戦い」を掲げる米国は、だが、ロシアのチェチェン侵攻を容認した。しかし、ロシアがやっていることは「テロとの戦い」ではなく無差別殺戮であり「民族浄化」だと報道したロシアの女性記者アンナ・ポリトコフスカヤは、06年10月、モスクワ市内の自宅アパート・エレベーター内で、射殺体で発見されることとなった。
迫害に抗するスーフィズム、チェチェン
荒木 重雄
またぞろチェチェンがニュースの表面に現れてきた。
8月、首都グロズヌイで人権活動家サドゥラエワ夫妻が武装集団に連れ去られ、翌日、車のトランクの中から無数の傷を受けた遺体で発見された。夫妻はチェチェン紛争の被害者を支援する非政府組織を主宰していた。その前月には、ロシアの人権保護団体メモリアルのチェチェン支部長エステミロワ氏が誘拐され殺害されている。現地では、これらうち続く人権活動家や住民の誘拐・殺害を、ロシアから治安の全権を委ねられたカディロフ大統領の私兵集団によるしわざと読んでいる。
他方、8月には、チェチェンに隣接するイングーシ共和国で警察署に突入した車が爆発し、警官ら百人以上が死傷した。今月に入ってからも、ダゲスタン共和国を含む北カフカス各地で連日、自爆テロや襲撃事件が続いている。こちらは押さえ込まれたチェチェン独立派の抵抗と目される。
チェチェンといえば、読者は、特殊部隊の突入で多数の犠牲者を出した02年のモスクワ劇場占拠事件や04年のベスラン学校人質事件を思い出されるだろう。これらに加え、ロシア各地で起きた多くの爆破事件などがチェチェン独立派によるテロとされ、「イスラム教徒チェチェン人即野蛮なテロリスト」のイメージが広められてきた。
◇◇4百年余の殺戮に耐えて
ロシア連邦内の一共和国チェチェンは、黒海とカスピ海を繋ぐ北カフカスの一角を占める地域である。この地に住む人々とロシアとの対立は根深い。
16世紀半ばのイヴァン雷帝による侵攻以来、チェチェンを含む北カフカスの人々は、ロシアの南下に抵抗してきた。とりわけ18世紀末からついにロシア帝国に併合される1859年までの戦いは激しく、この間にチェチェン人の半数が殺されたといわれる。
1917年のロシア革命後、ソ連ははじめ民族自治を掲げたが、スターリンが政権を握ると弾圧策に転じ、第二次大戦末期の44年には、対独協力の懼れありとしてチェチェン民族全員を中央アジアのカザフスタンに強制移住させた。移動中や移住地の劣悪な環境のために当時の人口の40乃至60%が死亡したといわれる。
57年には故郷への帰還を許されるが、そこにはすでロシア人が多数入植していた。
91年、ソ連の解体に際してチェチェンは、ドゥダエフ初代大統領のもと独立を宣言する。これは合法的な手続きを踏んでのことだが、94年、エリツィン元大統領は、分離独立阻止にロシア軍を侵攻させる。96年に一旦、停戦が実現するが、99年、権力欲に燃えるプーチン前大統領(当時首相)が制圧作戦を再開する。とりわけプーチン指揮の侵攻は徹底的な無差別壊滅作戦で、90年代初頭のチェチェン人推定人口百万人から、05年までに20万人が死亡した。
00年、独立派を破ったプーチン政権はチェチェンに傀儡政権を立て、その軍・警察による間接支配に移ったが、ゲリラ狩りと称して市民を拉致し、拷問や裁判なしの処刑、遺体投棄を繰り返し、こうした拉致による行方不明者は00年以来2万人を超えるという。
◇◇チェチェン人が守ってきたもの
4百年余の殺戮にも耐え、かれらが守ろうとしてきたものは何か。そのひとつは宗教であろう。
チェチェンにイスラムが入ったのは16~18世紀だが、それは、イスラム神秘主義ともよばれ、地元古来の宗教儀礼とも融合しやすいスーフィズムであった。スーフィーは、イスラムが一般に忌避する舞踊や音楽を積極的に活用し、旋回して舞う恍惚感のなかで神との一体感を求める。チェチェンの人々の旋舞はとりわけ熱狂的で、円陣をつくった男たちが手拍子を打ち床を踏み鳴らし、体を激しく動かして舞いつつ神を称える。この儀礼は、また、仲間同士の連帯感を高揚させるものでもある。
かねて王侯貴族や奴隷のような階級をつくったことはなく、長老のもとで村ごとの自治を行ってきたチェチェン人の性格を特徴づけるのは、平等意識と自由の気風、連帯意識と愛郷心であるという。自己犠牲や尚武の気風も加えられる。ロシアの作家ソルジェニーツィンはその著『収容所群島』のなかで、収容所においても服従を拒否し敵意を隠そうとさえせず、昂然と胸を張るチェチェン人に賛嘆の声を発しているが、それはかれらの誇りがなさせるわざであろう。
そうしたかれらの精神を解放させるのがスーフィズムに他なるまい。じつはこのイスラムの普及は18世紀のロシアへの抵抗のなかで急速に進んだ。そしてまた、宗教指導者シャイフ・マンスールや同じくイマーム・シャミール率いる18・19世紀の戦いでロシア軍を破ったのも、強制移住やエリツィン、プーチンの侵攻に耐えたのも、宗教により開花されるかれらの結束と誇りによってに他なるまい。
◇◇チェチェンを巡る米露の怪
では現在、ロシアがチェチェンの独立派にかくも強硬な姿勢をとるのは何故であろう。
ひとつには、多民族国家ロシア連邦内で他の少数民族に独立運動が波及することを懼れるからである。次に、世界有数のカスピ海油田から黒海沿岸に繋がるパイプラインの通り道にあたることである。第三には、権力者が失政を隠し、国民の不満を逸らし、求心力を高めるには、侵略戦争が最も安易で効果的な手段だからである。
「先のチェチェン戦争はエリツィン大統領再選のために必要であった。今回の戦争は、エリツィンが自ら選んだ後継者プーチン首相が世論調査で順位を上げるために必要とされている」と米下院で証言したのは、反体制物理学者アンドレイ・サハロフ博士の未亡人エレーナ・ボンネル女史であった。
「テロとの戦い」を掲げる米国は、だが、ロシアのチェチェン侵攻を容認した。しかし、ロシアがやっていることは「テロとの戦い」ではなく無差別殺戮であり「民族浄化」だと報道したロシアの女性記者アンナ・ポリトコフスカヤは、06年10月、モスクワ市内の自宅アパート・エレベーター内で、射殺体で発見されることとなった。