福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は覚海法橋入滅の日です

2024-08-17 | 法話

今日は覚海法橋入滅の日です

南山第三十七世執行検校法橋上人位覚海傳  金剛峰寺沙門 維寶 編輯
「師諱は覚海、南勝と号す。但馬の国朝来郡の人なり。氏族未詳。夙に祝髪して内外の典籍を習ひ、晨夕に勤めて瑜伽の妙極を究む。ついに建の屋の興光寺の學頭となる。恭しく大師の旧跡を慕ひ、紀陽高野山に樊さいして勝地を求めて、草庵を構す。明師を選びて事業を受け、二転の妙果(菩提と涅槃)を期す。故に院に開敷華王の称号あり。生を北陸に受け、南山において励行す。故に自ら南方寶部南勝の名字を呼ぶ。南渓・南勝はみなこれ大悲萬行勤修寶部の内證と為す也。碩に大師深密の教義を学び、ひろく釈尊闡演(せんえん・・ひらくこと)の幽頤(ゆうい・・微妙な教え)を曉る(さとる)。三部五部(三部は胎蔵界の佛部・蓮華部・金剛部のこと。五部は、金剛界の佛部・宝部・金剛部・蓮華部・羯磨部のこと)の法水、心臓に淘湧し、五臓八臓の教風、器界に飄颻(ひょうよう・・つむじかぜ)す。大楽院寛秀法印の室に入って、受職灌頂の印璽を蒙り、瑜伽の奥義に徹し、常に最上無上の微密を談ず。闔山の浄侶を導引して四蔓(宇宙の森羅万象たる大・三・法・羯の曼荼羅)の覚蘂(かくずい・・覚心)を賁り(かざり)、普天の信人を誘提して三密の果実を授く。深慈亭毒(ていどく・・そだてやしなう)鄙少を漏らすことあるに非ず。宏悲憐愍ひとしく貴老に及ぶ。宝性の法性、正智の道範、その徳澤を受け、心南の尚祥、十輪の真弁(これらの四師はいずれも高弟。以下に解説)、彼の余光を挑く。しかるに法性等の四豪傑、同じく流れを一源に汲み、ともに心を三密にあそばしむ。覚海の金波を分って醍醐の法味を嘗む。しかるに四傑の所伝、同一なるあるに非ざるに似たる所以んはなんぞや。曰く、法性(密教大辞典に、「法性は高野山寶性院開基。高野山八傑の一人。正智院明任の神足にして神府独朗・慧辨利快。覺海法印に就きて宗義を究め三宝院憲深に従って、事相の源底を叩き、嘗って高野山に法性院を建てて密乗を宣揚す。仁治三年大伝法院方と金剛峰寺方の争闘に連座し、出雲国に配流され寛元三年十月二十一日に謫地にて寂。師常に道範等に語って曰く「二十一日は高祖入定の日なり。我必ず其の日を以て逝化せん」と。はたしてその言の如し。傳へいふ法性の足下に大師の字紋あり。門弟以て大師の分身となし、その肖像を大師の真影と斉しくす。門人その遺跡を額して法性院といひ、後に「法」を「寶」となし「寶性院」となす。」
の如きは唯、海師の深義を用ひ、真辨(13世紀。高野山八傑の一人。十輪院に住して講席を張り、學誉高し。高野山検校を二度勤める。)はすなわち浅略の義を編み、道範(高野山正智院の学匠。高野山八傑の一人。正智院明任に随いて剃髪、その後明任より具支灌頂を受け、華王院覺海に宗義を問い、禅林寺静遍並びに金剛王院實賢に受法、御室守覺法親王に就いて廣澤流の源底を尽くす。かくて高野山に帰り、中院流の極秘を明任に受け、正智院に住し法幢を樹立す。仁治四年大伝法院事件に坐し讃岐に配流される。道範すなわち大師の旧跡を巡礼し、また善通寺に寓して講席を開き遠近の道俗その化益を蒙らざるなし。謫居七年、赦に遭ひて歸山、旧居寶光院に住すも建長四年五月二十二日寂す。壽七十五。
及び尚祥は深浅両義あわせて述ふ。弁深を傳へざるに非ざるなり。性なんぞ浅をもらさんや。範等の四豪、各々海師の瓶水を汲みて、全く各自の諸器に潟ぐなり。四資ともに密象の全体を伝えたり。だれか箕帚(きそう・・みの、ほうき)の異執を謂んや。ついに我が朝順徳院建保五年1217丁丑にあたって、執行検校法橋上人の位に擢らる(抜擢された)。六年戊寅、高野と吉野相論あって、春正月吉野山天台春賢僧正、領地の郷民を引率して高野山所領花園の荘内大滝の郷に於いて、牓爾(ぼうじ・・ふだ)を標し、吉野領といふ高札を設く。ならびに御廟の橋下においても、吉野領と標榜す。而しより精進結界の霊場を以て殺生汚穢の猟地となす。幾ばかりの狼藉不道、枚挙にいとまあらず。ついに乃ち院奏を経て厳重の起請文を捧げて、非理の事業を制禁すといえども、成敗決断の糾明無きによって、一山の大衆憤懣して曰く、「夫れ当山は三鈷點着の霊蹟、日域無双の禅窟なり。常恒に一天の静慮君臣の豊穣を祝祷するといえども、理非分別分明の賞罰無き,則ち、僧侶の機縁既に尽くるか。法滅の時候すでに至れるか。國界運傾くか。天魔便りを得るかと衆議評決して大小の仏事を廃絶し、離山逐電を催す。承久元年1220己卯八月五日、大衆蜂起して一味の神水を飲み、丹生高野両大明神に誓って,曰く、三千衆徒の臆念を合糅して速疾に怨敵を退散し、再び仏法を興隆せん。すなわち許多の鉄釘を以て、室扉を緘閇(かんぺい・・とざす)し、大塔の庭上に僉議して、愁涙袍袖を沾す。即日まさに山門を出で去らんとなり。ここにおいて検校法橋(覚海)、忽ちに大悲伝法のまさに絶滅せんとして曰く、「老法師は年来大師密法の擁護助扶の者なり。齢すでに九旬に垂んとす。命終最も近し。一日今離山を引て我閻魔の庁に至って、我が辞によって大師の仏法寿命一日延存するなり。これをもって一善を証せんとなり。(自分が閻魔の庁におもむいて一日の高野山の延命をおねがいしてくる)」ここによって引いて両日を延べおわりぬ(この覚海のことばで高野山の大衆の離山を2日延期した)。八日辰の刻奥の院の廟扉を閉塞し、巳の上刻、大衆一同に山門を出で去る。同二十三日備前の僧都長海正別当を以て使者として請によって院宣くだされおわんぬ。之によって同二十七日、老輩少々還り住す。大衆漸漸帰山の志を発す。是れ乃ち海検校の大善巧方便力による。非法張本の春賢僧正は同十二月俄かに夭滅す。乃至月卿雲客も正理を抑止して、吉野の非義を揚褒する。数輩はすべて三地両所の冥罰を蒙る。野山記にみえたり。有る時師みずから誓ひて懇祷していわく「吾既に産を鄙北に受け、遮那法を南山に習ふ。現に今山頭にあって務職に任ず。奇縁思うべからず、測るべからず。唯願わくは三世の勃駄(仏陀)、十方の索多(薩埵)、およびわが大師、吾にわが前世を示したまへ。如何が、此の如くの得難き人身を得、遇ひがたき密法に逢うことを得るや。冒地(悟り)の得難きには非ず、この教えに逢うことの易からざるなり」と。一心に精誠を抽て、五体を地に擲ち、目に血涙を流し、身の所在を忘る。誠を盡して命根の絶えなんとするにいたる。ときに大師欻爾(たちまち)に真形を現わす。和柔類まれに容顔霊威あり、和雅の梵音を挙げて幽声耳に徹す。「汝、はじめは是、摂州の南海に産し、形を小蛤に現わす。波にただよひ、砂石に交糅して流回幾千載ぞ。たまたま唄音風に順って碧波に入る。蛤聞熏の力によって海浪激揚して自ら天王寺西の浜畔に著く。童僕あり、戯れ抛ちて天王寺金堂の前の床に提げ置く。誦経読誦の声を聞くによって第二生に牛身を受く。重きを負うて遠きに到る。牧童鞭をくわえ蚊蚋(ぶんぜい・・か・ぶよ)肉を噛む。余縁なお朽ちず。一日大乗般若を書する料紙を荷負す。故に生を転じて第三生に赤馬の身を受く。順縁熏発して幸いに信輩、熊野に詣する所乗となる。更に生を転じて第四生に柴燈を燃やすの人身と成ることを得て常に火の光を以て道路を照らす故に智度の浄行漸漸に熏増して第五生に吾が廟前密供修法の給仕者となることを得たり。晨天には閼伽を汲み運び、昏には浄花を採り摘み、香を抹して熏煙を凝らし、飯を炊いて滋味を調ふ。耳には常に三密の理趣を聞き、目にはみずから五観の妙相を見る。是の如きの冥熏加持の力用によって現に今、第六生に法門の棟梁南山検校の鴻職を感受す。第七生には必ず秘密の法を護るの威猛の依身を受けん。身体羽翼を生じて飛行自在なり。修鼻突出して彎笋(わんじゅん・・曲がった筍)の如く、遍身赤黒にして毛髪銅針に類す。是乃ち我が末弟驕慢放逸にして酒食に耽り、仏法王法を軽んじて他の財宝を貪り、汚穢不浄の身を以て、伽藍に渉登し、高歌狂乱信者の機嫌を毀ふ。引いては吾密法を壊し、猥りに狂族を夥すなり。此の如くの異容にあらずんば則いかでか治罰賞正の誘進を為さんや。魔佛一如、生佛不二、修羅即遮那なり。汝常に是れ憶念するところなり」。言おわって麗麗たる遺韻山谷に伝わり、馥郁たる異香野外に薫ず。感涙肝に銘じ、身心忙昧たり。故に世人称して「南山の碩学、七生を悟れる人」といふ。貞応二年1223八月十七日、毘盧の印を結んで、滅を唱ふ。春秋八十二、境内の池辺に葬る。廟塔を構へ、奠賽を設く。或は云う、遍照岡の傍らに葬ると。現に今、崇祠あって廟窟と号す。後人毎月十七日、燈燭を掲げて、如在の祭祀を厳かにす。霊威往々に懲賞を示すなり。
賛に曰く、律に、仏、蛤の縁を説きたまふ。池中を出でて草根に依託して仏の説法を聞く。牧童誤って杖をもって之を殺す。聞法の縁をもって忉利天に生ず。遂に初果を得たりと。
善見律毘婆沙「爾時佛在瞻婆國。於迦羅池邊。爲瞻婆人説法。是時池中有一蛤。聞佛説法聲歡喜。即從池出入草根下。是時有一牧牛人。見大衆圍遶聽佛説法。即往到佛所。欲聞法故以杖刺地。誤著蛤頭。蛤即命終生忉利天。爲忉利天王。以其福報故。宮殿縱廣正十二由旬。於是蛤天人。霍然而悟。見諸妓女娯樂音聲。悟已尋即思惟。我先爲畜生。何因縁故生此天宮。即以天眼觀。先於池邊聽佛説法。以此功徳得此果報。蛤天人即乘宮殿。往至佛所頭頂禮足。佛知故問。汝是何人忽禮我足。神通光明相好無比。照徹此間。蛤天人以偈而答
往昔爲蛤身 於水中覓食
聞佛説法聲 出至草根下
有一牧牛人 持杖來聽法
杖攙刺我頭 命終生天上
佛以蛤天人所説偈。爲四衆説法。是時衆中八萬四千人。皆得道跡。蛤天人得須陀洹
果。於是蛤天人得道果已。歡喜含笑而去。」


海師の前縁、頗る類することあり。畏をあらわし、法を護り、猛をもって凶を罰す。菅相の火雷、愛宕の神魂、琳賢の目精、維範の修蛇、神農の牛頭(覚禅鈔では、中国の神農が牛頭天王とされる。)周公の断菑(だんし・折れ曲がった木。荀子に「周公之状,身如断菑」)
大聖大賢形貌をもって見るべからず。火を吐き、風を起こし、雨を灑そそぎ、水に激す、却って止めて能く静かにす。空を凌ぎ、地を透る、自ら魔界に入って悪波旬を拒き、災を攘ひ、福を迎ふ。但し國建の屋の輿光の旧址、土俗郷民寸も耕すことを許さず。遍照が岡崗、枯枝落葉毫釐もこれを採れば、則ち厳祟を施す。その威その霊、信ずべし怖るべし。その悉地を成すること上か中か下か、すべて即身の佛なり。嗚呼奇なるかな。遊戯三昧。




(覺海は1142~1232(以下密教大辞典等に依ります。)
高野山華王院の学僧。和泉守雅隆の子。高野山大乗院寛秀の室に入り事教を究め、醍醐山定海座主に随い傳法灌頂を受け、随心院親厳・石山寺朗澄に重ねて受法。後高野山に還り草庵を結び名けて華王院とす。時の俊傑寶性院法性、正智院道範、心南院尚祚、十輪院眞弁等その門下に集まる。高野山検校をつとめ、承久二年職を辞して華王院に退居。下品の悉地を欣求。貞応二年八月十七日大日の秘印を結びて入寂。世寿八十二。著に「覚海法橋法語」。仏法の護持のため天狗(狗名:横川覚海坊)になり、中門の扉を翼にして天に飛び去ったという伝説も高野山内に残っている。この伝説を基に、谷崎潤一郎が『覚海上人天狗になる事』という短編を執筆。
)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日は日本史上初めての放生... | トップ | 一日ごとに三善あれば三年にして »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事