福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんの第12回目(結願)江戸三十三観音霊場・東京十社巡拝行記録・・3

2016-04-13 | 開催報告/巡礼記録
角田さんの第12回目(結願)江戸三十三観音霊場・東京十社巡拝行記録・・3
江戸三十三観音霊場第31番札所
海照山 普門院 別格本山 品川寺(東京都品川区南品川3-5-17)
本尊 水月観世音菩薩
   聖観世音菩薩
宗派 真言宗 醍醐派

品川寺は、海雲寺のすぐ隣にあり隣組のようなお寺です。山門脇と境内にある満開の桜の木に迎え入れられます。境内も広く、品川という歴史の古い町という、一種独特の感じのする風情のあるお寺でした。品川という、海と、肥沃な農地をもち、東海道五十三次の第一番目の宿場町で、旅人の町として、人々の往来も多く、栄えた町のようです。品川寺は、そんな品川の港町に出来た、最も古い寺院です。

品川寺は、真言宗醍醐派の別格本山です。このお寺の創建年代は解かりません。始めは、金華山 大円寺と称され、後になり、海照山 普門院と号するようになりました。後光明天皇の承応元年、山形県の僧・弘尊上人が、中興開山を行い、寺院の復興につくしました。貞享3年7月、太田摂津守資直は、密かに寺領100石を寄付したといいます。本尊の聖観世音菩薩は、太田道灌の持仏といわれ、長禄元年(1457年)、品川の館から江戸城に移住したころ、道灌は、このご本尊を堂内に安置して、伽藍も建立したといわれています。一方、水月観世音菩薩は、品川左京亮世伝として、弘法大師が、東国遊行の時、この地の領主であった品川氏に預け、以来、応永2年(1395年)品川左京亮の代まで、伝えられてきました。道灌は、この水月観音も信仰し、両観音をお守りしたそうです。明暦3年(1657年)、弘尊上人は、徳川三代の将軍、家康、秀忠、家光の供養のために大梵鐘を発願、京都三条の鋳物師である大西五郎左衛門が、鋳造し、四代将軍・家綱によって、寄進されました。

永禄9年(1566年)、武田信玄が、小田原の北條氏政を攻めた時、北条氏の支配下にあった品川の民家・寺社を焼き払われました。品川寺も兵火のため焼失しました。水月観音は、二人の武田武士が、強奪して、甲州に持ち帰ったところ、二人とも発狂するという不思議な悪業が出て、信玄は、この尊像を品川寺に送り返しました。

境内には、樹齢600年の大きなイチョウの木があります。樹高25メートル、幹周り、5・35メートル。いまだ、樹勢旺盛で幹や大枝から多くの乳が垂れています。このお寺の栄枯盛衰を静かに見てきたことでしょう。

ときに、明治維新の廃仏稀釈の政策で、本堂始め、諸堂伽藍は、ことごとく荒廃し、弘尊上人が勧進した大梵鐘も、海外に搬出されたらしく、行方不明になっていました。大正5年(1916年)中興・順海和上が入山、大梵鐘を探しながら、品川寺の復興計画を進めました。大正8年(1919年)大梵鐘は、スイス国ジュネーブ市アリアナ美術館に所蔵されていることが判明、返還交渉をすすめました。大正12年(1923年)観音堂が完成。同15年(1926年)5月、順海和上は、品川寺第三十世住職として晋山しました。昭和5年(1930年)5月5日、大梵鐘は、ジュネーブ市から贈還されました。数奇な運命に遭遇しながら約70年ぶりに戻ってきました。これを期に、同寺は、鐘楼・会堂・客殿・拝殿・会館と建立してきたのです。

昭和39年の東京オリンピック大会では、参加するスイス全選手を同寺に招いて交流を深め、平成2年には、同型の大梵鐘を鋳造して、アリアナ美術館に贈呈しました。そして、品川区ジュネーブ市友好都市締結を提唱し、実現しました。境内に一角に、Geneve・Avenue de La Paix と書かれた五輪塔があります。また、同寺の前の通りの道路標識にも同じ文句が書かれていました。

品川寺のもう一つの特徴は、江戸六地蔵菩薩第一番尊であることです。江戸六地蔵尊は、地蔵坊正元という、僧侶が立てたといわれています。正元は、24才の時、不治の病にかかり、重体になりました。そのことを、父母が悲しみ、お地蔵様に病気平癒の祈願をしていました。その姿を、正元は、親の嘆きが、骨身に堪え、自らも一心に祈願し、病はたちまちに全快しました。正元は、お地蔵様への報恩のために、金銅丈六の六地蔵尊建立を発願して、湯島天神,神田・愛宕明神の境内で荒行を修め、衆生に見せて、江戸御府内を、勧進して数万人の施主を募りました。江戸の六街道の入口に丈六の地蔵尊を一体ずつ建立し、その体内には、小さな六地蔵尊の尊像を納めて、道行く人びとの無事を守り
江戸御府内の疫病を払い、世の中を浄土にしようと十四年の歳月をかけ建立したのです。
ご参考までに、江戸六地蔵尊菩薩の寺院を列記しておきます。

第1番 東海道 品川寺 品川区南品川3丁目 宝永5年5月建立
第2番 奥州街道 東禅寺 台東区東浅草 宝永7年8月
第3番 甲州街道 太宗寺 新宿区新宿2丁目 正徳2年9月
第4番 中仙道 真性寺 豊島区巣鴨2丁目 正徳4年9月
第5番 水戸街道 霊巌寺 白河1丁目 享保2年4月
台6番 千葉街道 永代寺 富岡町 享保5年7月(現在は、存在してません。
     廃仏稀釈で廃棄さる。ために、代仏として、浄明寺 台東区桜木町2

巡拝で歩く、品川の商店街の通りは、なかなか洒落ていて、通りに沿って、長
方四角形をした洒落た細工を施した道案内をかねた街灯標識が一定間隔で並
び立っています。例えば、通りに面した側は 、「東海道品川宿」通路側は、「品川宿場通り南会」といった具合に、案内を告知表示しています。そして、行く先々に、小さな史跡や記念物のみせどころがあります。今回の場合、「品川宿の松」がありました。旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、29番目の宿場があった静岡県浜松市の有賀慶吉氏から品川区に寄贈された樹齢約80年の黒松です。と説明板があり、風雪に耐えた黒松がたっています。 目黒川に沿って、桜並木が、今は盛りとばかり、咲き誇っています。朱色に彩られた品川橋に来ました。品川橋は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には「境橋」と呼ばれ、別に、「行合橋 」ともよばれていたそうです。はじめは、木の橋でしたが、その後、石橋になり、コンクリート橋に変わり、現在の、鋼橋へと変貌してきました。品川神社や荏原神社の「天王祭」の賑わいと共に、南・北品川の交流発展の架け橋として親しまれているようです.。「品川宿本陣跡」の立て札もありました。江戸風情の情緒を少しでも感じてもらいたいという、町全体の心意気を感じたのは、私だけでしょうか?

品川寺のご詠歌 「夕つぐる 鐘の響きに 帰りませ 救世の観音 ここにまします」



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 角田さんの第12回目(結願... | トップ | 角田さんの第12回目(結願... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

開催報告/巡礼記録」カテゴリの最新記事