今日は野口念仏の日です。季語になっており、「教信がありし埴生の念仏かな。松瀬青々(松苗)」という句もあるようです。九月十三日から十五日、兵庫県加古川市の念仏山教信寺で、平安前期の沙弥教信の徳を追慕して行われる念仏会です。野口念仏会の境内では播州音頭が奉納されその文句には「貞観八年八月の月影満ちる十五日教信さんは往生の素懐を遂げて悔いはなし」とあります。
ウキぺデア等によると、教信は幼くして出家し、奈良興福寺で唯識を修めていたといいます。本来相当の学僧になっていたはずです。しかしその後諸国遊行の後、播磨国賀古駅の北辺に草庵を結びました。この地に庵をむすんだ教信は、里人に雇われて田畑を耕作し、旅人の荷を運んで生活の資を得つつひたすら念仏をとなえ、旅人や農民にも念仏を勧め救済したといいます(注)。『改邪鈔』によれば、親鸞聖人も教信の行状を範とし敬仰されたようです。
この履歴をみて以前秦野の重度障害児施設弘済学園を見学した時、一人の職員が「自分は禅寺で修行していたが悟れないのでふと畦道をいく障害児たちの姿を見てこの弘済学園に来た」と言っていたのを思い出します。僧侶の世界も既成概念のレール上を走るだけが生き方とは言えないというところは似ていると思いました。
(注、今昔物語巻 15には以下のように出てきます。「 播磨国賀古駅教信往生語 第廿六
今昔、摂津国の島の下の郡に勝尾寺と云ふ寺有り。其の寺に、勝如1)聖人と云ふ僧住しけり。道心深して、別に草の庵を造て、其の中に籠居て、十余年の間、六道の衆生の為に無言して懃に行ひけり。弟子・童子の見る事そら尚し希也。況や、他人を見る事は無し。
而る間、夜半に人来て、柴の戸を叩く。勝如、此れを聞くと云へども、無言なるに依て、問ふ事能はずして、咳の音を以て叩く人に知らしむるに、叩く人に云く、「我れは、此の播磨の国賀古の駅の北の辺に住つる沙弥教信也。年来、弥陀の念仏を唱へて、『極楽に往生せむ』と願ひつる間、今日、既に極楽に往生す。聖人、亦某年某月某日、極楽の迎へを得給ふべし。然れば、此の事を告げ申さむが為に来れる也」と云て去ぬ。
勝如、此れを聞て、驚き怪むで、明る朝に、忽に無言を止めて、弟子勝鑒と云ふ僧を呼て、語て云く、「我れ、今夜、然々の告有り。汝ぢ、速に彼の播磨の国賀古の駅の辺に行て、『教信と云ふ僧有や』と尋て、返来べし」と。
勝鑒、師の教に随て、彼の国に行て、其の所を尋ね見るに、彼の駅の北の方に小さき庵有り。其の庵の前に、一の死人有り。狗・鳥集りて、其の身を競ひ噉ふ。庵の内に、一人の嫗、一人の童有り。共に泣き悲む事限無し。勝鑒、此れを見て、庵の口に立寄て、「此れは何なる人の、何なる事有て泣くぞ」と問ふに、嫗、答て云く、「彼の死人は、此れ我が年来の夫也。名をば沙弥教信と云ふ。一生の間、弥陀の念仏を唱へて、昼夜寤寐に怠る事無かりつ。然れば、隣り里の人、皆教信を名付て阿弥陀丸と呼びつ。而るに、今夜既に死ぬ。嫗、年老て、年来の夫に別れて泣き悲む也。亦、此の侍る童は、教信が子也」と。
勝鑒、此れを聞て、返り至て、勝如聖人に此の事を委く語る。勝如聖人、此れを聞て、涙を流して悲び貴むで、忽に教信が所に行て、泣々く念仏を唱へてぞ、本の庵に返にける。其の後、勝如、弥よ心を至して、日夜に念仏を唱へて、怠る事無し。
而る間、彼の教信が告げし年の月日に至て、遂に終り貴くて失にけり。此れを聞く人、皆、「必ず極楽に往生せる人也」と知て貴びけり。
彼の教信、妻子を具したりと云へども、年来念仏を唱へて、往生する也。然れば、往生は偏に念仏の力也となむ、語り伝へたるとや。 」
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