福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

都塚古墳の主、蘇我稲目について

2014-08-17 | 法話
お盆のニュースで、奈良県明日香村の都塚古墳5(6世紀後半)が階段状に石積みされた大型方墳でピラミッドのような特異な外観だったとみられ、国内では例がほとんどないもので、規模も一辺約40メートル、当時の天皇陵に匹敵する大きさであるとされます。飛鳥時代の大豪族蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳を見下ろす場所にあり、馬子の父稲目(570年没)の墓との見方も出ていると報じられました。
 蘇我 稲目は仏教徒にとって忘れられない人です。稲目(506年頃 - 欽明天皇32年(570年))は、古墳時代の豪族ですが欽明天皇の大臣時代、佛教伝来に伴う廃仏崇佛論争ではじめて崇佛を主張しましています。
欽明天皇13年(552年)、百済の聖明王の使者が仏像と経論数巻を献じ、聖明王は『佛法は孔子も理解不能の難しい教えであるが、諸々の法の中で、最も殊勝で広大無辺の功徳を有し、福徳円満の果報を生じ、無上の菩提を得る事が出来る。故に遠くインド・中国・三韓に至るまで奉侍尊奉せざる国なし』と上表して仏教の功徳をたたえました(仏教公伝)。天皇は仏像を礼拝の可否を群臣に求めましたが、稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」と答え、これに対して物部尾輿と中臣鎌子は「わが国は天地百八十神を祭っています。蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねく」と反対しています。天皇は稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許し、稲目は小墾田に仏像を安置して礼拝しました。その後、疫病が起こり、尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだとして、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許しています。仏像は難波の堀江に流され、伽藍には火をかけられました。すると、風もないのに大殿が炎上してしまったと日本書紀に書かれています。
 廃仏崇佛論争はその後、子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれ、587年の丁未の役により、諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着しました。その後、推古天皇が即位。もはや仏教受容に対する抵抗勢力はなくなりました。そして摂政の聖徳太子が馬子と協力しつつ、十七条憲法等に見られる、佛教にもとずく日本国の基礎を固められたのです。
(参考・・・日本書紀巻十九欽明天皇「・・冬十月、百濟聖明王更名聖王、遣西部姬氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干卷。別表、讚流通禮拜功云「是法、於諸法中最爲殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。此法、能生無量無邊果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶・逐所須用・盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情無所乏。且夫遠自天竺爰洎三韓、依教奉持無不尊敬。由是、百濟王・臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國流通畿內。果佛所記我法東流。」
是日、天皇聞已、歡喜踊躍、詔使者云「朕從昔來、未曾得聞如是微妙之法。然朕不自決。」乃歷問群臣曰「西蕃獻佛、相貌端嚴。全未曾有、可禮以不。」蘇我大臣稻目宿禰奏曰「西蕃諸國一皆禮之、豐秋日本豈獨背也。」物部大連尾輿・中臣連鎌子同奏曰「我國家之王天下者、恆以天地社稷百八十、春夏秋冬祭拜爲事。方今改拜蕃、恐致國之怒。」天皇曰「宜付情願人稻目宿禰試令禮拜。」
大臣跪受而忻。安置小墾田家、懃修出世業爲因。淨捨向原家、爲寺。於後、國行疫氣、民致夭殘、久而愈多、不能治療。物部大連尾輿・中臣連鎌子同奏曰「昔日不須臣計、致斯病死。今不遠而復、必當有慶。宜早投棄、懃求後。」天皇曰「依奏。」有司乃以佛像、流棄難波堀江。復縱火於伽藍、燒燼更無餘。於是、天無風雲、忽炎大殿。
是歲、百濟、棄漢城與平壤。新羅、因此入居漢城。今新羅之牛頭方・尼彌方也。地名、未詳。)
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