福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Q、六波羅蜜の中でも般若波羅密を一番大切としているのに、智恵を嫌うのはなぜか?

2017-02-11 | Q&A
Q、六波羅蜜の中でも般若波羅密を一番大切としているのに、智恵を嫌うのはなぜか?
A,世の「智恵」というのは知・不知という相対的なものを指しており、迷いの一種。
夢中問答集(無窓疎石)より・・・27
問、菩提の行は六波羅蜜を本とす。その中に般若波羅密を勝れたりというのは、もし智慧なければその余の五波羅蜜も成是ざる故哉。しかるを一向に智慧を嫌うのは何ぞや。

答、智恵といへる語は同じけれども真智・妄智・権智・実智、種々の差別あり。世の常の智慧と思へるは種々の法門を解了して日頃の愚痴を改めたるを申すなり。円覚経にいはく「智慧も愚痴も通じて般若たり・・と云々」この経の意は、愚痴を改めたるを真実の智慧と云うにあらず。無明の業識生ずる故に、円覚大地の中に、智恵・愚痴の二相を見る。即ちこれ妄想なり。この妄想の上に住着して愚痴を改めて智慧となさむことを求めるは第二重の妄想なり。般若をば覚とも翻じ、道とも訳せり。古人いはく「道は知にも属せず、不知にも属せず。知はこれ妄覚、不知はこれ無記なり」、と云々。

・・三賢・十聖の菩薩、あるいは如幻智(主観・客観を超えた立場)を証し或いは無生智(生滅の煩悩を断ち切る智慧)を得たれどもいまだ仏果をば成ぜず。等覚地(菩薩が修行して到達する菩薩五十二位の中、上から2番目に位置する菩薩の極位。妙覚の果実を得ようとする位。一生補処ともいう。万徳円満の仏の妙覚とほぼ等しいという意味で等覚という。)に到りて前の三賢・十聖の諸聖ともに忘ずるを金剛喩定と名ずく。このとき妙覚の大智(菩薩五十二位の最上位で、菩薩が修行して到達する最上の境地)はじめて現前す。・・・最上利根の機は三賢・十聖の階級を経ずして直下に本有の大智に契当す。古人いはく「一超して直に如来地に入る」と言へるはこの意なり。華厳経にいはく「初発心のときすなわち正覚を成ずち云々」(華厳経・梵行品に「初発心時便成正覚」)
・・六度万行を説き、五十二位を立つること皆是中下根のためなり。六度
の中に智度(天台では六即位を立てる。理即、名字即、観行即、相似即、分身即、究竟即このうち経文を読んで覚るものを名字即といい、ここでいう智度にあたる)を貴ぶことは直に本分の大智に契当することあたわざる人のためにしばらく幻智を船筏として漸く本分の彼岸に到らしむる方便なり。

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