福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Q,「仏教は欲を捨てよというのでなじめません。」

2012-02-03 | Q&A
Q,「仏教は欲を捨てよというのでなじめません。」

A,結論はこうです。
「欲を捨てるのでなく、欲を大きくしなさい」と教えているのが仏教です。宇宙の真理に反した小さな「個欲」は人を不幸にするが,逆にこれを自他一如という宇宙の真理にそった「大欲」に昇華すると自他共に救われることを大乗仏教特に密教は教えています。私の経験でも高野山中での四度加行や、2ヶ月の四国遍路、太龍寺山中での求聞持行中などには、食欲、性欲、睡眠欲、物質欲などは本当に出ませんでした。ただ家族愛とでもいうものは出ました。こういう個欲は心のレベルの低い時出るもので本質的なものではないと体験できました。

1、 そもそも「欲」とはなんなのか『仏教大辞典』でひいてみると
「梵語chandaの訳。心所の名。七十五法の一。百法の一。すなわち所作の事業を希求する精神作用をいふ。・・・倶舎論第四に『欲はいわく所作の事業を希求するなり』といひ、・・成唯識論第五に『いかんが欲となす。所樂の境において希求するを性となし、勤の依たるを業となす。』といへるこれなり。・・・長阿含第十二清浄経等には所樂の事について欲を色欲、声欲、香欲、味欲、触欲の五種に分別し、大般涅槃経第十二には形貌欲、姿態欲、細触欲の三欲を出だし、正法念誦経第五生死品にはこの界に食欲、淫欲等あるがゆえに欲界となずくると云ひ、倶舎論第二十等には欲界見修所断の貧等の四根本煩悩および十纏を立てて欲取または欲暴流と名ずけ、また欲界繋の三十六随眠のなか、五部の無明を除いて余の三十一随眠および十纏を欲漏となずけ、その他貪欲、愛欲、睡眠欲、財欲等の諸目あり。・・」とあります。要は何かをなしたいとする心で、色欲、声欲、香欲、味欲、触欲、食欲、睡眠欲、財欲、形貌欲、姿態欲、細触欲などがあるということでしょうか。

2、 たしかに原始仏教では、これらの欲を制することにより苦を制するといいました。「少欲知足」と説きました。阿含経には「身・口・意の三業を守ることができなければ、三業とも欲のために汚される。三業が汚れているとその人の臨終も死後も幸福ではない。喩えば宮殿の屋根がよく葺かれていなければ、梁も垂木も壁も雨ざらしになり腐るようなものである」とあります。「正法眼蔵(八大人覚)」にも「一つには少欲。かの未得の五欲の法のなかにおいて、広く追求せず。名づけて少欲となす。佛のたまはく。汝等比丘、まさに知るべし。多欲の人は多く利を求むるが故に、苦悩もまた多し。少欲の人は求めなく欲なければ、則ちこの患なし。直ちに少欲すら、なほまさに修習すべし。いかにいはんや少欲のよく諸の功徳を生づるをや。少欲の人は則ち、謡曲して以て人の意を求むることなし。またまた諸根のために牽かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然(たんねん)として憂畏するところなし。事に触れて余りあり。常に足らざることなし。少欲ある者は即ち涅槃あり、これを少欲となづく。」とされています。

3、しかし大乗仏教では「煩悩」を肯定しました。(欲は煩悩の一種です。)「煩悩即菩提」という言葉が出てきます。「維摩経」にも「高原陸地に蓮華生れず、卑湿淤泥のなかに此華生ず」とされたり、摩訶止觀 などには「魔界即佛界、煩惱即菩提」とでてきます。「圜悟仏果禅師語録」などでは「泥多ければ仏大」といっています。煩悩が多ければ悟りも深いというのです。 密教の護摩では 護摩木を煩悩、護摩壇の火をお不動さまの智慧とみます。護摩は煩悩の護摩木が燃えてお不動様の智慧になるということを顕しています。

4、 しかし煩悩(欲)がそのまま覚りといってもそれには段階があります。
お大師様はこのような心の発展段階を『秘密曼荼羅十住心論』で十段階に分けてお説きになりました。
Ⅰ、第一住心(第一段階)は異生羝羊心 です。これがわれわれのいる個欲まみれの世界です。これは「凡夫狂酔して、吾が非を悟らず。但し淫食を念ずること、彼の羝羊の如し。」( 無知なものは迷って、自分の迷いを悟っていない。雄羊ように、ただ性と食を思い続けるだけ。人間以前、道徳以前の世界である)とされます。
Ⅱ、第二住心は愚童持斎心 です。「外の因縁に由って、忽ちに節食を思う。施心萌動して、穀の縁に遇うが如し。」(他の縁によって、倫理に目覚めた心の状態。)
Ⅲ、第三住心は嬰童無畏心。「外道天に生じて、暫く蘇息を得。彼の嬰児と、犢子との母に随うが如し。」(幼児や子牛が母に従うように、宗教的心情が芽生える段階。道教・インド哲学諸派。)
Ⅳ、第四住心は唯蘊無我心です。「ただ法有を解して、我人みな遮す。羊車の三蔵、ことごとくこの句に摂す。」(ただ存在要素のみが実在するとおもい、個体の実在を否定する、声聞の段階。)
Ⅴ、第五住心は抜業因種心。「身を十二に修して、無明、種を抜く。業生、已に除いて、無言に果を得。」( 一切が因縁からなっていることを体得して、無知のもとをとりのぞく。迷いの世界を除き、ただひとりで、さとりを得る縁覚の段階)
Ⅵ、第六住心は他縁大乗心。「無縁に悲を起して、大悲初めて発る。幻影に心を観じて、唯識、境を遮す。」(すべての衆生に、大いなる慈悲の心をはじめて生ずる。すべての
 ものを幻影と観じて、ただこころの働きだけが実在であるとする法相宗の段階)。
Ⅶ、第七住心は覚心不生心。「八不に戯を絶ち、一念に空を観れば、心原空寂にして、無相安楽なり。」(あらゆる実在を否定することで、迷を断ち切り、ひたすら空を観じれば無相安楽とする三論宗の段階)。
Ⅷ、第八住心は一道無為心。「一如本浄にして、境智倶に融す。この心性を知るを、号して遮那という。」(現象はすべて清浄であって、主観も客観も合一している。そのような心の本性を知るものを、仏(報身の大日如来)という。「空・仮・中」の唯一絶対の真理、「法華一乗」の天台宗の段階)。
Ⅸ、第九住心は極無自性心。「水は自性なし、風に遇うてすなわち波たつ。法界は極にあらず、警を蒙って忽ちに進む。」(水はそれ自体定まった性はない。風にあたって波が立つだけ。
 さとりの世界は、この段階が究極ではない、さらに進むものである。対立を超え一切万有が連関し合う、重々無尽の「法界縁起」の華厳宗の段階)。

Ⅹ、第十住心は秘密荘厳心。「顕薬塵を払い、真言、庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証す。」(真言密教は宝蔵の扉を開く。蔵の中の秘宝は、たちまちに現れて、あらゆる価値が実現される。宇宙法界の荘厳な「マンダラ」を示す真言宗の段階)。真言秘密の境地は
言語、分別を超えた境地である故に「秘密」と云う。大日如来と自己と衆生が一体化した究極の境地。身口意三業と佛の三密との合一によって、佛の加持を被り、この世界にはいることができるとされます。

5、ここまでくれば自分も他者も佛も同じなのですから他と切り離された個の欲というものはありえません。欲も佛の欲にならなければなりません。ここに理趣経で説く有名な十七清浄句がでてくるのです。仏の境地にたてば「妙適淨句是菩薩位、慾箭淨句是菩薩位、觸淨句是菩薩位 愛縛淨句是菩薩位 -一切自在主淨句是菩薩位 、見淨句是菩薩位 、適淨句是菩薩位、愛淨句是菩薩位、慢淨句是菩薩位、莊嚴淨句是菩薩位、意滋澤淨句是菩薩位、光明淨句是菩薩位、身樂淨句是菩薩位、色淨句是菩薩位、聲淨句是菩薩位、香淨句是菩薩位 -味淨句是菩薩位」(欲望の代表格の男女の欲望も清浄なもの)であるということでしょう。しかしあくまでこれは覚った仏様の境地です。迷いの極地にある我々側からの見方ではないことに注意を要します。これがあくまで先の十住心を踏んできてはじめていえる言葉であることに思いを致す時、この十七清浄句がいかに遠い世界のものかを思い知ります。

6、ただこの根底には自他はあくまで一体なのだから他者のために尽くしたいという「菩提心」がすべてといっていることに気ずくべきです。なかなかむつかしいですがこういう方向性だけでも知っておくべきでしょう。個の欲望が満たされない時はこの原則に帰って自戒する事が必要でしょう。自分自身もそういう方向性をともすれば忘れがちになり個欲がみたされないことを憾んだりしますが反省する事しきりです。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 説法明眼論・・・その10 | トップ | 第12回・福聚講関東36不... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Q&A」カテゴリの最新記事