毎月3の日(3日・13日・23日)は弘明寺聖天様の御祈祷の日です。午前11時30分~12時30分に御祈祷があります。私自身も今から20年近く前、俗世の組織を望まない形で強制的にリタイヤさせられようとしたところを、ここの聖天様のお陰で、奇跡的に復活できました。聖天様のお力にはすごいものがあります。しかしちゃんとお礼をしないと大変なことになることも聖天様の信者にはよくしられています。私も何度かお礼をし . . . 本文を読む
五輪塔は宇宙の本当の姿をあらわしている。自他ともに本当の姿はすべてこの五輪塔であらわされる五大(あ・ば・ら・か・きゃ)なのである。随って密教修法により行者が心身共に「五大(あ・ば・ら・か・きゃ)」になりきれば(すなわち大日如来=宇宙になりきれば)不思議の現象がおこり、「祈願」が成就することとなる。 . . . 本文を読む
道綽禅師の安楽集に曰く
・ 「(第八問答 実生願生(迷いの人生と浄土を願う人生))
また問ていはく、 上にいふところのごとく、 生は無生なりと知るは、 まさに上品生のものなるべし。 もししからば下品生の人の十念に乗じて往生するは、 あに実の生を取にあらずや。 もし実の生ならば、 すなはち二疑に堕す。 一にはおそらくは往生を得ず。 二にはいはく、 この相善、 無生のために因となることあたはず。
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昨日の福聚講模様
昨日は五月晴れで湿度も低く絶好のお参り日和でした。私はいつものように江戸川橋で降りて護国寺の鎮守今宮神社をお参りしました。ここにもいつも誰か参拝者がいます。今回は上品な老婦人と老紳士がお参りして出てくるところでした。心経をおとなえしてお参りしながら社殿の中をのぞくと中の祭壇がときどきピカッと光ります。外の光を反射しているのかとおもい後ろを振り返ってみましたが後ろには光を反射する . . . 本文を読む
而も今宗には金屑貴しといへども眼に落つれば翳となるが如く(碧巖録、續傳燈録、槐安國語、毒語心経などにあります)、法身涅槃貴しといへども、これも執すれば法の病なりと観、此の法執を除かんがために、寂滅無相を主として説くものである。
金剛経には一切の相をみるものは菩薩にあらざる旨を説れ、圓覺経には「生死涅槃猶ほ昨夢の如し」と宣説し、思益梵天所問経に「諸佛の出世は衆生をして生死を出で涅槃にいたらしむるが . . . 本文を読む
六祖壇経に曰く、「但だ心虚空の如くにして、空見に著せずんば、応用無碍、動静無心、凡聖情忘じ、能所倶に冺じて,性相如々にして定ぜざる時なし。」またいわく「汝、若し心要を知らんと欲せば、但一切の善悪、都べて思量すること莫れ、自然に清浄の心体に入ることを得て、湛然常寂にして、妙用恒沙ならん。」
即ち能所亡冺、一心の妙体を証せる境地は、枯木死灰、頑空無用なるにあらず、大死一番大活現成の境である。かの十 . . . 本文を読む
またかの信心銘(禅宗三祖僧璨禅師作)に曰く、
能(心)は境(対象)にしたがって滅し、境は能を逐うて沈む。境は能に由りて境たり、能は境に由て能たり。両段を知らんと欲せば、元これ一空。
義解者商量して道く、「両段といふは前の心法を指す、いふところの一空、大虚の頑然たるの空に非ず。小乗断滅の空に非ず、乃ち霊覚無相の真空ならくのみ、この空是諸仏の源、萬霊の母なり、聲も無く臭いも無し、群象の前に昭昭たり . . . 本文を読む
金子みすずの「さびしいとき」という詩がありました。
「わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。
わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。」という詩です。
最後の「私が寂しいとき、佛様は寂しいの」というところには深い意味が込められていると思われます。本来仏さまは衆生と一緒 . . . 本文を読む
真諦真有の旨を説く唯識宗も、真諦空を開演する無相大乗も、共に真諦は不可得なり不可思議なり、空なり、無相なり等と説くは、これ凡夫の分別の妄執を断滅するを旨となすゆゑである。これ真言密教より一般仏教は、凡夫の我執迷情を遮遺するを本とする、遮情教(迷いを否定する教え)なり空教なり等と云ふゆえんである。即ち真諦解脱の真境は大我として認むべき無く、いわんや個体の存在を許さないのである。
これをかの禅宗の説 . . . 本文を読む
一般大乗に種多の教系あるも、個別体は因縁生の仮相なり、迷情の所見なり、即ち個体は衆因縁所生なれば、個体に個体本有の自性無く、無自性空を自性となす、この自性の無生空を観じ、我執迷妄を滅尽し、その無自性の空理に還源すべきを説かないもの(大乗教)はない。
約言せば人は仮なり、無自性の法のみ實なりとは、一般大衆の通説である。即ち個体は因縁生の仮相なり、生滅無常の苦相なりと観て、無自性空の非人格の空理に契 . . . 本文を読む
・武蔵国二宮神社、
明治期までは二宮大明神、または鎮座地である小河郷の小河大明神と称された。藤原秀郷、源頼朝、北条氏政が尊崇したとされる。武蔵国の一宮から六宮までの武州六社(武州六大明神、武蔵六所大明神(注))の一つ。御祭神は、国常立尊(くにとこたちのみこと)。現在も武蔵国総社・六所宮(現 大國魂神社)の一座に祀られ、今でも5月の大國魂神社の例大祭「くらやみ祭」に参加しているほか、周辺の地名は「 . . . 本文を読む
大乗では阿頼耶識を本とし、その上に生死輪廻があるとする。・・・小乗は個人格の空滅に帰せる涅槃を理想とし、大乗は個別体をして絶対の真心に帰する道を明かすもの。しかしどちらも解脱涅槃には個体は不要とする . . . 本文を読む
Q,仏前で三礼、神社で二礼する理由は?A,「塵添壒嚢鈔」「仏教博識問答」等によると、・佛を三礼するのは、㈠大智度論に「仏法は三礼を礼数となす。」「三毒を滅し、三宝を敬い、三尊を求む」とあり、三礼は身口意による仏への帰敬をあらわす。㈡仏に法身、報身、応身の三徳があるから。・神を二礼するのは本地と垂迹の二つの徳があるから。・人に一礼するのは現在あるその人の徳を尊ぶという意味。 . . . 本文を読む
二、(大乗について)個別体の大我に還源する旨を説くものは、一般の大乗仏教である。一般大乗仏教の説によれば、この現象界を生死流転の苦境とし、此の苦境を解脱し、寂滅安穏の涅槃の境地を得せんとするは、小乗と異なることなきも、その個体及び涅槃については、小乗と説を異にするものである。
即ち小乗にては個体を構成する要素を色受想行識の五蘊となす(五蘊は物と心からなる)。しかるに小乗に明かす心は六識なり。六識 . . . 本文を読む