以前妻が立川より帰り道、道端で顔を真っ赤にして泣いている幼子とその子に向かって必死に手話をしている若い母親をみて胸が詰まったという話をしたことがあります。幼子は何かを訴えようとして顔を真っ赤にして泣いていたのでしょう、その子の訴えをなんとかしてやりたいと必死になっている母親のすがたが瞼に浮かび自分も切なくてたまらなくなりました。
夕勤行のとき、なんとかこういうかたがたが幸せになりますようにと祈り . . . 本文を読む
元暦元年八月二十八日は文覚上人が後白河法皇にたのみ大師の金泥両界曼荼羅が神護寺灌頂堂に戻された日です。
この曼荼羅は9世紀の両界曼荼羅図で、通称は高雄曼荼羅。国宝です。紫色に染めた綾地に金銀泥で描いたもので画面寸法は胎蔵曼荼羅が縦448.0センチメートル、横408.0センチメートル。
金剛界曼荼羅が縦409.0センチメートル、横368.0センチメートルの巨大な曼荼羅。
根本曼荼羅からは弘仁12年 . . . 本文を読む
四国遍路のおかげで歩行不能だった子供が歩けたこと。(先達Y・T)
「四国遍路同行Oさんは土佐清水の人ですが、長男が交通事故により歩行不能となり大阪で病院に入院していました。その日は遍路二日目で四十六番浄瑠璃寺から順打ちすることとなりました。九月二十九日の朝でした。浄瑠璃寺には本堂前に仏足石があります。この仏足石はお薬師様のご真言をお唱えしながら立つとご利益があると言われているものです。Oさんもこの . . . 本文を読む
・「仏陀の教法は最清浄法界等流の教であり道であって、‥決して一の宗教などと跼蹐せらるべきものでないといへるのである。即ち天下の公道で何人も之を信じるとか信じないとか、遵奉するとかしないとかいふべきものでなく、苟も人として生活している以上は凡てこの教法に規って居るといはねばならぬものである。(「仏教汎論」・宇井伯壽)」 . . . 本文を読む
一切如來心祕密全身舍利寶篋印陀羅尼經
開府儀同三司特進試鴻臚卿肅國公食邑三千戸賜紫贈司空謚大鑒正號 大廣智大興善寺三藏沙門不空奉詔譯
如是我聞。一時薄伽梵、摩伽陀國・無垢園寶光明池中に在して。大菩薩衆及び大聲聞僧・天龍・藥叉・健闥婆・阿蘇羅・迦樓羅・緊那羅・摩睺羅伽
・人等と與なりき。無量百千衆倶前後に圍繞せり。
爾時、衆中に一大婆羅門あり。名て無垢妙光という。多聞・聰慧にして人の樂見する . . . 本文を読む
以下森銑三「人物逸話辞典」に依ります。「貝原益軒。儒家。また博物学者。名は篤信、字は子誠、久兵衛と称す。初め損軒と号し、晩年に至って益軒と改めた。福岡県黒田候の
臣。正徳四年1714、八月二十七日没す。年八十五。・・一生の著述極めて多く、著述を通しての偉大な社会教育家であった・・」
養生訓の最初は以下のようになっています。
「人の身は父母を本とし天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生まれ、又養は . . . 本文を読む
1、 利他行に励むこと。
お大師様は至る所で、自利の為にも利他行が大切であると説いておられます。
「それ釈教は浩汗(こうかん)にして際(きは)なく、涯(はて)なし。一言にしてこれを弊(つく)せば、ただ二利にあり。
常楽の果を期するは自利なり。苦空の因を済(すく)ふは利他なり。空しく常楽を願うも得ず。徒(いたずら)に抜苦を計れどもまた難し。必ずまさに福智兼ねて修し、定慧並べ行じて、いましよく他の苦 . . . 本文を読む
コロナが流行して予防だ治療だワクチンだと大騒ぎしています。予防法治療法がないのですからむべなるかなというところですが、こういう異常事態が出来すると宗教界は何を説くのか、ということが注目されます。関東大震災では天譴論が説かれました、オウム事件や東日本大震災でも宗教界の説明が注目されました。私は縁がなかったからかもしれませんがこれに直接関連して納得する教えは聞いていません。コロナでも同じです。しかし自 . . . 本文を読む
十善業道經大唐于闐三藏實叉難陀奉制譯如是我聞。一時佛、娑竭羅龍宮にいまして、八千大比丘衆三萬二千菩薩摩訶薩と倶なりき。爾時世尊龍王に告げて言く。一切衆生心想異るが故に業を造ることも亦異なり。是の故に諸趣に輪轉すること有り。龍王、汝此會および大海中に形色種類各別なるを見るや不や。是のごとく一切心によりて善と不善とを造る。身業と語業と意業との致すところならざるはなし。而も心は無色にして見取ばからず。但 . . . 本文を読む
「(聖徳太子の言に)「吾が日本ハ種子を生じ、震旦は枝葉に現はし、天竺は花実を開く。故に仏教は万法の花実たり。儒教は万法の枝葉たり。神道は万法の根本たり。彼の二教は皆是れ神道の分化也。枝葉花実ヲ以てその根源ヲ顕はす。花落ちて根に帰るが故に、今此の仏法東ス。吾が国の、三国の根本タルコトヲ明かサンが為也。尓りし自リ以来、仏法此に流布す」(吉田兼倶「唯一神道名法要集より」)
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叡尊(えいそん・、建仁元年(1201年) から正応3年8月25日(1290年9月29日))は、鎌倉時代中期の真言律宗の僧。字は思円(しえん)。謚号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。興福寺の学僧慶玄の子で、大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市)の生まれ。戒律を復興し、奈良西大寺を復興。しかしなんといっても興正菩薩叡尊のご功績は、神風を吹かせたことにあります。『律苑僧宝伝』に蒙古襲来時の興正菩薩叡尊 . . . 本文を読む
奝然は天慶元年1月24日(938年2月25日)生まれ 長和5年3月16日(1016年4月25日)没。号は法済大師。東大寺の三論宗の僧。東大寺の観理に三論教学を、近江国石山寺の元杲(げんごう)に真言密教を学んだ。983年(永観元年)、渡宋。天台山・五台山を巡礼。太宗から大師号や新印大蔵経などを賜って日本への帰途についた。途中でインドの優填王(うでんおう)が造立したと言う釈迦如来立像を模刻し、胎内にそ . . . 本文を読む
今日は広島佛通寺開山の愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)逝去の日です。愚中周及は応永16年8月25日(1409年10月4日)86歳で逝去しています。愚中は、13歳で京都臨川寺の夢窓疎石に師事して出家、その後、元に渡り帰国後、京都南禅寺・丹波国天寧寺などを経て、1395年(応永2年)沼田荘の地頭小早川春平の開基により、安芸国に佛通寺の開山となった。その後将軍足利義持に請われて上洛、1409年(応永16 . . . 本文を読む
仁義佛立講開拓団事件は、東京材木町にあった乗泉寺の信徒が結成した仁義佛立講満蒙開拓団が昭和20年8月25日、満州国竜江省(現・中華人民共和国黒龍江省)において避難中に団員約680人がソ連軍と中国人に虐殺された事件。
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