亀田駅での節電対策の次は、旧客の話題をお伝えします。
5月28日、29日にレトロ花回廊号が走りました。今年は、両日とも新津から羽越本線、米坂線を経由して今泉まで往復するものでした。DE10 1124+旧型客車3両の編成でした。昨年は1番線からの発車でしたが、今年は5番線からでした。
それでは、レトロ花回廊号の模様を見てみましょう。両日とも新津駅で撮影しました。
2011年5月28日。旅客が利用する旧型客車は前日のうちに新津駅に送り込まれたようで、朝の段階でSLばんえつの送り込みと並びました。DE10 1124は何処??
DE10形を先頭とした編成が5番線に入ってくると、ホームは大賑わい。HMは昨年と同様のようです。
この日の牽引機は、郡山車であるDE10 1124。1971年・汽車會社製造で、これまた年代モノです。
続いて客車を紹介します。1両目はスハフ42 2173。レトロ花回廊号は全車指定席だそうです。
2両目はオハ47 2266。この3本線は、旅客列車が3等級だった時代に3等客車を意味していたのだそうです。
3両目はスハフ32 2357。「・」は何を意味しているのだろう?
最後尾の様子。扉は付いておらず、後方展望が望めるようになっています。
続いて車掌室も紹介します。圧力計が付いていますね。放送装置はマイクジャック方式のようです。ハイケンスのセレナーデは積んでいないようです。
続きまして、5月29日の模様を紹介します。
レトロ花回廊号である編成は、8時50分頃に新津運輸区から出てきました。一旦古津方に行き、入れ換えたようです。
当該編成は、9時2分頃に5番線に入線し、キハE120系との並びが実現しました。
この日の牽引機は、長岡車であるDE10 1680。昭和49年・日本車輌製造です。
停止位置付近では、バウチャーと引き換えに特製弁当の配布が行なわれていました。
9時20分に新津駅を発車。今泉には12時49分の到着でした。尚、帰り便は、今泉14時30発で、新津着は17時54分でした。
レトロ花回廊号のレポートは以上です。2日間とも好天には恵まれませんでしたが、今年も新緑の米坂線を旧型客車が走り抜け、車内外は多くのレイルファンで賑わいました。次に旧客が走るのはいつでしょうか。
次は、九州新幹線関連の乗り継ぎ旅行の模様をお伝えします。
駅での節電対策をもう1例紹介します。
福島第1原発で相次いでメルトダウンが発生し、浜岡原発も停止しました。日本の電力需給がいよいよ逼迫し、世の中はとにかく「節電」「節電」です。今年の夏は15%の節電が求められ、鉄道会社は夜間の間引き運転を要請されています。駅では一段進んだ節電対策が求められ、そのいくつかが既に実行されています。
今回紹介するのは、信越本線の亀田駅です。亀田駅は、新潟市江南区の唯一の駅で、新潟駅から長岡方面に向けて2駅目です。横越方面からの利用客も少なくありません。もともとは小ぶりな木造駅舎でしたが、平成17年10月に橋上駅舎化されました。東口には高校を3つも抱え(高等養護学校を含む)、学生の利用が多い駅です。その一方、西口は地域交流センターへと繋がっています。
それでは、亀田駅における節電対策を見てみましょう。
亀田駅に降り立つと、2基のエスカレーターが目に入ります。しかし、節電対策のためにいずれも閉鎖されており、階段かエスカレーターを利用して改札に上がることになります。
改札前です。日中時間帯は照明を全て消しています。また、亀田駅には自動改札が4台ありますが、入口用と出口用がそれぞれ2台ずつなので、いずれも稼動しています。
東口に出ます。上下のエスカレーターはいずれも使用停止しています。
エスカレーターの入口であるこの塔は、事実上立ち入り禁止となっています。南側から来る乗客は、北側に迂回して階段を利用するかエレベーターを利用するしかありません。停止しているエスカレーターを走ってよじ登ったのを見たことがあります。
西口に出ます。こちらも2基のエスカレーターがありますが、いずれも使用停止しています。自由通路も照明を消していますが、大きな窓から太陽光が入るので割りと明るいです。
こちらの塔も事実上立ち入り禁止となっています。利用者は、北側へ迂回して階段を利用するか、エレベーターを利用しなければなりません。
亀田駅の節電対策は以上です。エスカレーターの使用停止や日中時間帯での照明の消灯は、多くの駅で共通して見られます。新津駅では自動改札4台のうちを1台を止めていますが、ここでは多くの学生を捌くためか、自動改札を削減していないのは幸いでした。
今年の夏は「やや暑い」と予測され、例年より梅雨が数週間早くなるという異常気象も起きています。JR東日本は、夏場の冷房の設定温度を例年より2℃高い25~28℃にしています。知恵を振り絞って、暑い夏を乗り切りましょう。
といっても新幹線のお話です。
2011年4月29日の東北新幹線が仮復旧し、新青森から鹿児島中央までレールで繋がりました。復興に向けて日本が一つになろうと、JR東日本の新幹線車両には「つなげよう 日本。」、「がんばろう日本! がんばろう東北!」のステッカーが順次取り付けられました。また、東日本を元気付けようと、6月と7月に「東日本パス」が発売されます。
5月に入り、新潟駅にもこのステッカーが取り付けられた車両が徐々にやってきました。これは記録するしかないと思い、2回見てきました。
それでは、5月15日の上越新幹線の模様を御覧下さい。
最初に見たのは「とき364号」。開業当時のツートンカラーにリメイクされた、200系K47編成で運用されました。
その時、13番線に停車中の列車は「とき328号」。飛雲+緑帯+紫苑の標準色である、200系K43編成で運用されました。
1号車運転台ドア脇には、白地に「つなげよう、日本。」。D51 498のテンダーで見ましたね。
10号車運転台に行ってみました。こんどは異なるステッカーが貼られています。
新潟方運転台のドア脇には、赤地に「がんばろう日本! がんばろう東北!」。東日本エリアの地図が描かれています。
「とき328号」が発車してしばらく時間をおくと、「Maxとき330号」が13番線に入ってきました。E4系P14編成です。
8号車ドア脇の「がんばろう日本! がんばろう東北!」。黄帯にかかると悪いので、貼るスペースに余裕が無かったのではないのでしょうか。
1号車ドア脇の「つなげよう、日本。」。こちらも余裕がないですね。E5系だと客室ドアの脇ですけどね。
発車まであと数分となったところで、E4系P9編成である「Maxとき366号」が入ってきました。向こうにいるK編成は何でしょう?
こんどは反対側から。E4系の3本並びが実現しました!P9編成にはステッカーがありませんね。でも、翌日には検修に入り、ステッカーが貼られたそうです。
これでレポートは終了です。4月23日から始まった青森ディスティネーションキャンペーンのこのステッカーが掲載されています。このDCは7月末まで続くので、それまではステッカー付きの編成が見られると思います。東日本パスも発売されることだし、新幹線をもっと利用しましょう。
気仙沼線駅巡りが終わったところで「8連いなほ」の話題をお伝えします。
今年も修学旅行シーズンがやってきました。庄内地区の修学旅行生を輸送するため、「8連いなほ」の運転が追加されました。
対象となったのは、5月17日の「いなほ9号」~18日の「いなほ4号」、20日の「いなほ11号」~21日の「いなほ6号」でした。彼らの修学旅行先は首都圏なので、18日の「いなほ4号」で出発し、20日の「いなほ11号」で帰ったと考えられます。対象となったのは、甲子園輸送やGWの時と同様に485系R25編成でした。15日の「いなほ8号」で運用を終えた後にMM'3086ユニットが組み入れられ、17日の「いなほ9号」に入りました。
それでは、5月21日の「いなほ6号」の模様を御覧下さい。
今回は大形駅で撮影しました。10時56分頃に通過しました。北側には新潟北高校がありますが、南側は一面の田んぼです。田植えが終わり稲が出てきたところで、心和む風景です。
新潟駅に向けてラストラン。6連を見慣れている私にとって8連は立派です。931Mが発車して5分しか経っておらず、被られなくて助かりました。
新潟駅に到着した後にしばし待機し、11時27分頃に新潟車両センターに向けて回送されました。翌日には3086ユニットが抜かれるでしょう。
本来の折り返し列車である「いなほ5号」には、全般検査(要部検査?)から出場して間もない485系T13編成が充てられました。写真は越後線140M(115系L14編成)との並びです。12時5分までに入線したのは確かです。
これで「8連いなほ」は一旦終了です。お盆輸送の時期にもあるかと思います。今度は何編成が該当するのでしょうか。「いなほ」にどんどん乗ってください。私はこれを楽しみに485系を追いかけつつ、時には駅巡りをしていきます。
陸前豊里駅から2945D(キハ48 1544+キハ48 552)に乗車し、2駅気仙沼方面へ戻りました。
16時15分に柳津駅に到着。交換可能駅で、島式ホーム1面2線の構内です。東日本大震災の影響で、現在はここが終点となっています。
気仙沼方に目を転じると、保線用側線が1本あります。いま乗った2945Dの車両は大津波で被災したとみられており、これが最期の見送りとなってしまいました。
跨線橋を渡って駅舎に出ました。「ゆうキャビン」という合築駅舎で、観光案内所で乗車券を販売しています。林業の盛んな土地柄で、付近に「もくもくランド」があり、内部まで丸太造りの木造駅舎となっています。トイレもまた然りです。
ホームには「みやぎ北上連邦」の案内図があり、現在の登米市域がパスポート不要の独立国と銘打っています。この柳津駅は「カッパステーション」で、「入国管理事務所」です。
柳津での滞在時間は34分。折角なので、周辺散策。撮影しそびれましたが、駅前は田んぼです。
駅から歩いて5分の所に登米市津山総合支所があります。それに隣接する麻崎神社を訪問し、旅の安全を祈願してきました。
神社から戻ると、2度目の歯磨き。そうこうするうちに、発車時間が迫ってきました。折角なので、跨線橋を渡って裏口に出てみました。国道につながっていますが、付近には僅かに工場があるだけで人家は希薄です。
列車に乗ろうとホームに上がると、女性が1人待っていました。有壁の親戚の所に行くところだとか。16時49分発の快速南三陸4号(キハ110-124+キハ112-213+キハ111-213+キハ110-5)に乗車し、仙台に戻りました。これもいい感じの乗車率なので、通夜帰りの女性と相席させてもらいました。
小牛田にて前に「キハ110-126」を連結し、定刻18時5分に仙台駅4番線に到着。
発車メロディーを録音し終えると、もう仙台を発つ時間となりました。18時35分発のWeライナー(新潟200か357)で帰路に就きました。この日は6割くらいの入り。広瀬通1番町を出てから、仙台駅で購入した「女将のおもてなし弁当・松島篇」で夕食。牡蠣尽くしの駅弁で、この旅初めて海産物を食べました。途中、福島松川PA、上川PAで小休止。
新潟駅には22時12分に到着し、2009年11月7日の時よりも12分早着でした。22時38分発の信越本線2238D(キハ112-201+キハ111-201)で帰り、新津駅には23時に帰還しました。
以上で2011年3月5日の気仙沼線駅巡りは終了です。旅を終えて4日後にはM7.3の前震が発生し、6日後にはあの東北地方太平洋沖地震が発生しました。御覧の皆様も御存知かと思いますが、あの大津波で南三陸町は甚大な被害を受け、気仙沼線でも橋脚や駅舎などの流失が多数発生しました。JR東日本は地震保険が710億円下りることが決定しています。全線復旧には相当な費用と期間がかかるでしょう。この度被災されました皆様には心より御見舞いを申し上げ、一日でも早い復興をお祈り致します。
2011年春の「青春18」解禁乗り継ぎ おわり
先日は失礼しました。気仙沼線駅巡りに戻りましょう。
前回はこちら
御岳堂駅を出て5分くらい、気仙沼線の線路をオーバークロスして線路の右側の集落へ。田んぼの向こうには旧北上川が流れています。
更に5分ちょっと歩くと、赤生津要害館跡。陸前豊里までの道のりも見所が多そうです。月の和館とも関係があるのではないか。
それに隣接して、曹洞宗の寺院である月輪山香林寺。葛西氏の支族、月の輪氏の菩提寺です。家の宗教ではないですが、一応お参りしてきました。
順序が逆になりますが、山門も紹介します。天正12年(1584年)の開基の時に、月の和館の東門を移設したと伝えられています。門の形状からして、城門の遺構とみなされています。妻面も門の架構をそのまま示し、下方の大虹梁の上に一対のかえる股を配し上方に二重目の虹梁を渡し、その中央に大瓶束を置いて棟木を支えています。正面の彫刻に記された唐草文、頭貫木鼻の絵様、虹梁に施された渦文など、様式的には室町末期の特徴を備え、技法も堅実で、意匠的に優れています。中世建築遺構として貴重な存在で、昭和47年に宮城県の重要文化財に指定されています。
香林寺から集落道を歩くこと20分、豊里地区県営ため池等整備事業完工記念碑に出会いました。今でこそ農村地帯ですが、ここに至るまでの道のりには先人達の血のにじむ努力があったのですね。
間もなくして、再び気仙沼線をオーバークロスしました。眼下には豊里病院と「スマイルとよさと」があります。
とある農道との交差点を右折すると、あとは住宅地を進むのみ。新しい住宅が多く中、ボロボロの納屋も見ることが出来ました。
御岳堂駅を出て1時間余り、小中一貫校の向かいにあるローソンで缶コーヒーを購入。その後、でんきタウンを右折すれば、陸前豊里駅に到着しました。尚、駅前には佐藤病院があります。
それでは駅舎撮影。平成15年4月にオープンした「産直がんばる館」で、中では農産物やアイスなどが販売されており、お茶することも出来ます。レジで乗車券も販売されているので、さすがに内部の撮影を見合わせました。営業時間は8:00~18:00です。券売機が無いので、それ以外の時間帯は乗車券は車掌などから購入することになります。尚、トイレはドアの右側です。
跨線橋を渡ってホームに上がりました。駅裏は運動公園になっています。サッカー場だと思われます。
そろそろ出発の時間となりました。申し遅れましたが、陸前豊里駅は交換可能駅で、島式ホーム1面2線の構内です。16時5分発の2945Dに乗車し、この日最後の訪問駅へと向かいました。
つづく
参考サイト さいきの駅舎訪問
ここで新潟地区の鉄道の話題をお伝えします。
5月13日から15日にかけて「リゾートビュー越後妻有号」が設定され、長野地区で2010年10月に登場したハイブリッド気動車・HB-E300系が新潟にやってきました。この臨時列車は4月15日~17日にも予定されましたが、東日本大震災の影響で設定取り消しとなりました。HB-E300系・「リゾートビューふるさと」が新潟に入線したのは今回が初めてです。走行区間は新潟~十日町です。
早速ですが、新潟にやって来たHB-E300系の模様を見てみましょう。上りは5月14日に、下りは5月13日に撮影しました。
まずは、5月14日の上り列車から。
長岡車両センターから出区して、7時10分に新潟駅4番線に入線しました。前面には「RESORT HYBRID」と描かれています。
逆光になりますが、反対側から。HB-E300系は2両編成。側面に「HYBRID」とでかでかと書かれています。
ついでに方向表示LED。無愛想(?)にも「臨時(EXTRA)」の表示。ちなみに、HB-E300系は車外放送装置も使用されます。
特急北越2号(485系T14編成)が入線し、7時34分に十日町に向けて発車しました。停車駅は、新津、加茂、東三条、見附、長岡、小千谷、越後川口、内ヶ巻、越後岩沢、下条、魚沼中条、終点・十日町です。
続いて、5月13日の下り便の模様をお伝えします。
17時3分に新潟駅1番線に到着しました。白新線667Mが節電のため運休なので、30分を過ぎても在線しています。
平日にもかかわらず「同業者」が多数居り、たまたま通りかかった高校生も驚いていました。
最後に、白新線662Mとの並びを。17時48分に長岡車両センターに回送されました。
「リゾートビュー越後妻有号」のレポートは以上です。全席指定なので、あらかじめ指定券が必要です。尚、「リゾートビューふるさと」は、普段の週末は長野~松本~南小谷のルートを往復しています。これからも、HB-E300系が新潟に来るチャンスは何回かあるかと思います。
陸前横山駅の火の気の無い待合室に震えながら待ち、9分遅れでやってきた12時58分発の2941D(キハ48 1535+キハ48 538)に乗車して、再び南三陸町に入りました。
折角なので、再び志津川湾の絶景を楽しんで。対岸には志津川の町並みが広がっていました。
4分遅れの13時23分に清水浜駅に到着。片面ホーム1面のみの構内で、背景は杉林です。
それでは駅舎撮影。入口に時刻表があり、階段を上がったところに昭和51年3月31日築の待合室という無人駅です。今回の旅で唯一、トイレの無い駅でした。これに隣接してスズキボディーがありました。
35分の滞在時間を利用して周辺散策しました。駅から国道方向に進むと漁村が広がっており、閘門の内側に何艘も漁船が係留されていました。三陸ならではの生活の知恵を見ることが出来ましたが、今回の大津波では…。
床屋の交差点を右折し、防波堤をくぐって清水漁港へ。陸揚げされている漁船は数艘だけで、数多くの漁船が沖止めされていました。
漁船が数多く沖止めされている風景は初めて見ました。何て穏やかな海なのでしょう。漁が終わったのかな。
R45を志津川方面に行き、ファミリーマートで買い物。Tポイントを貯めて駅に戻ると、もう時間となりました。清水浜駅の待合室も他の駅と同様に券売機も暖房もありませんが、先ほどの駅よりも幾分暖かく感じました。13時58分発の2940D(キハ40 572+キハ40 2021+キハ40 2086)に乗車し、そこで購入したスイーツを食べながら過ごしました。
3分遅れの14時32分に御岳堂駅に到着。片面ホーム1面のみの構内です。駅裏は田んぼです。
それでは駅舎撮影。地面より階段を上ってホームに上がる形態で、左手に昭和43年9月築の待合室があります。駅前広場に仮設タイプのトイレがあります。公衆電話も健在です。
窓から光が入ってくるので、待合室の様子も。壁伝いに木造のベンチがあり、開業当時の雰囲気を感じさせます。無人駅で券売機の類も無いですが、ゴミ箱が設けられ箒も備え付けられています。
14時40分に調査が終了し、陸前豊里駅に向けて歩きました。駅前は農村地帯で田んぼが多く、向こうには旧北上川が流れています。
あの東北地方太平洋沖地震が発生したのは14時45分。もし、あの日に今回の日程で気仙沼線駅巡りを実行していたら…。たとえ陸前豊里の避難所に辿り着いたとしても、しばらく現地に缶詰だったでしょう。
続きはこちら
志津川駅から陸前戸倉駅の中間地点にはホテル観洋。弁天崎にあり、南三陸温泉にあたり絶景露天風呂があります。しかし、現在も断水が続いており、レストランのみの営業だそうです。
弁天崎を過ぎてからも大海原を眺めながら進みました。波静かな志津川湾で、養殖の生簀がどこまでも並んでいました。
すると、漁をしている小舟を見ることが出来ました。こんなに海が穏やかなのは、実は大津波の前触れだったかもしれません。
もう少し南下すると、小さな港がありました。志津川湾の南端にあたる神割崎は、ここから南10kmの所にあります。
海岸から離れると、住宅が引っ切り無しに続いていました。蔵風の建物がアクセントでした。今はもう…。
セブンイレブンが見えてくると、もうすぐ陸前戸倉駅に到着します。志津川駅を出て80分後でした。
それでは駅舎撮影。高台に待合室がある駅でした。駅前広場にトイレがありました。頑丈そうな石積みの土台に建てられていましたが、あの大津波で流失してしまいました。
ついでに入口にある時刻表も撮影。上り7本、下り8本ですが、8時を過ぎると昼下がりまで空白時間帯となっています。
お昼時になったので、待合室で持参のパンで昼食。無人駅で券売機の類もないですが、流木が置かれていました。
昼食を終えて、ホームに出ました。片面ホーム1面のみの構内で、背景は杉林でした。眼下には釣具屋とマインドショップ マルユーがありましたが、もちろんあの大津波で…。
何時の間にか女の子が1人やってきました。彼女と共に12時35分発の2938D(キハ48 501+キハ48 1511)に乗車し、横山峠を越えて南三陸町から登米市に入りました。
12時44分に陸前横山駅に到着。片面ホーム1面のみの構内です。私と共に高校生が何人か下車し、それに代わって若者が何人か乗車しました。眼下は新興住宅地となっています。
それでは駅舎撮影。陸前戸倉駅と同様、階段を上った先に待合室がある無人駅です。入口に時刻表があるのも共通です。駅前広場には真新しいトイレがあります。
駅前の様子。盆地に集落が固まっています。R45が貫通しており、それに隔てて横山小学校があります。尚、徒歩圏内に横山不動尊があります。
陸前横山での滞在予定時間はたったの14分。R45まで行って終わり、待合室に戻りました。火の気が無く、風邪を引きそうになりました。
つづく
しばらく中断を挟みましたが、気仙沼線駅巡りを再開します。
前回の模様はこちら
前谷地駅から快速南三陸1号に乗車し、海沿いの駅を目指しました。
のの岳駅を通過して間もなく、旧迫川を渡りました。長閑な景色ですけど、近くに橋はありません。
続いて、迫川を渡りました。間もなく、陸前豊里駅に到着。
その後、登米市を経て南三陸町に入りました。今思えば、えらい所に踏み入れてしまったなと。
10時13分に志津川駅に到着。当駅折り返しが設定されていませんが、2面3線+保線用側線1本の構内でした。こんな気持ちのいい青空が広がっていたんですけど、6日後にはあの大津波でこのホームも水没したのだろうか。
地下道を通って、駅舎に入りました。委託ながらも窓口があり、営業時間は7:50~18:45(休み4回)でした。待合スペースが2箇所もあり、気仙沼側には売店が併設されていました。ここで南三陸町のパンフを貰いましたが、「Please 南三陸時間旅行。」というタイトルだった事は何とも皮肉です。
それでは駅舎撮影。国鉄後期型の平屋の駅舎で、近年にリニューアルされていました。屋根がサンドベージュになっていました。地下道が「1976.2」で、この駅も昭和52年12月の開業でした。トイレは改札の中にありました。皆様も御存知の通り、志津川の町並みと共にこの駅舎も流失してしまいました。
快速通過駅である陸前戸倉駅を目指して歩きました。駅前には商店街が軒を連ねていましたが、今思えば記録しておけばよかったな。尚、徒歩3分の所にウジエがあり、近くにはサンポートもありました。
商店街を抜けて間もなく、古い道標がありました。このあたりは旧志津川町の中心部で、ほどなくR45に入りました。
水尻橋の交差点を左折して、松原公園に寄り道。そこにはC58 16が保存されていました。
その向かいにはモアイ像とコンドルの碑。チリ地震津波災害復興30周年となる平成2年に、チリ共和国から友好の証として贈られて建立されました。志津川モアイ化計画なるものも進められていたようです。
松原公園は志津川公民館と総合グラウンドに囲まれて位置し、子供達のテリトリーとなっていました。よって、早々にR45に復帰し、水尻川を渡りました。
一山越えると、三陸の海が目の前に。自分の足で辿り着いた海は矢張り格別です。
歩道のある山側を10分ほど歩くと、とある駐車場に到着。ここでしばし海を眺めました。ちょうど、大漁旗を掲げた漁船が入港するところでした。
つづく
参考サイト さいきの駅舎訪問