徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

再び、江戸時代の武士の生活 ② 武士の住まいーその2ー

2013年03月24日 15時49分23秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸にある大名や旗本、御家人の武家屋敷は、あくまで幕府から借りているという建前で、売ったり買ったりすることは、禁じられていました。
「拝領屋敷」と呼ばれ、将軍から預かっているということで所有権はなく、使用権を認められているにすぎません。

つまり、借地であり、借家なのです。

  江戸の大名屋敷の分布図
 丸の内界隈に上屋敷、赤い点が下屋敷の分布 日本橋を中心に町屋が左右、上下に伸び
 茶色には寺社の広大な境内が広がっています。 

 

ここでは、江戸における大名屋敷について述べます。

あの忠臣蔵の野家断絶となり、即日、上、中、下屋敷とも返さなくてはならなくなりました。
使用権も消滅し屋敷は返還したのですが、自費で調達した襖、障子から庭木、庭石に至るまで撤去しなくてはならなかったようです。

大名には、江戸幕府により、江戸城付近から郊外にかけて複数の屋敷用地が与えられた。
江戸城からの距離により、上屋敷、中屋敷、下屋敷などがあり、これを総称して江戸藩邸と言います。

全ての大名が上、中、下の屋敷を有していたわけではなく、中屋敷を持たない藩や複数の下屋敷を有する藩など様々です。

 

   
   1865年ごろ、愛宕山から江戸の町を      江戸東京博物館にある福井藩上屋敷の模型
   望む、大きな屋根が大名屋敷。       

 

この江戸幕府から与えられた土地に建てられたのを拝領屋敷といいますが、一方大名が民間の所有する農地などの土地を購入し、建築した屋敷を”抱屋敷(かかえやしき)”と呼ばれます。

上屋敷は、大名とその家族が住み、政治的機構が置かれた屋敷で、中屋敷は、上屋敷の控えとして使用されました。
主に隠居した者や成人した跡継ぎが住んでいる場合が多いようです。

下屋敷は、別邸としての役割があり江戸城から離れた郊外に置かれました。

明治維新後は明治政府に接収され、跡地は、官庁や大学、軍関連施設に利用されましたが、抱屋敷は引き続き所有者(大名)に帰属されました。


再び、江戸時代の武士の生活 ① 武士の住まいーその1ー

2013年03月22日 16時01分07秒 | 江戸時代とは・・・・・

当ブログで2010年12月14日、江戸時代 武士の生活として、年収、俸禄、行政組織、身分費用、交際費について述べてきました。
ここに、再び江戸時代の武士の生活について書いてゆきたいと思います。

今の日本人の生活、習慣などは江戸時代に確立したものが多くあり、江戸時代を知ることによって、今の日本を知ることにもなるのではないでしょうか?

江戸時代は慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍の宣下を受け、それから、今年平成25年(2013年)は410年になります。

この時代の統治は、いわゆる武士階級が握っていました。
そこで、その武士の生活について考えてみました。

江戸時代では、身分階級として、士農工商がありますが、それぞれ居住区が決められおり、武士は武家屋敷の地域に住まなくてはなりません。

武士といっても、大名もいれば、下級武士もおり、俸禄の差が天と地ほどの大差があります。
当然、住居の大きさだけではなく、その様子も違います。

  
               昨年訪れた金沢の長町武家屋敷の長屋門          

 

町人の大半が住んでいた長屋の広さは、畳に換算すると約6畳位だそうです。
その中に玄関から台所、食べたり寝たりするのですから、一人暮らしでも手狭でしょう。

それに比べて武家屋敷は、身分によって大きな差がありますが、100石以下でも100坪から200坪あったそうです。
300石の旗本なら500坪、10万石の大名なら7000坪という広大な敷地に屋敷を構えています。

例えば300石の旗本なら500坪の敷地の中に母屋と使用人が住む平長屋があり、便所やお風呂、井戸など二つあり、協同使用されていました。
使用人として、門番、槍持ち、中間、若党、草履取り、用人、それに下働きなど約10人ほどいました。
母屋には、旗本の家族が暮らしています。

その屋敷も門構えで、格式がわかります。
江戸に限定すれば、左右に開く「開き門」であれば、禄高の多少にかかわらず、旗本であり、門ではなく、木戸の屋敷であれば、御家人の住まいです。

  門構えについては、当ブログ 2006年9月22日付けの”門構えで格式が決まる”をご覧ください。
    http://blog.goo.ne.jp/ganbaro433/e/89bf7a75c7b7758d9ff07587a4a6c9bd

 

さらに、門番がおれば300石以上の旗本ですが、門番がいない旗本の家は、門に並んだ通用口の扉に鎖をつけ、その先に徳利をぶら下げていました。
徳利は、自動ドアの役目をしており、押せば開くが、手を放せば自然に閉まるというもので、「徳利門番」と呼ばれていたそうです。

   
     徳利門番   徳利が錘となり、自動的に締まるというもの。

 

 

    因幡鳥取藩池田家上屋敷(32万5千石) 
       左右に向唐破風造の番所を備えた格式高い大名屋敷の門


江戸時代、武士の生活⑤ 交際費

2011年02月08日 08時58分20秒 | 江戸時代とは・・・・・

武士の格式を保持するための”身分費用”の内、交際費と雇い人への給金の費用が多くを占めています。

まず、交際費の多くは、親類縁者への儀礼行事の費用です。
百姓町人にも年中行事や儀式もあったのですが、武士の場合は、年中行事や儀礼を盛大にに行うことが身分の証しであり、社会的に、そうしなければ不都合が生じるのです。

武士の付き合いは、親類や同僚、上司、部下や雇い人などに、歴代の当主がしてきたと同じようにしなくてはなりません。
端的に言って、ええかっこをしたのです。

農民がムラや本家・分家の関係のなかで生きてきたように、武士も「親族の世界」に生きてきたのです。
むしろ農民より親類関係は強かったのです。

武士は、日頃から親類関係を濃密に保っておく必要があったのです。
「親族の世界」は、婚姻や養子を通じて生じる縁戚関係によって形成されることが多いのです。

普通の武士の日常生活は、嫁、養子のやりとりで形成される「血の濃い親族」のほうが重要なのです。
武士が親族関係を重視する理由は多くあります。
まず、親族関係にはお金で繋がっているからです。
武士の金融は親類関係に大きく依存していました。
内情を知った者同士であればこそ金融取引のリスクは小さくなるからです。

 
    個展出品作     ”はな” F6号   

また、武家社会では、情報や教育の面でも親族は重要でした。
親族関係は、同じ格式俸禄の似通ったもの同志で形成されています。

当時の平均寿命は短く、当主が早死にすることが多く、残された遺児が家督を継ぐために、その教育やしきたりを伝授するのは、親戚であり、たとえ成人していても親族の助言や後見は重要で、その家の存続にはかかせないものなのです。

まして、男子が生まれなかったとすれば、養子をとらなくてはならず、その養子をとるにしても親族の同意が必要なのです。
親族は運命共同体であり、コミュニケーションは欠かせなかったのです。

これらのことを見越して、常日頃から親族を大事にすると同時に、親族に多額の交際費が使われたのです。

交際費と同時に多額の費用は、これも身分を保つために雇い入れた家来や下女の給金です。
これについては、後日に・・・・・


江戸時代、武士の生活④ 身分費用

2011年02月06日 09時43分05秒 | 江戸時代とは・・・・・

武士は、その身分としての格式を保つために支出を強いられる費用があります。
召使いを雇う費用、 儀礼行事を執り行う費用、 先祖・神仏を祀る費用、 等・・・・

これは、強制的・慣習的・文化的強制によって支出を強いられる費用で、この費用を支出しないと、江戸時代の武士社会から、はじき出され生きていけなくなります。

多くは、現在では無駄と思われるものですが、その身分であることにより不可避的に生じる費用なのです。

「武士の家計簿」の著者は、これを「身分費用」という概念でとらえています。
逆に、その身分であることにより得られる収入や利益もあり、これを「身分利益」と言っています。

この「身分費用」が、武士を困窮化させた最たるもので、武士の身分としての収入より、身分費用の方がはるかに多くなりました。

というのも、幕末に近づくに従って武士身分の俸禄が”半知”とか”借上”とか言って俸禄カットされて身分収入が激減します。
身分費用は、武士という面目を保持するために、そして家の格式保持のために削るわけにはいかないのです。

 
           
   昨年、個展出品作を連載しています。(江戸時代シリーズ)  少し季節外れですが「柿」F6

 

武士の家計簿」によれば、総支出費用の約3分の1にあたるそうです。
なかでも、儀礼行事の交際費用が多いようです。

武士の儀礼行事は、年間22種類もの年中行事があり、これを盛大にすることが、身分の証しなのです。
そして日頃から親戚関係を濃密に保っておくのが、武士の身分保持に重要なのです。


江戸時代、武士の生活③ 行政組織

2010年12月27日 15時42分25秒 | 江戸時代とは・・・・・

再び、江戸時代の話に戻ります。
武士の身分は、武士内部に複雑な身分階級は成立していました。

その身分制度が、そのまま行政組織にもなりますが、大名家によって、分け方や名称が異なります。

大きく分けて、上士、中士、下士に分かれます。
この区分は、絶対であり、下士から中士には、ほとんど上がる可能性はありません。
上士の筆頭は家老職で、以下側用人、用人格、大寄合、物頭等です。

中士には、側頭、供頭、寄合席、留守居、奉行、納戸役、目付、小姓頭、医師などです。
そのなかで、奉行には、町奉行、郡奉行、勘定奉行、寺社奉行などがありますが、「武士の家計簿」の主人公の算用者は、勘定奉行の配下です。

下士は、徒士小頭、組頭、徒士格などです。

藩士は、格式、俸禄、役職によって藩内での位置ずけがされます。
格式は、藩主との位置関係を家単位で示したもので、その格式に応じて俸禄が与えられ、役職も決められました。

ということは、格式は、先祖代々変わらないので、役職も基本的に変わりませんでした。
が、唯一例外があります。

江戸時代の事務を司る職には、機密文書を取り扱う「奥祐筆」、書類の作成する「表祐筆」があり、そこには帳付けする勘定方という職があり、その職には、算術に心得のある下士が当たっていました。

しかし、「算術」の出来る人材がいつも不足しかちであり、算術には、世襲に向かず、この職種だけは例外としているところがほとんどだそうです。

   
     今年、6月に訪れたディズニーランドにて   個展出展作 その3

武士、特に上士は、算術を賎しいものと考える傾向があり、子弟には学ばない方が良いとさえ考えていました。
つまり、ソロバン勘定などは「徳」を失わせる小人の技であると考えられていたからです。

算術は、世襲に向かず、個人の出来不出来が如実に表れて、ソロバンにかかる職種だけは、例外になっており、身分にとらわれない人材登用がなされていたということだそうです。


江戸時代、武士の生活② 俸禄とは・・・

2010年12月16日 11時03分57秒 | 江戸時代とは・・・・・

磯田道史著「武士の家計簿」によると、猪山家の歴史は、猪山清左衛門という人物から始まっています。
この初代が亡くなったのが慶長10年(1605年)ということになっています。

ということは、加賀家藩祖の前田利家の時代から侍であったということです。
侍といっても、「直参」と「陪臣」があり、猪山家は、「陪臣」だったようです。

「陪臣」とは、家来の家来であり、つまり、猪山家は加賀前田家120万石の家来、菊池右衛門という千石取りの加賀藩士に仕えていました。

当時、武士といっても、「直参」と「陪臣」があり、俸禄には給足と無足というのがあります。

給足とは、「知行地取り」のことで、それ以外を無足と言います。

俸禄の種類は・・・
 ◎ 家禄・・・・先祖の功により、その家に対して支給されるもの。 いわゆる基本給です。
 ◎ 職禄・・・・職務を果たす上で、家禄の不足分を補う俸禄で、いわゆる職務加給です。
 ◎扶持米・・・領地の持たない下級武士に職禄の代わりとして支給されます。
 

その支給方法としては

◎ 知行地取り  格式が高い俸禄の支給方法で、領地を治めます。
            警察権も裁判権もあり、年貢を取り立てなくてはならず、領地内支配人や用人
            を置かなくてはならず、天候により収穫が不安定で、運搬などの費用がかかり、
            格式だけが取り柄なようです。

◎ 蔵前取り   米の現物支給 札差を通して、食べる分だけ米をもらい、残りは現金で。
 
◎ 扶持米取り 一人扶持とは1日当たり玄米5合で、年間1石7斗7升が支給されます。
           毎月分割で支給されます。
◎ 金銭支給   下男など身分の低いものには、金銭で支給されることもあります。

 武士の身分は、官位、家格、役職、そして禄高でも表されます。
官位や家格については別途に述べるとして、禄高も、その武士の身分を表しています。
知行取りは、その領地から取れる米高によって、例えば200石取りとか、500石取りとか・・・
蔵前取りは、50俵とか200俵とかと呼ばれます。

小説などで、下級武士に対して「さんぴん侍」などと呼ぶことがあります。
この「さんぴん」とは、年俸が3両1人扶持の侍のことで、現金と米の併給もあったのです。

   個展出品作 その2  ニュージーランド オークランドにて


江戸時代、一般武士の生活① 年収は・・・

2010年12月14日 15時48分45秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代とは・・・のシリーズでは、過去色々書いてきました。

2006年9月4日                    武士の収入はどうなっているの?  
2007年12月17日~2008年1月21日    江戸時代の庶民の生活        
2008年11月6日~2009年1月21日     江戸時代の中枢 江戸城のなりたち
2009年10月19日~2009年3月24日    江戸時代の生活 庶民の一日    

ここまででは、一般の武士の生活については、あまり書いていませんでした。

今回、神田の古本屋から「金沢藩士猪山家文書」が見つかり、それが「本」や「映画」になりました。
そこで、磯田道史著「武士の家計簿」をもとに、映画には描かれなかった部分を中心に書いてゆきたいと思います。

 

 下記は、2006年9月4日のブログで武士の収入について書いた部分を再現したものです。

 これには、知行と蔵前があり、知行は先祖からのその家に伝わった格式の一つで小なりと言えども大名と同様に領地を持っています。この土地から上がる収穫を米に換算し大名と同じく農民と分けますが、その割合は、かなり厳しかったと言われています。                    

蔵前取りは自分の領地を持たず、領主や幕府から給料として年に何表という米を貰っていました。
一俵は約四斗、十斗が一石と決められていましたから百表の蔵前取りは四十石ということになります。                                                            
蔵前取りは、豊作や飢饉に係わらず天候に関係なく毎年決まっただけの米を貰えるのが特徴で す。                                                            

また、それ以外に役高という役付手当もありました。                                 
 例えば、三十俵2人扶持という蔵前取りのうち2人扶持というのが、その役付手当です。 一人扶 持は、一人が1日に食べる米の量のことで、玄米5合と定められています。                
 つまり二人扶持は1日に1升、1年を現代風に365日として計算すると三石六斗五升という米が 月払いに換算して支給されます。                                          

当時の勘定方の役人は、このややこしい計算をそろばん片手にしていたことでしょう。」

つまり、以上が、映画「武士の家計簿」の主人公の御算用者の主な仕事の内容です。

武士の年俸は、石高で表されます。
中級武士の石高を50石とした場合
、それは米の収穫量であり、年貢の割合は、四公六民というのが標準的だとすると、取り分は20石となります。
米1石は1両というのが平均的だったらしいので、年収は20両ということになります。

では、1両とはどのくらいなのでしょうか?
1両といっても、価値は、慶長時代と天保時代とでは、まったく異なります。
天保時代の金の含有量が6.4gしか含まれておらず、1g1500円として計算すると、1両は約1万円となります。

とすれば、50石取りの武士の年収は20万円ということになりますが・・・・。
しかし、その時代の米価は、どのくらいだったのでしょうか?

江戸時代の諸物価を基準にすると、4文が100円という説から計算すると1両は15万円。
20石は、300万円となります。

別の計算基準では、当時の庶民の日当から計算した例があり、それによると20石は、600万円といわれています。

どちらにしても、色々な計算方法があり、江戸時代の武士の懐具合の実体は、はっきりしません。

   ニュージランド マウント・クック
   今年、9月の個展出品作を連載します。  その1  

 

 


江戸時代の生活 ⑭ -江戸しぐさー

2010年03月24日 12時52分12秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸っ子や江戸しぐさについては、2007年12月26日付けの当ブログ 江戸時代の庶民生活 ーその4ー で掲載しています。

そこで江戸しぐさについて、7項目程書いたのですが、まだまだありますので、続きを下記に書きました。

この江戸しぐさの根底にある考えとは、大事なものはみんなの共有物と考えて、相手を尊重し思いやる心なのだそうです。

 
   
今日の絵は、九州大分県両子寺にて   F8号

これらは、現在にも通じるもので、快適に過ごすヒントがあります。

① 感情を逆なでする言葉を使うな。
   聞く人の気分を害する
② 人の意見を無視する言葉を使うな。
   話している人は真剣です
③ 人の話を真剣に聞く時に、メモをとるな。
   メモをとると話す人の気が散る、聞く人の真剣味が減る
④ 人に行き先をむやみに聞くな
   プライバシーを尊重せよ(江戸時代にもプライバシーはあったのです)
⑤ 相手を卑下するな、威張るな。
   そんなに自分が偉いのか
⑥ 人と会っているときは、足組みや腕組みをするな
   自分を誇示する印象を与える
⑦ 紹介者を飛び越えて親密になるな。
   紹介していただいたことに感謝せよ
⑧ 打てば響く心意気を持て。
   説明しなくては分からない輩とは付き合うな
⑨ 口先でなく目で人を判断しろ。
   表面的な言葉では判断できない、本質を見よ
⑩ 人の時泥棒をするな。
   突然の訪問や遅刻をして、人の時間を奪うな
⑪ 足を踏まれたら、うっかりしていましたと謝れ。
       ぼんやりしていて踏まれた側にも責任がある、思いやりの心を

江戸っ子”引き際のよさ” に対して 浪速っ子”押しの強さ”だそうです。

     <参考> ”商人道「江戸しぐさ」の知恵袋” 越川禮子著 講談社より     


江戸時代の生活 ⑬ -新田開発ー

2010年03月23日 11時21分00秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代の主な産業は、農業です。
戦国時代から、各大名が国力を高めるため、米の増産、農地開拓に取り組んできました。
が、江戸時代になると人口の増加に伴い、食糧が不足し、江戸幕府も各藩の奨励のもと、湖や潟、浅瀬などで埋め立てや干拓が行われました。

それにより、江戸時代初期に全国で1800万石だった石高は、江戸時代中期には2500万石、後期には3000万石となりました。
特に、それまで畿内などに比べて開発が遅れていた東北や関東などでも新田開発が活発化して農地が大きく増えました。

     今はほとんど見かけなくなりました”水車”です。
        F8号         この絵の水車は、湯布院の民芸村にありました。              

その背景には、測量技術の向上があります。
水田の場合、多くの水の供給が必要で、灌漑用水の整備が欠かせません。
戦国時代は、一定の傾斜がなければ水田開拓は不可能であったものが、江戸時代に入ると平地に開拓された水田への水供給が可能になり、排水路を整備して水田化が行われました。

一時期は、無謀な新田開発の乱発が行われ、それを幕府が規制したこともあったのですが、享保の改革では、開発者の利益保証を条件に商人などの民間による開発を奨励しました。

小規模な開拓は農民が自力で行いましたが、大規模な開発で村を新設するような新田開発も多くあり、、開発を申し出た者に対して勘定奉行などが許可をだして、工事が行われ、新田開発後は、数年間年貢が免除される特権もありました。

開発には、官営の新田(幕府が許可を出すものや藩が主導で行うものがあり)と民営の新田開発があります。

民営開発にも色々な開発があります。
土豪開発新田といって、武士を捨てた土豪が資金を出し、周辺農民が開発したものや、村請新田は、村全体で資金と労力を出し合うものや、町人請負新田は、都会の富豪が、小作農を雇って耕させる新田などがあります。

大阪近辺では、淀川水系の治水、大和川付け替え工事など大阪湾岸の河口の浅瀬で商人による新田開発が行われました。
大阪平野の多くは、水辺から陸地になった場所が多く、鴻池新田は今も地名として残っています。

  江戸期は失敗し続けた印旛沼

大型の開拓は、越後の紫雲寺潟、濃尾平野の木曽川河口が有名ですが、失敗も多くありました。
失敗例として、下総国の印旛沼や手賀沼が挙げられますが、ここは何度も挑戦しますが、失敗し続け、時の老中(田沼意次や水野忠邦ら)などが失脚する原因の一つと言われ、いずれも昭和の戦後になるまでは、本格的な開拓・農地化は出来ませんでした。


江戸時代の生活 ⑫ -教育(私塾)-

2010年02月08日 15時33分58秒 | 江戸時代とは・・・・・

概略的に云って、寺子屋は、庶民の初等教育やしつけが、藩校は、武士としての教養や兵法などが中心でした。
そして、寺子屋は一般庶民の教養者が師匠となり経営され、藩校は藩が設置、経営する学校ですが、私塾は、知識人が開く私的な教育機関です。

私塾は、今で云う専門学校のようなもので、生徒も成人が多く、漢学、蘭学、医学、化学などで、内容もかなり高度であったようです。

私塾は、特に江戸時代の後期から幕末にかけて発達し、多くの私塾が誕生しました。
そして、多くの有能な人材を世に送り出し、明治維新への推進力となりました。

江戸・京・大坂を中心に無名であっても高度な教育内容を誇った個性的な私塾が存在し、その教育水準は国際的にみて、高く、庶民から武士階級に至るまで、教育への関心が高かったようです。

寺子屋もそうですが、教育を幕府が組織的にしなくとも、一般庶民からあらゆる階級の人も向学心、学習意欲が高かった証拠なのです。

  
     大阪 適塾                 
 山口 松下村塾

私塾で有名なのは、大分の威宜園(廣瀬淡窓)、大阪の適塾(緒方洪庵)、洗心洞塾(大塩平八郎) 梅花塾(篠崎小竹)、長崎の鳴滝塾(シーボルト) 山口の松下村塾(吉田松陰)、そして緒方洪庵門下である福沢諭吉の福沢塾は全国最大の組織で、今の慶応義塾となっています。
他に勝海舟の神戸海軍塾には、坂本竜馬も門下生として入塾しています。

しかし、残念ながら現在の日本の教育に目を向けると、今一つ生徒や学生に学習意欲が乏しいように思われます。
不登校や中途退学生の増加が示すように、学習現場では、学習することから逃避傾向が見られるのは、非常に残念です。
向学心に燃える学生も多くいるのですが、学習意欲の欠如は、学習する喜びを知らず、将来の夢が描けないようです。
教育については、これで良いというものはありません。
今の教育は、就職や出世のためとするのが多いのですが、江戸時代のそれは、知識の吸収と自分自身の切磋琢磨を主眼としていたと思われ、同じ教育でも取り組みが違ったのではないでしょうか?