昨日(1/10)に尼崎戎と尼崎城を見てきました。
例年、1月9日から11日の間に、どこかの”戎っさん”にお詣りしていました。
今年は、尼崎城が3月29日に一般公開されるとのことですので、その前にほゞ出来上がっている尼崎城の見学をかねて尼崎戎をお詣りしてきました。
尼崎戎については、2011年1月12日の当ブログの”尼崎戎&西宮戎をはしご”の記事に詳細が書いてありますので、そこを参照してください。
https://blog.goo.ne.jp/ganbaro433/e/b46965cccd5c91110d70eac8536cfaa2?utm_source=admin_page&utm_medium=realtime&utm_campaign=realtime
先日お詣りした湊川神社でも行儀よく並んでお詣りしていましたが、尼崎戎でもやはり並んで
お詣りしています。 いつからなのでしょうか・・・どこもそうなのでしょうか・・・
今年も尼崎戎にはマグロが奉納されました。
ちなみに西宮戎の今年のマグロは250cm 250Kgだそうです。
2011年と比べてください・・・・・
庄下川を隔てて撮影した再建中の尼崎城 3月29日 一般公開されます。
尼崎城は、以前、明城小学校 後の城内中学校や市立尼崎高等学校(現在は市立文化財収蔵庫)があった場所あたりにあったようですが、今回建てられた天守閣の位置は当時と若干違うようです。
尼崎城の模型 かっての天守と再建の天守の位置関係図
ともかく、天守閣の建物自体は、史実に従っての4層4階の大天守に西側に2階建ての多聞櫓の小天守が付属する複合式天守と呼ばれる形式で、現在尼崎市立文化財収蔵庫本館(旧尼崎市立高等学校)の北東隅付近に建っていました。
廃城前の写真 歴代藩主を祀ってある桜井神社に残る遺構の瓦
大坂夏の陣後、大阪を西国支配を拠点とするために直轄地とした江戸幕府は元和3年(1617年)譜代大名の戸田氏鉄に大阪の西の守りととするため尼崎城の築城を命じました。
甲子園球場の3.5倍の敷地に3重の堀、4層の天守を備えるなど5万石の大名の居城としては大きすぎるということから幕府がいかに尼崎を重要視していたことが伺われます。
江戸時代の想像図
尼崎城は、戸田氏、青山氏、松平氏と代々譜代大名が務めましたが、明治になると廃城が決まり、1部売却されたり、取り壊され、堀も次第に埋められましたので、今では全くその面影は見ることが出来なくなりました。
それが、この地で商売をした某氏の多額の寄付を契機に尼崎城の復興が実現しました。