桜の彦根城もいよいよ本丸へ登城です。
表御殿出て、表門山道の坂を登ると、廊下橋が見えます。
この橋を中央にして建てられているのが天秤櫓で、このような形式のあるお城は、ここだけだそうです。
廊下橋の下を潜り、左手に回って階段を上り、その左側に、今、潜ってきた橋を渡ります。
この廊下橋は、敵が攻めてくると落して、本丸へ行くのを阻止します。
表門山道を登ると 廊下橋が見えてきます。 廊下橋の下を潜る
天秤櫓の中にも入ることが出来ました。
中からは、廊下橋の全てが見渡せられ、敵が丸見えとなるようです。
廊下橋を潜り、左手を登ります。 廊下橋を渡り、天秤櫓に入ります。 天秤櫓の内部。
天秤櫓から廊下橋が見えます。 天秤櫓から太鼓門櫓へ
本丸への最後の関門である太鼓門櫓は、東側には壁がなく、登城合図の太鼓の音を響かせるために考えられたのではと言われています。
さて、いよいよ天守(国宝)への登城です。
この3階3重の天守は、京極高次が築いた大津城から移築されたと言われて、慶長12年(1607年)頃に完成しました。
彦根藩の創設は、関ヶ原合戦に功があった井伊直政は、慶長6年(1601年)徳川家康から近江国石田三成の旧領18万石を与えられた。
石田三成の旧領佐和山城に入ったが、城は落城のまま荒れ果て、とても使い物にならないと判断した直政は、山城ではなく湖畔にと考えたが慶長7年に直政が没し、嫡男の直勝が琵琶湖の東北岸の金亀山に決め築城を開始したのが、慶長8年。
ちなみに、彦根城の別名は、金亀城と呼ばれています。
天守は、2年足らずで完成しますが、城郭整備など全部が完成には、20年の歳月がかかったようです。
天守内部 どこの天守も階段は急です。 天守から外の桜を・・・・・
江戸開府以来、井伊家は、徳川譜代として、幕閣の中核となり、幕末には大老を輩出し、幕末の歴史に名を残します。
彦根藩は、35万石となっていましたが、13代藩主井伊直弼は、あの安政の大獄を引き起こし、その35万石も、大老が暗殺されたため、幕府から10万石の減封処分され、幕末には25万石の石高でした。
西の丸
井伊氏によって築かれた彦根城は、明治維新を迎え、廃藩置県まで一度の領主替えもなく、井伊氏14代が在城し続けました。
新政府は、一度は廃城を決めたのですが、大隈重信が廃城撤去寸前の彦根城を視察した際、その名城の消失を惜しみ、明治天皇に直接、嘆願して廃城を免れたそうです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます