2008/12/13春庭@アート散歩>ピカソ(1)サレ館のピカソ ピカソ、以前はそれほど好きだとも思えなかったのに、大規模なピカソ展があるたびにひととおり見てはきました。 前回ピカソ展を見たのは、2004年。晩年のピカソを支え、91歳の老画家を看取った妻、ジャクリーヌ・ロックの相続コレクションでした。 ピカソコレクションを目玉とする美術館は、生まれ故郷のスペインや絵画制作の中心地だったフランスに何館もありますが、今回の展覧会は、フランスのピカソ美術館所蔵のコレクションの移動展示です。ピカソ美術館は、ピカソの遺族が相続税のかわりに物納したピカソの作品を展示しています。 ピカソの子どもたちは、最初の妻オリガとの間に生まれたパウロ、愛人マリ・テレーズ・ワルテルとの間に生まれたマヤ、愛人フランソワーズ・ジローとの間に生まれたクロードとパロマの4人。ピカソが亡くなったとき4人の子と2人目の正妻ジャクリーヌが「遺産相続者」となりました。 91歳まで長生きしたピカソの周りでは、次々に妻、愛人、子、孫が、自殺しています。今回のシリーズは、この「ピカソの相続人」の物語です。莫大な遺産を受け継いだ相続人達。なぜ、ピカソをめぐる人々はつぎつぎと自殺を選んだのか、、、、 ピカソ美術館は、もとは「サレ館(塩やかた)」と呼ばれていました。塩貿易で財をなした貴族の館あとをピカソの展示館にしたものです。 ルイ14世の時代、1659年に、塩税徴収官ピエール・オーベールが3年を費やして建てた館で、集めた塩税をちょろまかした財産で建てた館なので、「塩やしき」と揶揄されていた建物、17世紀の建築ですから、修理が必要です。 大規模な改装のあいだ、館は長期間閉鎖されるため、改装期間中にピカソ作品が世界に貸し出しされることになりました。その「日本展」が、新国立美術館とサントリー美術館の2カ所で開催されてきました。 11月20日、サントリー美術館で見たパブロ・ピカソ(1881~ 1973)の作品。展示数はそれほど多くなく、油彩、素描、彫刻合わせて58点でしたが、ピカソ青の時代の自画像をはじめ、見応えのある作品が並んでいました。 11月28日には、新国立美術館でのピカソ展を見ました。こちらには全部で165点。こちらのピカソもよい作品があり、甲乙つけがたい展示。 ただ、どちらもガラスによって作品を保護する展示する方法で、じかに作品の絵の具の具合などを見ることは出来ませんでした。特にサントリーの展示方法は、ガラスケースの中に並べてあるので、光が反射したり、観覧者の指紋がべったりとガラスについていたりして、気分悪い。 サントリー美術館入場して最初の1点は、1901年の作品。ピカソの最初期の作品のひとつ、親友の死に顔の描写です。<つづく>2008/12/14春庭@アート散歩>ピカソ(2)青の時代 スペインの画学校をやめたピカソ。バルセロナで仲間だったカルロス・カサヘマス(Carlos Casagemas 1881-1901)がパリへ出ているのをたよって、スペインをあとにしました。スペイン語での発音カサヘマスは、ピカソがフランス語も話せない時代に、いっしょにパリですごした親友です。展示のパネル解説ではカサジェマスCasajemasと表示してありました。パリでは、フランス語読みのカサジェマスで通していたのでしょう。 カルロス・カサジェマスは、世慣れぬ20歳のピカソがパリ生活をするにあたって、なにくれとなく世話してくれた親友です。カルロスは裕福なユダヤ系資産家の息子で、金持ちの坊ちゃんにありがちな「すべてを思い通りに自分のものにしたい」願望があったのかもしれません。失恋すると、自分をふった相手の女性を撃ち、その場でピストル自殺をしてしまいました。相手の女性ジュルメーヌは一命とりとめましたが、ピカソにとっては衝撃的な事件でした。 ピカソの作品「カサヘマスの死」は、下のリンクで見ることができます。http://salut.at.webry.info/200606/article_9.html 作品解説のオーディオガイドは、「この絵にはゴッホの影響が見てとれる」と言っていました。 ピカソは、ゴッホなど周囲の画家たちはじめ、イベリア半島の彫刻、アフリカのプリミティブ芸術など、よいと感じた芸術をどんどん自分の作風に取り入れることを生涯続けた画家でした。作風は年ごとに変化し、「愛人がかわるたびに作風が変わる」と言われたのですが、その出発点の1作は、ろうそくの火に照らされる自死した友の顔。 カサジェマスに死なれ、パリに一人残されたピカソは、カサジェマスが残したアトリエで寝起きして絵を描き続けました。カサジェマスの自死は、恋人にふられたことが原因だということははっきりしていますが、恋人ジュルメーヌが心を移した相手は、ピカソだという説もあり、彼が親友の死に対して大きな衝撃を受けたことは、理解できます。 ピカソはカサジェマスのいない憂鬱なパリでの暮らしのなか、「青の時代」と呼ばれるつらい時期を過ごします。この時代の自分自身を見つめた「青の自画像」、下のリンクで見てください。20歳とは思えない沈鬱な表情をしています。サントリー美術館のポスターになっている自画像です。http://off.nikkei.co.jp/contents/exhibition/archive_ex23/article01.html 新国立美術館の「最初の1点」は、同じく「青の時代」の作品で『ラ・セレスティーナ』。娼館の経営者、カルロータ・ディビアという名の女性を描いています。視力を失っている左目が悲しげで、物憂い画家の心理を投影しているようです。この1904年の作品は「青の時代」の最後のころのものです。 描き続けることでカサジェマス自殺の衝撃から少しずつ回復したピカソは、しだいにパリの芸術家達と交流をもつようになり、若い画家たちのたまり場アパートであった「洗濯船」へ転居します。1904年のこと。<つづく>2008/12/15春庭@アート散歩>ピカソ(2)バラ色の時代 この洗濯船(バトー・ラボワール)で、ピカソはフェルナンデ・オリヴィエ(Fernande Olivier)という恋人と出会います。ピカソが23歳、フェルナンデが18歳のとき。フェルナンデとは7年間ともに暮らしました。 ピカソは憂鬱な青の時代から、恋を得た「ばら色の時代」へと飛躍します。 多くのキュビズム時代の作品が、明るいバラ色の色彩で描かれました。 ピカソの1907年の大作「アヴイニヨンの娘達」は、20世紀芸術の始まりを高らかに告げるように人々に受け入れられました。 また、1909年の『女の頭部フェルナンド』という彫刻作品は、キュビズムを完成させようとしていたピカソにとって、重要な立体作品です。 バラ色の時代、フェルナンデをピカソ自身が撮影した写真が「関連資料」として新国立美術館の休憩室に展示してありました。1908年から1910の間に撮影されたと見られる写真に、ピカソとフェルナンデとブラックが写っています。 ブラックは1907年にはじめてピカソのアトリエを訪れ、互いに新しい芸術を完成させるため、切磋琢磨する親友となりました。 ジョルジュ・ブラック。ピカソと20世紀初頭の時代をともにし、キュビズムを完成した画家です。写真のなか、ブラックはピカソの手前におり、ピカソの左にはフェルナンドが立っています。 画面前方を犬が横切っていますが、じっと撮影が終わるまで待っている人物と、カメラの前をさっと横切った犬が二重露出のようになっていて、ちょっとシュールな写真になっています。 この時代、ピカソとブラックは、寝るとき以外はいっしょにいる、という生活でした。どちらかのアトリエにいっしょにいてひとりが描きひとりが論評しているか、カフェでコーヒーや酒を飲みながら芸術談義をするか。 ピカソやブラックら、キュビズム画家フォービズム画家を売り出し、作品を一手に売りさばいていたのが、ユダヤ系ドイツ人画商ヘンリー・カーンワイラーです。 カーンワイラーの支援でしだいに作品が売れ出したとき、フェルナンデは芸術より享楽を愛するようになり、ピカソの心はしだいにフェルナンデを離れていきました。 「キュビズムを作り上げる時代」は、ブラックが第一次世界大戦のヨーロッパ戦線に出征したことで終わりを告げます。 戦争からもどったブラックは、キュビズムと決別しました。なぜなら、彼らを支えていた画商カーンワイラーが、フランスを出国してしまったからです。彼はフランスと戦争をしている側のドイツ人であったからことから逮捕をおそれ、フランスを出ることにしたのでした。 カーンワイラーがキュビズムをもり立て、売りさばいてくれていたおかげで生活していたブラックは、別の画商と出会い、静物画を描き、楽譜や本の挿絵などを描くようになりました。<つづく>2008/12/16春庭@アート散歩>ピカソ(4)エヴァの時代 フェルナンデと別れたピカソの心を支えたのが、エヴァ・グエルことマイセル・アンベール(Marcelle Humbert)です。 エヴァ27歳、ピカソ31歳の恋でした。エヴァを得た喜びが画面に踊っているような作品が、新国立美術館の『ギター』という絵です。絵の中に、ピカソは「J'im Eva私はエヴァを愛す」と、書き込んでいます。 関連資料のなかに、ピカソが撮影した「エヴァ」の写真がありました。どことなくはかなげな印象の、美しいエヴァ。 エヴァは病弱であり、1915年に癌で亡くなってしまいます。エヴァとともに過ごした時期が「キュビズム完成の時代」にあたり、ピカソの「エヴァ時代」と呼ばれています。 エヴァが亡くなる前か後かわからないのですが、1915年ごろの出来事として、この時代のピカソのエピソードのひとつが伝わっています。「メキシコ出身の画家ディエゴ・リベラとのケンカ」。 当時、パリには日本人藤田嗣治はじめ、世界中の新進気鋭の画家達が集まっていました。メキシコのリベラも、その中のひとり。当時のリベラはキュビズムをめざして絵を描き、ピカソはあこがれのキュビズム大家でした。 リベラは作品『サパタ派の風景』に、メキシコ革命の英雄サパタを描き、ピカソに見せました。ピカソは絶賛してくれたのですが、次にリベラは、ピカソが『サパタ派の風景』と同じように見える作品『テーブルにもたれる男』を描き上げていたことを知ります。 「モチーフを盗まれた」と、リベラは激怒し、ピカソと決別します。 のちにメキシコに帰国したリベラは、年若いフリーダ・カーロを恋人とし、ふたりで傑作を描き続けました。映画『フリーダ』に出てくるリベラは精力的な画家で、フリーダに対してはかなり暴君的です。どちらもゆずらぬ気迫を持つピカソとリベラのケンカは、さぞ迫力があったろうと思わせます。 「モチーフを盗んだ」と罵倒される理由が、ピカソにはわからなかったでしょう。リベラの作品を自分の中に取り入れたことは、ピカソにとって特別なことではなかったからです。彼にとっては、周囲のすべての芸術は、自分の血肉とすべきものであり、吸収して自分のエネルギーにすべきものだったから。 「リベラは何を憤慨しているんだ。彼はメキシコ風のライフル、ソンブレロ、肩掛けがあるから、ピカソはリベラを模倣したと怒っているが、周囲のあらゆるものを取り入れていくのが画家じゃないか」 ブラックがキュビズムから抜け出したように、ピカソも常に新しい画題新しい画法を探す美の探求者でした。ゴッホからもセザンヌからも、ギリシャ古典美術からもアフリカンプリミティブ芸術からも、あらゆることを自分の芸術に取り込むのがピカソの画風です。 ピカソは、貪欲に自分のまわりのすべての芸術を吸収し、貪欲に女性の愛を求めていく画家でした。 エヴァの病中に知り合ったのが、ギャビー・レスピナッセ(Gaby Lespinasse)。 しかし、ギャビーとの恋は、ほどなく終わりました。ピカソはロシアの上流家庭の娘であるオルガ・コクローヴァ(Olga Khokhlova)と出会い、正式な結婚をしたからです。1918年、オルガが26歳、ピカソが37歳のとき。<つづく>2008/12/17春庭@アート散歩>ピカソ(5)オルガの時代・新古典主義 オルガはロシアバレエ団「バレエリュス」のバレリーナでした。ジャン・コクトーと知り合ったピカソが、コクトーのすすめで、バレエリュスの舞台美術の仕事を始めたときに出会い、1918年に結婚。1921年、2人の間にはパウロ(英語よみはポール)という息子が生まれました。 オルガはロシアの資産家の家庭に生まれ、新生ソビエト連邦の陸軍幹部の娘として、育ちました。芸術を愛する娘としてピカソに出会い、ふたりは恋に落ちたのです。 この時代、オルガは自分の肖像画を「キュビズム」で描かれることを嫌いました。ピカソは「新古典主義」の絵を描いています。写実的、古典主義的な様式の作品です。 新国立美術館の「肘掛け椅子に座るオルガの肖像」http://www.asahi.com/picasso/exhibition/3.html 『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』と、まったく同じポーズ同じ構図の写真が、休憩室の「資料」として展示されていました。撮影はピカソ自身。 もしかしたら、細かい衣装の柄や扇子の模様は、実物のオルガではなく、この写真を見ながら描いたか、と思うくらい、オルガの絵は写実的です。 この新古典主義の時代を、「オルガの時代」と呼びます。 オルガは「上流家庭の生活の維持」を望み、ピカソが芸術家仲間とつきあうことを嫌いました。彼らは往々にして自堕落だったり反社会的だったり「上流」の雰囲気とは合わない連中だからです。しだいにピカソはそんな妻に息苦しさを感じるようになりました。 サントリー美術館展示の作品のうち、『ピエロに扮するパウロ』は、真っ白い道化衣装を着たパウロを描いています。1925年の作品。 パウロは4歳ごろで、ちょっと生意気そうな挑戦的な目つきでカンバスに向かう父親を見つめています。父と母の不仲に気付いているパウロだったのでしょうか。 オルガとの仲が冷えきったあと、1927年、ピカソは46歳で17歳のマリー・テレーズ・ワルテル(Marie-Thérèse Walter)と出会います。若さあふれる清楚なマリー。 半年ものあいだ、マリーはピカソを拒み続けました。それもそうです。30歳も年上のオッサンが、どれほど熱心に「君こそ僕の芸術の源だ」と口説こうと、妻子ある男に簡単になびくわけにはいかなかったでしょう。 しかし、出会ってから半年ののち、マリーはピカソに夢中でピカソの言うことならなんでも言う通りにする女性になっていました。 オルガが離婚に応じようとしないまま、二人の間には1935年にマヤという娘が生まれました。(マヤは、スペイン語読みにするならマハ) もともと芸術には関心のないマリー・テレーズは、娘が生まれると子育て中心の生活を送るようになり、55歳のピカソは・ドラ・マール(Dora Maar)29歳に心を移しました。ドラは写真家であり、ピカソの芸術を深く理解できる女性だったからです。このころがピカソの「ドラマール時代」です。 「マリーテレーズの肖像」と、「ドラマールの肖像」http://www.asahi.com/event/TKY200809180207.html<つづく>2008/12/18春庭@アート散歩>ピカソ(6)ゲルニカ・恋の対決 1936~45年、ドラは愛人としてピカソのかたわらにおり、ゲルニカ制作中のピカソを撮影するなどしました。新国立美術館には、ドラが撮影したゲルニカの制作進行状況の写真が並んでいます。また、休憩室の資料展示には、ピカソが撮影したドラの横顔の写真があり、美しくとも意志的な目鼻が印象的でした。 ゲルニカのキャンバスをはさんで、マリーとドラが対決する、という修羅場もありました。ピカソ自身が後年に述懐している「マリーとドラのケンカ」によると。 ピカソがゲルニカを制作しているアトリエにマリーが入ってきて、ドラとの壮絶な争いがはじまりました。 マリーはドラに向かって「私はこの人との間に子供がいるんです。ここを出ていってください」と、言いました。日頃は大人しいマリーにしてみると、娘のマヤを守っていくための、必死のことばだったのでしょう。 ゲルニカ制作過程の撮影をしていたドラは「子供?それが何だっていうの?私たちの間には、この作品があるのよ。ピカソには子供じゃなくて、この作品を完成することが大切なの。あなたこそここを出ていくべきだわ」と突き放しました。 マリーはピカソに「私かドラか、どちらかを選ぶべきだ」と、迫りましたが、ピカソは「そんなことは、ふたりで決めてくれ」と言って、ゲルニカの制作を続けました。マリーとドラが取っ組み合いのケンカをはじめた傍らで、スペイン・ゲルニカの平和を願う作品が描き続けられたのです。 ピカソは「大人しくてやさしく、私の言うことはなんでも聞こうとするマリー」と、「知性と強い意志を持ち、自分の芸術を理解してくれるドラ」の両方が必要だった、という言うのです。う~ん、女性にとっては「どっちか決めてよ」というマリーの気持ちもわかりますが。 ピカソが55歳~64歳の、もっとも油がのっていたころを支えたドラ・マール。彼女の肖像画は、近年オークションで108億円で落札され話題になりました。108億円には手が届かないけれど、せめて複製画12,600円ではどうでしょうか。http://www.chalgrin.co.jp/ChalgrinShopping_Picasso039.htm ピカソは少年時代、父親に連れられて闘牛を見ていました。その荒々しいエネルギーを自分自身に感じることが多かったのでしょうか、ギリシャ神話の牛の怪物ミノタウルスを画題に選んだ作品が数多くあります。 サントリー美術館、4階から3階に移動する階段下のコーナーは、「ミノタウルス」シリーズともいえるような作品が並んでいました。 1936年、ドラ・マールと暮らしていた頃の作品『ドラとミノタウルス』のミノタウルスの顔は、肖像画などで見るピカソの顔そのものです。自分自身を荒ぶれるミノタウルスになぞらえ、ドラを陵辱するような愛で責め立てるミノタウルスの姿。 ドラは、ピカソの愛人達のなかで、もっとも強い芸術的インスピレーションを与えるミューズであったのだろうと想像します。そんな激しい愛憎にも終わりのときがきます。<つづく>2008/12/19春庭@アート散歩>ピカソ(7)プレイボーイ・ピカソ ピカソが61歳のとき、21歳のフランソワーズ・ジロー(Françoise Gilot)と出会いました。フランソワーズは美しい画学生。 娘と言うより孫のような若い画学生に、ピカソは夢中になり、2人の間にクロードとパロマの2人の子供が生まれました。 新国立美術館休憩室に並んでいる写真資料の中で、いちばん有名な写真は、ロバートキャパが撮影した「海辺をあるくフランソワーズにパラソルをさしかけるピカソ」という写真です。 はつらつと歩く美しいフランソワーズに、ピカソは従僕のようにパラソルをさしかけています。後方にいるのはピカソの甥のハビエル・ビラト。http://ameblo.jp/dasha320/image-10138772438-10092196424.html フランスのジュワン湾(コートダジュール)で,1948年にキャパが撮影した「海辺のフランソワーズとピカソ」を、私は大丸ギャラリーでの『写真とは何か・20世紀の巨匠たち・美を見つめる眼、社会を見つめる眼』展で見ました。この写真展については、2008/11/26に紹介しました 2008年11月号の「プレイボーイ」誌はピカソ特集とし、このキャパの写真を表紙にしています。http://blog.goo.ne.jp/v_goo_kazu_san/e/e3d7246b219cde6cb379819aafa639f5 プレイボーイ。 確かに、ピカソが肖像画を描いた女性だけで7人。名を知られている恋人はあと二人います。名を知られなかった女性を入れれば、もっとたくさんの女性がいたでしょう。 多くの愛人恋人がいたピカソ。20世紀最大のプレイボーイ? いいえ、ピカソは「遊び」で女性とつきあったことは一度もない。ピカソは、こころから女性を愛し、女性達もピカソを心から慕ったのです。 世の中には、お金の力でもっとたくさんの女性と関わった男性はいるでしょう。しかし、ピカソの愛人達は、ピカソのお金や名声を目当てにしたのではなく、それぞれが心からピカソに愛を捧げたのです。ピカソもひとりひとりに愛情を注ぎました。 若いフランソワーズにも、心からの愛情を捧げました。 フランソワーズの生んだクロードとパロマをモデルとして絵に描き、いっしょに「お絵かき」をして遊びました。 しかし、フランソワーズはピカソを支える女性として生きるより、自身が画家として生きていくことを望みました。ひきとめようとするピカソを振り切って二人の子を連れて出ていき、他の男性と再婚しました。 ピカソが愛した女性達のうち、自分からピカソに別れを告げたのはフランソワーズだけでした。(クロードとパロマの法的認知をしていなかったために、遺産相続のさいにはスッタモンダがありました)<つづく>2008/12/20春庭@アート散歩>ピカソ(8)ピカソのママ 70代のピカソが愛したのはジェネヴィーヴィ・ラポルテ(Geneviève Laporte)。20代半ばのジェネヴィーヴィの若さは、フランソワーズに去られて傷心だったピカソをなぐさめました。 1954年72歳のときピカソは、26歳のジャクリーヌ・ロック(Jacqueline Roque 1926-1986)と出会いました。陶器工房で働いていたジャクリーヌは、工房で陶器を焼くピカソの世話をしました。ふたりは間もなく同居しました。 数々の愛人達とピカソは結婚することなくすごしました。正妻オルガが、離婚を拒み続けたからです。しかし、ジャクリーヌと同居後、事態は変わりました。30年間別居したまま「正妻」の座を守っていたオリガが、1955年に死去したのです。 ピカソは、1961年にジャクリーヌと正式に結婚しました。 オリガの死から再婚まで6年の間がありますが、この間、ピカソはフランソワーズが戻ってくるのではないかと待っていたという説があります。 フランソワーズがピカソの元に戻る気になって、夫と離婚の手続きを終えたとき、ピカソは79歳でジャクリーヌと再婚。自分を捨てたフランソワーズへの「仕返し」として再婚したのかもしれません。こんなところは、「すべてを支配し自分の思うままにしたい」という「大君主」のようになっていたピカソを感じます。 休憩室写真資料には、「結婚式の朝のピカソとジャクリーヌ」という写真がありました。デヴィット・ダグラス・ダンカンが撮影した1961年3月2日朝の二人の姿です。ダンカンはキャパの友人。キャパ亡き後、ピカソの晩年を撮影し、「ピカソ写真集」を残しています。 フォトジャーナリストダンカンは、1956年にピカソの南仏の別荘「ラ・カリフォルニー」を訪れて以来、ほぼ30年間、家族同様に寝起きを共にするほどピカソとジャクリーヌ夫婦に近づき、夫妻の信頼を得ていました。。 ピカソは50歳も年下のジャクリーヌを「ママ」と呼び、慕いました。ピカソの情愛をかき立てたこれまでの愛人たちと異なり、80代のピカソはジャクリーヌに「母のような包容力」を見いだしたのかもしれません。 新国立美術館の「膝を抱えて座るジャクリーヌロック」は、ジャクリーヌが「ピカソが制作に専念できる環境を作ることこそ自分の使命」と考え、ピカソのとっての「保護者=ママ」であろうとした強い意志があらわれている肖像です。すくっと伸びた首、両手で抱える膝も、かっちりと表現されています。 ジャクリーヌとの暮らしでは、ピカソは他人にはほとんど会わない「ひきこもり」の生活をつづけました。世俗のいっさいを捨てた修行僧のように作品にうちこみ、1年に165点もの作品を完成させました。 おおかたの芸術家は、晩年の作品になるとエネルギーの減少が感じられるのに、ピカソは亡くなるまで芸術へのエネルギーを失いませんでした。ジャクリーヌの愛に包まれていたゆえの充実でしょう。<つづく>2008/12/21春庭@アート散歩>ピカソ(9)恋の遍歴とピカソの系図 サントリー美術館に展示されている1969年制作『接吻』1970年制作『抱擁』という油彩は、ピカソ87歳88歳の作品ですが、ジャクリーヌとの熱い抱擁や接吻の情熱がそのまま画面にあらわれているかのようにはつらつとしています。 サントリー美術館と新国立美術館で見た絵の何点かが掲載されているサイトをリンク。http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/cat6037495/index.html 1973年、ピカソは91歳で亡くなりました。 数万点の作品、スペインやフランスの古城を買い取ったものが3つ。別荘2軒。豪壮な邸宅が数軒。多額の現金。ピカソの城からは未公開の作品が多数残されており、1973年の時価で遺産総額は7400億円にもなりました。 長男パウロ。幼いときに父ピカソは母オルガと別居しました。母はピカソの正妻ということを唯一のプライドとして、30年間「正妻の座」という形だけを保って亡くなりました。 パウロは、偉大な父の「運転手」を勤めることで、かろうじて父とつながっていました。 パウロは、早くに妻エミリエンヌと離婚しました。エミリエンヌとの間には息子パブリートと娘マリーナをもうけました。パブリートは、祖父パブロの名にちなんで同じ名を命名されました。しかし祖父が生きている間は、偉大なその名をはばかり、ニックネームのパブリートのほうで呼ばれていました。パブリートとのマリーナは、両親離婚後、エミリエンヌに育てられました。 エミリエンヌはパブリートとマリーナがピカソの孫であることを吹聴しつつ、男をつぎつぎに取りかえる奔放な生活で、パウロからの養育費が少ないことを子どもたちにこぼし続けました。 パウロはクリスティーヌと再婚し、娘ベルナールが生まれていたので、エミリエンヌの子どもたちを思う余裕がありませんでした。 祖父であるピカソが亡くなったあと、パブリートは祖父の遺体との対面を拒まれ、葬儀の出席も許されませんでした。自分の存在意義を疑ったパブリートは、漂白剤を1瓶飲見込みました。これにより胃がただれ、何も食べられなくなり、3ヶ月後に「餓死」という壮絶な死を遂げました。生活費もなく、入院代も払えないパブリートの死。 新国立美術館の休憩室には、ピカソの年譜と、ピカソ一家の系図が出ていました。はたして、何人の観覧者が、パブロ・ピカソの亡くなった同じ1973年に、孫のパブリート・ピカソも亡くなっていることに気付いたでしょうか。 パブロ・ピカソの死のあと、遺産相続の争いが続きました。パウロは、息子パブリートと父の両方を失って心弱り、酒と麻薬に溺れました。自暴自棄のようになったパウロは、ピカソの遺産相続が確定する前に54歳という年齢で死にました。 ピカソ家は、91歳の当主、若い孫のパブリート、息子パウロの54歳の死、3代が立て続けに亡くなってしまったのです。<つづく>2008/12/22春庭@アート散歩>ピカソ(10)私の祖父ピカソ ピカソの死と同じ年に孫のパブリートが亡くなり、ピカソの長男パウロはその2年後に死んで、パウロの娘、マリーナは途方にくれました。 マリーナは、後年『マイ・グランパパ・ピカソ(私の祖父ピカソ)』という本を出版しています。(翻訳:五十嵐卓, 藤原えりみり 小学館2004) マリーナ・ピカソの手記によれば。 子ども時代、マリーナは素直に祖父に敬慕の心を抱いていました。しかし、正式な離婚を拒み続けたオリガの孫であり、ピカソと接触する時間はごく少ないなかで成長しました。大ピカソは、孫のよきおじいちゃんであるより、常に自身の芸術に関心があり、「大君主」のようであったと、幼いマリーナの目に祖父の姿が映っていました。 幼いころ、祖父から愛を受けることのなかった心の傷は、祖父の死後、マリーナの心にあふれてきます。最愛の兄パブリートの自殺。父ポールの自分の追い込むような死。マリーナはパニック障害になり、交通事故を起こしてしまいます。 それから後、14年間におよぶカウンセリングを受ける生活が続きました。 マリーナが回想する兄パブリートの自殺。 1973年4月8日、ラジオから流れるピカソの死のニュースを聞き、パブリートは「どうしてもおじいちゃんに会う。僕にはその権利があるはずだ」とピカソの屋敷に向かいました。しかし邸宅は固く警備されており、パブリートは門番に追い返され、祖父の最期の姿に会うことも祈りを捧げることもできませんでした。 帰宅後のパブロは憔悴し、2日間話すことも食べることもしなかった。祖父の死から4日目、パブリートは大量の漂白剤をのんで自殺をはかりました。胃を焼ききり食べることのできない死の床で、パブリートは妹のマリーナに語りました。 「ピカソ帝国は、肉親が生きていく可能性の扉を閉ざしてきた。マリーナ、きみを救い出すために、僕はこうしたんだ。僕らの苦しみのすべてを、僕は内側から破壊したかったんだよ。僕たちを拒否したあの人たちも、これからはきみの面倒を見てくれるよ。少なくとも、僕が祖父のあとを追って死んだことが世間に知られれば、世論は、君の生活を少しは気にするようにはなるだろう」 1973年、ハブリートは祖父が4月になくなった後、3ヶ月後の7月に、衰弱しきって死にました。 マスコミは「ピカソの孫の死」に騒ぎ立てました。3ヶ月間の入院費治療費を払うこともできなかったマリーナ。 友人達の寄付と、祖父ピカソに捨てられた愛人のひとりだったマリー・テレーズの世話で、やっとパブリートの葬儀を出すことができました。<つづく>2008/12/23春庭@アート散歩>ピカソ(11)ピカソの遺産 長年の遺産相続裁判の結果。 ピカソの遺産相続権者は、正妻ジャクリーヌのほか、最初の妻オルガの息子パウロ、マリー・テレーズの子、マヤ。フランソワーズの子、クロードとパロマの5人と確定しました。 正妻、ジャクリーヌが3割、マリー・テレーズの娘、マヤが1割、フランソワーズの子供、クロードとパロマに1割ずつ、早世した長男パウロの分は4割。パウロの分は娘ふたり、マリーナ2割、ベルナール2割ずつと決まりました。 相続税はフランス政府への作品物納と決着。フランス政府は、相続税の特別法をわざわざピカソ遺産のために立法し、作品の一部を相続税として国庫に納入させました。それが、現在のピカソ美術館(サレ館)であり、今回サントリー美術館と新国立美術館で展示されている作品群です。 14年間のカウンセリングののち、自分自身を回復したマリーナは、実子のガエルとフロールのすすめで、ベトナムの子供たちを養子に迎え、遺産を使ってベトナムの「若者の村」の建設をはじめました。 パブリートとマリーナがそうであったように、愛に恵まれない子供時代をおくっているベトナムの子供に愛を注ぐことで、マリーナはようやく祖父ピカソに愛されなかった自分の人生をとりもどし、自分の生が意味あるものと感じられるようになりました。 やっと祖父パブロピカソをも肯定できるようになったマリーナが、人生をふりかえって言ったことば。 『これが私の人生。人生という晩餐会に招かれて、私は自分にできること、私自身がなすべきだと思ったことをした。あるときにはうまくいったし、あるときには失敗もした。「青色の絵の具がないときには、赤を使うんだよ」。祖父はそう言っていた』 そう、青がなければ赤い絵の具で人生を描く。しかし、ピカソは91歳まですべての絵の具を独占し、思うがままに描き続けた人でした。 91歳まで長命を保ったパブロ・ピカソ。しかし、彼に関わった妻、愛人、息子、孫、多くの肉親が自殺しています。周囲の人々は、ピカソに生命力をすべて吸い込まれてしまっていたかのようです。 1909年生まれのマリー・テレーズ・ワルテル。 17歳でピカソに出会って26歳で娘マヤを出産。しかしついに妻の座を与えられることなく捨てられたマリー・テレーズ・ワルテル。ピカソの愛人達のなかで、ごく普通の娘であり、ピカソに捨てられたのちはマヤの養育だけを生き甲斐にしてきた女性でした。 彼女は1973年のピカソの死後、1977年にガレージで首を吊って死にました。<つづく>2008/12/24春庭@アート散歩>ピカソ(12)ピカソの遺族 1973年にパブロ・ピカソの長男の孫、パブリートが亡くなったあと、マリー・テレーズはパブリートの葬儀の世話をするなど、最後まで献身的にピカソに尽くそうとしました。正妻オルガからピカソを奪う形になったマリーにとって、オルガの孫パブリートの葬儀を手伝うことは、心に引っかかっていた積年の思いを精算する行為でもあったのでしょうか。 マリーの娘のマヤは、ピエール・ウィドマイヤーと結婚し、1961年オリビエ1964年リシャール1971年ディアナという、3人の子の母になっています。 1977年、マリーは自殺。享年68歳。 マヤが母親となり、ピカソも亡くなって、マリーテレーズにとって気がかりなことは何もなくなったゆえの自殺だったのでしょうか。真相はわかりません。 正妻ジャックリーヌは、ピカソの遺族との交際を拒否し、他の愛人たちや子供たち、孫や古い友人達とも関わりませんでした。彼女が関わりたかったのは、ただひとりピカソだけでした。 彼女はピカソ亡き後、相続したピカソ作品を「ジャクリーヌコレクション」として整理することに没頭しました。1986年ピカソ遺作展を成功させた後、ピカソとすごした寝室でピストル自殺しました。享年60歳。 親友カルロス・カサジェマスの自死から、ピカソの死後の孫や妻や愛人の自死まで、生命力ありあまるピカソのまわりでは、つぎつぎと友や家族が自ら命をたったいることを、今回のシリーズで見てきました。 ピカソを自分から捨てた唯一の女性フランソワーズ。彼女が生んだ娘パロマ(Paloma Picasso)は、ひとりたくましく事業を展開しています。両親から芸術的才能を受け継いだのか、ピカソという「ブランド」を最大限に利用できたからか、デザイナーとして成功しました。 彼女は風光明媚なスイスに居をかまえ、香水やアクセサリーを、「パロマピカソ」というブランド名で売り出しています。「ピカソブランド」は、偉大な宣伝効果を持っています。 ピカソとフランソワーズの間に生まれた娘パロマと、最初の妻オルガの孫にあたるパブリート、そして私。共通点があります。同じ年に生まれた。 パブリートは若くして自殺。パロマは事業家として成功。私は貧乏な教師。運命はそれぞれですが、、、、 サレ館コレクションをサントリー美術館で眺め、館内を2周しました。最初の一周はただ絵を見て印象を心にとめた。次は解説オーディオのイヤホンを借りて聴きながら一周。 ピカソはやはり20世紀最大の画家であったなあ、でも、愛人になるのは考えもんだなあ、、、、って、ピカソに惚れられるようなご面相でもないのに、勝手に拒絶。<つづく>2008/12/25春庭@アート散歩>ピカソ(13)食のピカソ 11月20日のこと。サントリー美術館を見た後、歩き疲れたので、東京ミッドタウンの地下レストラン街で一休みしました。 「食のピカソ」というイベントを、レストラン各店でやっていました。 ピカソ展のチケット半券で割引になるというので、スープの店に入って、「2種類のスープとドリンクのセット」というのを頼みました。 アンティチョークとチキンのスープ&畑の野菜たっぷりのスープというのをチョイス。ドリンクはカフェオレ。 アンティチョークって、アンティークの親戚みたいね、たしか「あざみのつぼみ」だったよなあと、スープを注文したのでありましたが、あとでメニューをよく見たら、アーティチョークだった。 注文をとりにきたおねえさんは、きっと「アンティークのスープ」とか「アンチョビーのスープ」とか言われ慣れているらしく、私が「アンティチョークのスープ」と注文したのに、ちゃんとアーティチョークとチキンのポタージュを持ってきてくれたのでした。 1200円セットがチケット半券の提示で100円安くなり、得した気分。そうそう、ピカソ展のチケットは、「学生証」を出して学生券で入場。大人1300円のところ、学生1000円で入場。300円得した気分。 ピカソは愛人を変えるたびに作風を変えたけれど、ピカソのど~んと大きい芸術魂にふれても、こんなみみっちくいじましい「主婦の節約」を楽しみとするワタクシは、、、、 私の古亭主は変わっていないからなあ。私の「貧乏性」を変えるには、やはりダンナを新品と変えねばならず、、、、 最後にピカソ好きな方のための便利なサイト紹介します。 「On line Picasso」というサイトで、ピカソ作品が検索できます。制作年代順におもな作品が並んでいて、お気に入りのサムネイルをクリックすると絵が拡大します。http://picasso.tamu.edu/picasso/ ピカソの作品、お気に入りがみつかったでしょうか。それとも、ピカソの愛と情熱に圧倒されて、「芸術より、食のピカソだ!」という「食べてナンボ」のあなたでいらっしゃいましょうか。「食のピカソ」派のあなた、おともだちになりましょうね。<おわり>
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