春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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布をみる

2008-10-10 19:18:00 | アート
2008/11/01ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(1)小袖展 私は、糸と布、織物染め物、衣料に関係する手仕事を見て歩くのが好きで、機会があるごとに見に行きます。 国立東京博物館本館の「着物」、江戸時代の着物が中心で、ときどき展示替えがあるので、いつ行っても、新しい一品と出会えます。 近代美術館の工芸館にも着物の展示があります。こちらは、近代工芸作家の作品が並ぶ。 琉球紅型の着物を見るなら、駒場の日本民芸館。 東京ミッドタウンに移転したサントリー美術館で、「小袖展」がありました。http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/08vol04kosode/index.html 次々に新しい「ビルの町」ができる東京。 2007年3月にオープンした東京ミッドタウンは、オフィス、住宅、ホテル、ショッピング街、美術館が入っている複合施設です。 2008/08/25のミッドタウン、エントランススペースを大勢の人が行き交います。 おのぼりさんは、どっちに行ったら美術館なのかとうろうろし、前後上下を見渡します。はるか上のほうに、幾何学的にパイプを組み立てた白い天井が見え、「現代建築やなあ」「都会やなあ」と、口をあんぐり開けて見上げるばかり。 うろうろしながら、ガレリア3階の美術館の中に入りました。サントリー美術館は、洋酒メーカーのサントリー社長・佐治敬三によって設立されました。 今回の「小袖展」は、京都松坂屋が収集した小袖の展示。 松坂屋京都染織参考館の所蔵品、日頃は、非公開。年に一回、祇園祭の日、一日だけ一般に公開されるのみの門外不出の小袖でした。 この「松坂屋の秘蔵品」を、まとめて東京で見ることができる。 この展覧会、圧倒的に観客は女性でした。女性50人に対して、男性1人くらいの割合。中には、着物を着て、美しい小袖の意匠を熱心に見入っている女人も。「和服でご来館の方は当日料金より300円割引」と書いてありましたが、まあ、割引が目当てではなくて、日頃和服を愛用なさっている方々なのでしょう。私は、着物を見て歩くのは好きですが、和服を着たのは、娘の3歳七五三祝いに写真を残すために着たのが最後。 和服を愛する人にとっては、垂涎の江戸時代の着物が並んでいます。 着物の意匠も素晴らしいし、染めの技術も素晴らしい。 私にとって興味を惹かれたのは、「ひな形本」がいっしょに展示されていたこと。 「ひな形本」は、デザイン帖で、江戸の娘たちは、現代の女性たちがファッションブックを眺めるようにしてひな形本に見入り、好みの柄を決めていたのでした。 友禅、絞りも刺繍も、ほんとうに見事な技でできており、美しい。 http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/08vol04kosode/program.html 江戸時代、友禅や絞りの布地は貴重品であり、何度も縫い直され、よくよく小袖として着ることが出来なくなっても、お坊さんの袈裟に仕立て直されたり、表装の額貼りに使われたり、布としての命をまっとうしました。 明治期の画家岡田三郎助(1869-1939)は古衣装の収集家でもあり、彼が収集した染織品は、松坂屋に託されました。 岡田夫人(作家岡田八千代)が着た姿を、三郎助が油絵に描いた作品と、着ていた着物が隣に展示されていました。 岡田八千代は、劇作家小山内薫の妹で、長谷川時雨とともに『女人芸術』を創刊。女流作家の育成にあたった人です。 長谷川時雨のほうは、『明治美人伝』という文庫を繰り返し読みました。 岡田八千代は、作家としては、現代では忘れられた存在になっています。女性文学研究者でもなければ、「彼女の作品を読んだことある」という人は少ないのでは。 しかし、彼女が夫のモデルとして着た着物は、こうして後の世にも伝えられ、三郎助の絵とともに、着た人の人格までも彷彿とさせる色鮮やかさで展示されている。 小袖、一枚一枚に、袖を通した女性たちのドラマがあるのだろうなあと思いながら、たくさんの小袖を見て歩きました。今日の徘徊ミソヒトひな形の小袖模様の蝶よ花よ娘盛りは駆け足でいく2008/11/02ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(2)「世界の藍展」 我が夫は、かって「どんな服を着ても似合う女性と、どんな服を着ても似合わない女性は、何を着てもよいのだ。だから、君は何を着てもいいと思うよ」と、言った。 はい、だから私は、「何を着てもかまわない」生活を貫いております。「夏は裸でなければよい、冬は寒くなければよい」という服装コンセプト。 着る服のほとんどすべて、姉と妹と姑と娘からのお下がり。娘の服は、最近「アタシに無断で縮んでしまう」そうで、いろいろ回ってきます。「服が縮むんじゃなくて、着る人がどんどん太っていくという言い方も出来るよね」と言いつつ、娘のお下がりを着る母。 今現在自分が着る服には、何の興味もわかず、自分の衣装には無頓着ではあるけれど、もしかしたらその代償かもしれぬ「ファッション史」や「世界の民族ファッション」には、興味津々です。小袖展も見に行くし、「パリコレクションの新傾向」なんて新聞記事もすかさずチェック。現代ファッションも、自分が着るのでなく、眺める芸術品としてなら、ファッションショーも「動く彫刻、フィギュア展」 一昨日10月31日、ファッションを学ぶ若者が行き交う文化女子大学へ出かけてきました。「藍染め展」の招待券をもらったから。 新宿駅南口からすぐのところにキャンパスがあるのに、これまで足を踏み入れたことがなかった。博物館は大学に隣接したクイントビルの中にありました。http://www.ozora-net.co.jp/odecal/tokyo/0415.html 藍染めは、世界中でもっとも古くから人々の衣装に用いられ、もっとも広く愛用されてきました。「キング of 染め物」とも言えます。 私の藍染めについての知識は、京都書院発行、吉岡幸雄監修の『日本の藍』というカラー文庫本一冊によっており、この本に書いてあることのほかは、何も知りませんでした。 文化学園服飾博物館1階2階の展示室には、日本及び世界中の藍染めの衣装を展示してありました。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパ。世界各地に独特の藍染めがあります。http://www.bunka.ac.jp/museum/text/kaisaichu.html 日本の藍に使われるタデ科の「たで藍」のほか、世界の藍染めには、アブラナ科大青系統、マメ科インド藍系統、キツネノマゴ科琉球藍系統の四つがあります。http://www.studio-tao.com/studio/aizome/aizome.htm 現在はどの地方でも、伝統的な藍染めの技法の後継者がいなくなり、合成藍をつかった簡便な染色方法や機械的にプリントしていく方法にかわってしまった地域も多い。手仕事で藍玉を作り、手染めしていく方法の保存が急務です。 インドネシアンバティックのように、初代大統領自らが「伝統産業育成」をはかった国もあります。大量生産に合うよう、合成藍が使われ、現在のインドネシアでは、天然藍はほとんど使用されていませんが、染織を一大産業にまで発展させつつ、伝統を保持する方向が考慮されてきました。 アフリカやラテンアメリカなど、手仕事の伝統が忘れ去られるだけで、保護育成策がとられていない地域がほとんどです。2008/11/03ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(3)藍染め 世界中の藍染めの衣装、ほんとうに多種多様で、アフリカやラテンアメリカの藍染めの衣装、世界中のさまざまな形と色。藍染めにも多彩な表情があり、染めの技法も数多くありました。 世界の民族衣装では、藍染めの布に丹念に刺繍をほどこした晴れ着が多く、非常に華やかで美しい。 世界のある地方では、藍染めは「忌み色」で、未亡人が身につけるものになっていたり、ほんとうに衣服文化は、さまざまな表情や意味合いを持っています。 グアテマラのソロラという民族衣装、メキシコ・ミステカ族の衣装、アフリカのガーナ、コンゴ、カメルーン、ニジェールなどの民族衣装に使われた藍染めを、楽しく見て回りました。 専門家による藍染めの民族学的研究http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou23/kiyou23_05.pdf 日本の藍染め、一番先に思い浮かぶのは浴衣ですが、それ以外に仕事着として藍染めに丹念に刺し子をして丈夫にしたもの、大漁祝いに着られた祝着など、文様の意匠もさまざまでおもしろかったです。「世界の藍」展の図録を買いました。  展示品の中の参考資料を出展していたのは、埼玉県の染物屋さん。日本の藍染めを知るには、下記のサイトもお役に立ちます。 武州中島紺屋 http://www.izome.jp/ 博物館を出てクイントビルに隣接する文化女子大学キャンパスへ。調べてみたいことがあったので、図書館に寄ってみようと思ったのです。でも、図書館の職員さんは、「学外者は、当学園教員の紹介状がないと閲覧できない」と、つれない。 現在、ほとんどの大学図書館は相互利用ができ、身分証明書があれば入館できるのに、ずいぶんと閉鎖的なんだなあと思いましたが、それぞれの大学の方針なのだから、仕方ありません。 11月2日から始まる文化祭の準備で、夕方のキャンパスはにぎわっていました。造形学科服飾学科の学生達にとって、ファッションショーをはじめ、文化祭の発表は晴れ舞台。新宿駅に近いこともあって、文化祭は毎年大入りなのでしょうね。どんなファッションが舞台をのし歩くのでしょうか。 円形硝子張りのおしゃれな学生食堂で、紅茶ケーキセットをたのみ、休憩しました。 隣でコーヒーを買っていたのは、「染色実習室」での授業を抜け出してきて、一休みしようとしている先生でした。エプロンをつけた先生、助手さんとおしゃべりしながら「え、ここ、4時半までなの?」と言いながら、あいているテーブルへ。文化祭展示へ向けて、学生達の染色作品制作が追い込みにかかったところなのでしょうか。 伯母(母の姉)は、私の姉が生まれたときから、洋裁を習いはじめました。姉に新しい服を誂えることが、伯母の生き甲斐でした。その当時「ドレメ式」と「文化式」のふたつの「型紙の作り方」があり、伯母は文化式でした。伯母は『装苑』というファッション雑誌を定期購読しており、姉は熱心に「装苑」を眺めては、伯母に新しい服を頼んでいました。私はそのお下がりをもらうだけなので、服装への興味は起きようもなかった。 2002年に姉が54歳で亡くなってから、伯母は急速に惚け、それでも姉の死後2年生きて90歳で亡くなりました。伯母がグループホームに入るとき、それまで大事にとっておいた古い『装苑』などはすべて「ゴミ」として処理されてしまいました。今思えば、必要とされるところに寄付するなりすればよかった。若い人が古い時代のファッションを参考にしたいと思ったとき、「教授の紹介状」などなくても、学外者が気楽に利用して古い雑誌を見られるような施設に寄付できたらよかった。 『装苑賞』というファッションの賞があります。賞を出すのは文化学園と文化出版局ですが、応募は文化関係者でなくてもよく、現在服飾デザインを職業としていない、または服飾デザインを職業としてから2年間以内の人が応募できます。高田賢三、山本耀司などがこの賞から世界に羽ばたいていきました。 次に世界へ飛び立とうとするのは、だれになるでしょうか。 文化女子大学の学生食堂のテーブルに型紙をひろげながら、話し合っている若い学生たち。どんな服ができあがるのでしょう。 どんな奇妙奇天烈な服だって、私には着られると思うよ。 世界の先端的なファッションデザイナー、たとえば、マルタン・マルジェラがデザインした「割れた皿を針金でつなぎ合わせたベスト」も、着られるでしょう。なにしろ私は、「どんな服を着てもよい」と、夫の保証付きですから。 マルタン・マルジェラの「ポペリズム」(貧困者風)というデザインは、特に私に似合うはず。 私の衣装は、藍染めでなく、愛染め、、、、って、どんな愛やねん。妻がどんなボロ着てようと、気にもならない愛って、、、2008/11/04ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(4)ジャワ更紗 10月31日金曜日は、出講先の大学のひとつが文化祭準備日で授業は休講。平日が休みになると、ゆっくり美術館なども回れます。 10月31日、藍染め展へ行く前に、大倉集古館で「インドネシアバティク展」を見ました。バティック=ジャワ更紗。インドネシアのろうけつ染めの布です。 私の年代の人なら、北原白秋作詞、山田耕作作曲『酸模(スカンポ)の咲く頃』が載っている音楽教科書を使っていた人も多いと思います。 ♪土手のすかんぼ ジャワ更紗 昼は螢がねんねする 僕ら小学○年生 今朝も通ってまたもどる すかんぽ すかんぽ 川のふち 夏が来た来た ド レ ミ ファ ソ♪ という歌です。 ○年生の○のところは、その音楽教科書を使う学年が入る。私のときは6年生でした。(原詩は♪ぼくら小学尋常科~だったそうですが) 6年生の私は「ジャワ更紗」というのは、いったいどんなものかわからずに歌っていました。「どてのスカンポじゃわさらさ」は、スカンポが風にジャワとゆれ、さらさと揺れる擬音語かと思っていました。 ジャワ更紗の何たるかがわかった今でも、なぜスカンポの歌に突然ジャワ更紗が出てくるのか、意味不明。ご存じの方がいたら、春庭にお教えください。「なぜ?」と思ったら夜も寝られなくなるタチなので。(電車の中で昼寝するけど) さて、大倉集古館のバティック展は、インドネシアと日本の国交樹立50周年記念の催しで、インドネシア大使館、ジョクジャカルタ王宮、インドネシアバティック協会などの後援を得た、たいへん大規模な充実した展覧会でした。 展示監修者である国士舘大学の戸津正勝教授のバティック個人コレクション3000点も協力展示されています。http://www.hotelokura.co.jp/tokyo/shukokan/batik.html 『インドネシア更紗のすべて-伝統と融合の芸術』というタイトル通りの、古今の、そしてインドネシア全地域のバティックを一同に見渡せる、かってない更紗展、見事な作品が並んでいました。 バティックは、もともとインドネシア各地で独自に発達してきたろうけつ染めです。 王宮の公式衣装として取り入れられて以来、色や文様に大きな発達をとげました。 展示は、第1章王宮のバティック、第2章北部海岸のバティック、第3章外島のバティック、第4章農村のバティック、第5章バティックインドネシアと現代の潮流、という地域やテーマごとに展示されており、バティックの地域ごとの特徴と歴史的な流れが、俯瞰できる展示方法でした。 この展覧会は、2007年6月から各地の美術館を巡回してきました。静岡県佐野美術館、町田市立美術館、千葉市美術館、京都市細野美術館などですでに展覧会が終わっています。 最後の大倉集古館での展示は12月21日まで。もんじゃ(文蛇)の足跡ぐいりんさん、スカンポ(すいば)とジャワ更紗の関係について、ヒントをありがとうございます。スカンポが群生しているようすが、ジャワ更紗模様に見えるということみたいです。http://www.wfg-bluebonnet.com/blog/garden-life/2008/05/post_69.html2008/11/05ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(5)インドネシア・バティック展 インドネシアは、ジャワ島、スマトラ島、カリマンタン島をはじめ、大小1万7,500もの島から成る、人口2億4千万人の国です。 宗教は大半がイスラム教徒ですが、バリ島はヒンドゥー教であるなど、様々です。私が昨年教えたインドネシア女性のひとりは、クリスチャンだと言っていました。 公用語はインドネシア語ですが、それぞれの島に多様な文化をもつ民族が混在しており、500以上の言語が使われています。インドネシア語(マレーシアの言語マレー語の方言から発達した言語)を母語として家庭の中で話しているのは、3千万人ほどで、あとの2億人は、日常生活ではジャワ語スンダ語などそれぞれの地域の言語を使っています。 共和国として独立後は、初代のスカルノ大統領が、バティック染色工匠のパネンバハン・ハルジョナゴロを高く評価したことから、バティックが大きな発展を遂げ、今ではインドネシアの一大産業として広く輸出されるに至っています。 500もの言語と多様な民族文化に分かれているインドネシアにとって、バティックという染色文化は、国民のアイデンティティをつなぐ「国民文化」として存在していると言えます。 地方ごとの文化であったバティックを、「インドネシア全土の文化財」として統一させたパネンバハン・ハルジョナゴロは、「バティックの背景には農業を基盤とした神と人が一体化した”肥沃の哲学”がある」と述べています。 彼は、現代バティックが産業化し「バティックの中にある独自の哲学」を捨て去ろうとする動きに批判的な立場をとっています。バティックは、さまざまな意匠をとりこんできましたが、その底には農業を基盤産業としてきた人々のものの考え方ひいては生き方が息づいています。その基層までを捨て去ることは、パネンバハン・ハルジョナゴロには考えられないことです。農業が変化し、農耕生活が人々から遠ざかったとしても、「バティックは、瞑想の訓練や高いカリスマ性を持つ伝統的哲学としての偉大な作品であるべきだ」と彼は述べています。 図録は2500円と高かったですが、これほど充実したバティックコレクションは、次の「日本インドネシア国交樹立百周年」までないかもしれず、買ってしまいました。 パネンバハン・ハルジョナゴロが述べていることばをゆっくり読みたかったという理由も、図録購入の理由です。 今後もバティックはインドネシア独自の芸術・産業として、伝統と新しい意匠を融合させつつ発展していくでしょう。パネンバハン・ハルジョナゴロのいう「バティックの底に流れるインドネシア精神」が受け継がれることを願っています。バティックのいくつかを掲載しているブログをリンクhttp://totemokimagure.cocolog-nifty.com/zakkan/2007/08/post_2c3b.html2008/11/06ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(6)更紗・交流の歴史 水曜日に出講している大学は「創立記念日&文化祭あとかたづけ」で全授業休講。 上野あたりを歩いて見ようかと思っていたのですが、ついついバラク・オバマの勝利宣言演説をライブで15分間、聞いてしまいました。 バラク・オバマの実父がケニア・ルオー族の出身であることは、2008/05/02に書きました。http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200805A 実父がケニア人留学生、母親が再婚した養父がインドネシア人だったために、小学生時代はインドネシアで暮らした、という彼の経歴は、アメリカ有権者によく知られているので、彼の勝利演説で、「黒人も白人も、ヒスパニックもアジア系も、ゲイもレズビアンも皆等しく合衆国市民である」という演説が、効果的に聞こえました。マケインが同じことを言ったとしても、「そりゃ、選挙用のリップサービスにすぎないだろう」と、聞こえてしまうのに、オバマは、出身の点が有利に働いた。 彼は、アフリカ系にもアジア系にも親身になれ、ゆえに他のマイノリティにもきっとよりよい社会を実現するだろうという「チェンジ」の一言が有権者の心に響いたと思います。 娘は「オバマ勝利の感想について、日本の新聞記者は”オバマ勝利を応援してきた小浜市民の一言”とか載せるだろうけれど、私は意味もなくキムタクに取材して、『チェンジ』が期待ほど視聴率上がらなかったことについて語らせてほしいよ」と、言ってました。日本は、「チェンジ」からほど遠い。 さて、バティックは、伝統を維持しつつ、細かい意匠は時代に合わせてチェンジしてきた染め物です。 バティックの歴史のなかで、文化交流の面で興味を惹かれたことがありました。 バティックは中国文様、ヨーロッパ文様などの受容能力が高く、どんどんバティックの伝統模様に取り入れてきました。 オランダ統治時代にはヨーロッパの意匠を取り込み、展示バティックには、「赤ずきんちゃん模様」「天使模様」などがありました。下記URLの左上の図匠が「赤ずきん」http://www.kokushikan.ac.jp/newsevent/2007/batik1.html 日本統治時代には、「大日本奉公会」がバティック制作に関与したため、日本風の文様がろうけつ染めの文様に取り入れられ、「ホーコーカイ様式」というひとつの染め方が定着しました。インドネシア語に「ホーコーカイ」という外来語が定着したのもおもしろいことですし、日本的な文様がインドネシアバティックのなかに取り入れられ定着していく過程もおもしろいと感じました。 帰宅後、図録はパネンバハン・ハルジョナゴロのことばを読んだあとは、ぱらぱらとめくって、様々な意匠を楽しみました。大部で重い図録をゆっくり眺めるのは、「リタイア後の楽しみ」ということにして、本棚にしまいました。 かわりに私の本棚の片隅にあった京都書院発行、吉岡幸雄監修の本、『和更紗文様図鑑』をあらためて眺めました。「和更紗」は文庫なので、寝ながら読むにも重くない。 『和更紗文様図鑑』は、ある駅前の書店で「閉店投げ売りセール」をしていたときに買った「定価の半額」と書いてあったカラー文庫シリーズのなかの一冊。買ってから、ぱらぱらとカラーページをみただけで、読んではいなかった。ジャワ更紗展を見て、そうだ、和更紗の本があったっけ、と思い出しました。 和更紗も多彩な文様が布の中に息づいています。2008/11/07ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(7)和更紗 更紗(さらさ)は、インド起源の木綿地の文様染めものと、印度更紗の影響を受けてアジア、ヨーロッパなどで作られた類似の文様染めの布を指す染織工芸用語。英語ではchintz。木綿が主ですが、絹織物への染色もあります。 日本では、平安以後、染色による文様より織りによる文様表現が盛んでした。最初に糸を染め、布を織り上げる過程で複雑な織り方によって文様を生み出してきたのです。 織物による文様の紹介サイトhttp://www.kariginu.jp/kikata/6-1.htm 以上のサイトの文様を眺めても、織り方で複雑な模様を出す技術に目を見張るものがあります。しかし、絞り染め、板じめ染めなど、できあがった布を染めていく方法では、細かい文様が出せなかった。 室町時代末期から戦国期、南蛮貿易が盛んになった時期、ジャワ(インドネシア)、シャム(タイ)、印度などから更紗(染めによる文様)の布がもたらされました。茶人に珍重され、茶道具の仕覆、茶杓の袋などに使われました。 南蛮貿易が幕府独占となった江戸時代以後、大名家おかかえの染色工房や民間の工房から、和更紗という独自の更紗模様が染め出されるようになりました。鍋島更紗など多様な染色文化が生まれました。 日本では、更紗は高級品の扱いだったので、絹織物が多く、江戸の上層社会に珍重されました。長崎更紗、堺更紗、京更紗、江戸更紗など。 江戸時代中期、1778(安永7)年には、更紗の図案を集成した『佐良紗便覧』が刊行され、更紗模様が普及したことがわかります。 この和更紗の伝統模様が、インドネシア「大日本奉公会」によってバティックに取り入れられ「ホーコーカイ文様」となる。こうして、文化の交流はいつの時代にも、互いの文化をより多彩に豊富にしていくのだなあと感じました。 文化の交流と広がり。いつの時代にも、どの地域にも。 11月は文化祭シーズン。出講先の私立大学のひとつが11月5日、国立のひとつが11月20日、「文化祭休講」になります。11月は、月曜日が2回祝日。休めば給料が減る非常勤講師ですが、体は楽です。 薄給といっても、給与以外の楽しみもあるのが教師のしごと。私の授業でも、「異文化交流」は、楽しみのひとつです。互いの文化を知らせあったり比較したりする異文化交流は、留学生も日本人学生も、楽しんでくれる授業項目です。2008/11/08ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(8)留学生によるバティックの染め方紹介 春庭担当の留学生クラスでは「自国の文化発表会Show&Tell」」というのを行っています。最初に教師から日本文化紹介をして、そのあと、これまで習った日本語を使って、自国の地形風景、文化などを紹介するのです。 学期の終わりごろ、留学生の日本語発表の仕上げとして「自国の文化自慢」を、日本語まだへたな人もうまくなった人も和気藹々で発表します。 先学期も、バングラディシュの男性衣装について、エジプトのピラミッドについてなど、多彩な発表がありました。先学期のクラスには、インドネシアの留学生がふたりいて、女性は「インドネシア料理」の発表、男性は「バティックの染め方」について発表しました。 インドネシアのバンさん、持参のバティックシャツをかかげ、たどたどしくはあったけれど、メモの紙をみながら、一生懸命説明しました。臈纈(ろうけつ)染めの方法について、他の国の留学生も理解することができました。 布の上に防染のために置いた蝋(ワックス)は、どうやって取るのか、という質問がクラスメートから出て、「水をお鍋に入れます。熱くします。お湯になります。え~と」と、説明に困ったようすです。 「湯をわかす」「~が~に溶ける」という表現をまだ習っていませんでした。「お湯をわかして、布を煮ます。蝋がお湯に溶けます。It melt in hot water。蝋がなくなって、綺麗な模様が見えます」と、教師が助太刀。 パキスタンの伝統的な絞り染めについての発表など、留学生の文化発表のようすは、HP『話しことばの通い路』の「日本語教室はあいがいっぱい」に記録してあります。http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nippongoai0608a.htm 今は出講しなくなった大学で、過去12年間、留学生の「日本事情」という科目を担当していました。「自国と日本の交流史」というコーナーを設定して、留学生に自由なテーマで発表させてきました。「饅頭伝来記」「算盤の日中比較」「台湾にダムを作った八田與一」「和琴と中国琴の比較」など、それぞれの学生が日本と自国の交流を生き生きと紹介してきました。 昨年中国へ赴任するとき、この大学の日本語学科から「半年間休むというなら、来期からの再任はない」と言われて、残念ではありましたが、「再任なし」を受け入れました。 文化交流を学ぶ授業実践の場がなくなり、寂しかったですが、どうしても中国で仕事をしたかったので、やむをえませんでした。 どれほど熱心に授業をして、学生からの支持があろうと、大学にとっての私は、「いくらでも補充がきく語学教師」のひとりにしかすぎません。非常勤講師ですから。 中国へ行くことで失った私立大学2コマ、国立大学2コマの授業は、別の国立大学の授業が5コマもらえたので、収入が大きく減ることはなかったのですが、それでもやりがいのあった日本事情の授業がなくなったことは寂しいです。(現在、週5日。2つの私立大学と2つの国立大学で、週11コマ7種類の授業をこなす毎日で、以前より仕事量は多くなったのですが、がんばって働いています) 文化交流の授業は、留学生にとっても日本人学生にとっても、自国の文化を見つめ直し、異文化を広く受け入れる気持ちを養成することができる大切な分野だと、私は思っています。 「日本事情」のクラスはなくなったけれど、現在は、日本人学生の「日本語教育研究」の一部「異文化受容と日本語教育」「日本の歴史や文化を日本語授業のなかでどう教えるか」という項目に関連させて「日本の文化交流史」の発表をさせています。2008/11/09ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(9)唐草模様は世界をめぐる 日本人学生による文化交流発表。今期10月29日には、「中国から伝来した金魚」という男子学生2年生(クラス内での呼び名は本人希望によりキムチ君)の発表がありました。 紀元3世紀の中国で、鮒(チィ)から突然変異によって金魚が発生し、その後中国で金魚の品種改良が続けられました。室町時代に日本に伝来して以来、江戸時代には庶民の間に普及して品種改良が続けられ、さまざまな金魚が生まれた、という発表で、興味深かったです。 学生発表に付け足せば。 文化革命時代「金魚飼育などは、ブルジョアの趣味」として下火になり、中国における金魚飼育の伝統が途絶えてしまいました。しかし、日本の「金魚飼育」の方法を伝えることで、現在は、中国にも古来の「金魚飼育趣味」が復活して、人々の文化財産になっている。これも「交流」のおかげです。 金曜日の私のクラス。留学生文化発表会、次回は来年の1月ころになるだろうと思います。10月からスタートした初級クラス、1ヶ月たっても、ひらがなカタカナがうまく読み書きめない学生もいます。日本を「にはん」と書いたり、四月、九時が「よん月、きゅう時」になったり、四苦八苦して日本語習得につとめています。 今期の学生、ミクロネシアの島の出身者や、クエート出身の留学生がいます。インドネシア留学生もふたり。ラテンアメリカからチリの女性、アフリカからガボンの女性、ケニアの男性。 かっての文化紹介で、ミクロネシアの島の楽器や、クエートののコーラン朗唱を知ることができました。 日本ですっかり自信をなくしてしまった南の島の数学の教師兼酋長さんが、自国の楽器アウニマコをクラスメートに紹介し、誇りを取り戻す姿を見たこともありました。 今度はどんな文化を紹介してもらえるのか、楽しみです。  10/07の「和更紗」について、:kazukomtngさん から、質問がありました。 「あの・・・泥棒の風呂敷のマークは何文様なのでしょうか?手仕事には温かみがありますね。」(2008-11-07 21:33) かって、芝居などでは泥棒は必ず唐草模様の風呂敷に盗品を包んで逃げることになっていました。唐草模様は、風呂敷に限らず、広く用いられました。http://item.rakuten.co.jp/karakusaya-r/c/0000000100/ この唐草模様は、ツタがつるをのばして絡み合うのを図案化しています。古く、メソポタミアやエジプトの古代文明の遺跡遺物にも蔦葛(ツタカズラ)文様が見られ、ヨーロッパでは、このつたかずら模様を、「アラビア風模様」という意味で「アラベスク」と呼んでいます。 日本へはシルクロードを通って、ペルシャから中国へ伝わった文様として伝来しました。ペルシャ風ツタカズラ文様が簡略化され、「繁栄を表す吉祥文様」となったものが唐草文様です。泥棒がこの文様の風呂敷を好んだとされているのは、悪事凶事である「窃盗」を、吉事に変えて包みたいという心理が働いたのかもしれません。 このように、文様ひとつをとっても、文化の諸要素は世界とつながり、関わり合っています。 藍も更紗も、音楽も物語も、世界中をめぐりめぐって、影響し合い、豊かな文化世界を作り上げています。一枚のスカーフも腰巻きも、ブラウスも小袖も、縦糸横糸は縦横無尽に世界をかけめぐり、世界模様を描いてきました。 「布を見る」シリーズ、一枚の布も、世界のさまざまな人々の手と手がつながっていることを感じながら見ることができました。<おわり>2009/03/08 ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(10)モリスのアーツ&クラフト 産業革命後の英国近代化がビクトリア朝で華やかな成功を収めていた頃、労働者たちはゲゼルシャフトもゲマインシャフトもわからないまま貧困と重労働にあえいでいました。 そのような時代に生きたひとりのマルクス主義者。ウィリアム・モリス。 モダン・デザインの父ウィリアム・モリス(William Morris, 1834~1896年)は、19世紀イギリスを代表するアーティストです。産業革命後の機械文明突入の中で、手仕事のよさを失うことなく、美しいデザインによる「生活のなかの芸術」を目指しました。モリスの提唱した「生活のための芸術アーツ&クラフツ」は、20世紀デザインの基本概念となりました。 モリスは株仲買人の父から豊かな財産を相続し、デザイン・工芸品を売るためのモリス商会も成功しました。一方、産業革命後の工業化のために手仕事を失った人々は、底辺労働に従事するプロレタリアートとなって苦汗労働にあえいでいました。モリスは労働者の生活に心をくだき、晩年はマルクス主義者として活動しました。カール・マルクスの娘、エリノア・マルクスらと社会主義思想のために、民主同盟、社会主義同盟、ハマスミス社会主義協会によって社会を変えようとしました。ハマスミス社会主義協会は、ロンドンの工藝職人たちに啓蒙的な活動を行って、彼らとともに心豊かな共同体を作る理想を持っていました。 モリスの労働観・芸術観は、日本の民芸運動に強い影響を与えたことが知られていますが、宮沢賢治の農民芸術論や羅須地人協会にも影響を与えたであろうという説があります。モリスの「民衆とともに生活を芸術に高める」という思想は、20世紀の社会に種をまいた、と言えます。 2009年2月18日「あと、授業は明日19日のテスト返しだけ」という日。なにか自分のために「今期もよく働きました。お疲れさん」という「一人打ち上げ」をしたいと思い、「布を見る」の続きをしました。働いたあとは、何か楽しいことをして長時間労働に従事してきた自分を「ご苦労さん」とねぎらってやらないと。 さて2月18日に見た、「布・織物染め物手仕事」は、東京都美術館の「生活と芸術アーツ&クラフツ ウイリアム・モリスから民芸まで」展と、庭園美術館の「ポワレとフォルチュニィ20世紀モードを変えた男たち」のふたつ。 今回のシリーズは、2008年11月に連載した「布を見る」の続篇です。 2月18日午後は、東京都美術館に行きました。 http://www.tobikan.jp/museum/arts_crafts.html 「いちご泥棒」と名付けられた小鳥が苺をついばんでいるデザインの壁紙。大量生産化の中でも美しさを追求した食器、テーブルクロス、タペストリー、布地とドレスなど、あらゆる生活シーンでのデザインが並んでいる中、モリスのケルムスコット屋敷の再現や、日本版アーツ&クラフツである「民芸運動」のひとつの頂点をしめす「三国荘」の居間の再現が目をひきました。 <つづく>2009/03/09 ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(11)モリスのクッション 展示品解説のオーディオを借りて聞きながら歩きました。「生活のため、労働者のため」というデザインも、いつの間にか「高級品」となって民衆には手の届かない品になっていった、という解説を聞くと、百円均一ショップのテーブルウェアやスカーフなどを愛用している私には、モリスデザインの製品はどれも労働者には縁遠いものに見えます。 モリスは理想主義的に労働者の生活を改善しようとしてマルクスの思想に共鳴したのだろうけれど、やはり彼自身はビンボウ生活とは無縁であったのだろうなあ、と思ってしまい、美しい生活用品を見ながらまたまた、ひがみやっかみねたみそねみで歩いたのでした。 日本のアーツ&クラフツ運動は「民芸運動」と呼ばれる活動が中心でした。柳宗悦が朝鮮半島の日常食器に美を見いだし、芹沢介が琉球紅型を芸術に高め、数々の民芸品が「美」の対象として再発見されました。 私は駒場の日本民芸館へ何度も出かけては、琉球紅型やアイヌ刺繍の古布などを見てきました。民芸運動が沖縄紅型やアイヌ刺繍の布などに美を見いだし、「田舎の布切れ」から芸術品へと認めさせてきた功績は大きい。 東京都美術館の「生活と芸術」展の目玉のひとつが、「三國荘の部屋再現」です。柳宗悦らが1928年に博覧会展示館として民芸運動のあり方を示した建物が三國荘でした。博覧会終了後、アサヒビール初代社長に買い取られ、現在は美術館になっています。http://cdn.asahi.com/kansai/photo/news/OSK200809120101.html 駒場の日本民芸館で見てきたのと同じような、器や布地ですが、三國荘のセットのなかで生活している姿そのままに再現されると、座布団の布地からテーブル掛けまでガラスケースの中に鎮座している姿とは違う、生活感の中に落ち着いた美しさを見せてくれます。 生活感ある展示といっても、我々風情には手も出せない値段だろうなあと、ミュージアムショップでも、さっと値札を眺めただけ。 モリスデザインによる布地のクッション、50×50cmで、ひとつ6000円、いやいや、クッションひとつに6千円払うような身分ではありませぬ。百円ショップの品もときに気に入りのデザインも見つかります。といっても、こちらはこちらで、百円で売るためにはこれを作っている人の労働賃金はどれだけ搾取されているのかって気分にもなるんだけどね。労働者の搾取!聞け万国の労働者。 労働を終えた労働者が「ひとりお疲れさん会」で楽しい気分になって帰ろうと思ったのですが、なんだか高嶺の花にひじ鉄くらった気分で会場をでてきました。「生活の中の芸術」ってやっぱりウチらには手がとどかない。 6千円のクッションひとつでビビってわびしい思いするより、いっそのこと、庶民には縁のない話のほうが、気楽。イヴ・サンローラン(フランスのモードデザイナー)の遺産、競売で売れた美術品だけでも463億円。マチスの絵「黄水仙と青・ピンクの敷物」が1枚で38億円、というほうが、金額が途方もなくて腹も立たない。とはいえ中国政府は腹を立てているんですけれど。次回は苺どろぼうと円明園泥棒<つづく>2009/03/10 ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(12)苺泥棒と円明園泥棒 サンローランコレクションの出品者ピエール・ベルジュは、サンローラン社の元会長で、イヴ・サンローランの公私にわたる長年のパートナーでした。ピエールは、二人三脚でサンローランのデザインを世界的なモードにし、ふたりして50年にわたって美術品を収集してきました。 イヴが2008年6月に亡くなり、ピエール・ベルジュは相続した美術品のほとんどをクリスティオークションで売り払うことにしました。オークション収益金の一部はゲイ・コミュニティーやエイズ研究に贈られるそうです。一部ってどれくらい?あのぅ、日本の貧乏な教師に贈られる分なんて、ないでしょうね。ほんの一部でいいんだけれど。ぱちもんYSLロゴのスカーフでも買いますから。 150年前、モリスは結婚の翌年1861年に、モリス・マーシャル・フォークナー商会を設立し、ステンドグラス、家具などの制作販売をはじめました。「苺どろぼう」と名付けられたデザインの壁紙やカーテンなどは、大人気商品となりました。150年たっても、同じデザインの商品がスカーフやブックカバーになって売られています。 イギリスでモリスのアーツ&クラフツ製品が売れ出したころ、中国は1842年のアヘン戦争後のドサクサ時代。清朝末期の混乱の中、円明園は1860年に英仏連合軍によって焼き討ちされ、円明園内の大量の美術品が国外へ流出しました。私は1994年に北京に滞在したとき遺跡公園としてにぎわっている円明園を訪れ、往時をしのびました。 円明園からの略奪美術品のうち、ブロンズ十二支動物像がサンローランのコレクションに含まれていました。中国側は「盗まれた文化財は国際法で返還が義務づけられている」と主張しましたが、フランス裁判所はサンローランコレクションのネズミとウサギの頭部像の競売出品を認める判決を下しました。 モリスデザインの代表作「苺どろぼう」のデザインパテント、モリスの死後誰が管理しているのだろう。意匠権は20年著作権は死後50年保護されますが、モリスが亡くなって113年も経っていますから、使いたい放題?使ったもん勝ち。 円明園泥棒の一件。「盗まれた文化財は国際法で返還要求できる」というほうも、どうやら100年200年たつと時効みたい。よくわからないけれど、円明園のウサギとネズミは2800万ユーロ、37億円で売れました。売ったもん勝ち。 「生活と芸術モリスから民芸まで」展は、各地を巡回しています。2008年9月~11月は京都国立美術館で、開催されました。東京都美術館が2009年1月24日~4月5日、愛知県美術館6月5日~8月16日です。<つづく>2009/03/11 ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(12)モードの迷宮で夜会 18日の午前中は、庭園美術館へ行きました。http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/poiret/index.html 建物調度全体がアールデコで作られている元朝香宮邸。美術館になって地下鉄一本で行けることもあり、庭園も建物も美しいので季節ごとに訪れています。企画展は、絵画のほかジュエリーやモードの展示もあり、庭と建物と展示がいつもよく調和しています。 下記URLで邸内とよく調和した展示の方法をみることができます。展示のコンセプトは「夜会」http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/poiret/index2.html#03 ポール・ポワレ(1879~1944)は、パリで生まれ傘職人からスタートし、オートクチュールの創始者ウォルトの店で働いたのち独立。「手の届く高級ドレス」を売り出して成功しました。彼は日本の着物やアジア地域の布地やデザインを取り入れた着やすく動きやすいドレスをデザインし、19世紀を席巻した「固いコルセットをしめつけて女らしさを強調するドレス」から女性を解放しました。 女性にとって「革命的」とも言われたコルセットなしのラインによって、20世紀モードは大きく変化しました。 ウォルト、ポワレ、ココ・シャネルの3人は、近代的ファッショを仕立てあげた「20世紀モード」の先駆者です。 ポワレと同時代人のマリアノ・フォルチュニィ(1871~1949)も、20世紀モードを語るとき、欠かせない人物です。スペイン・グラナダの生まれ。古代ギリシャの衣装からプリーツの布地を使った斬新なデザインで注目されました。デルフォスと呼ばれるプリーツドレスと、中東スルタンの衣装を取り入れたコートが特に有名です。 しかし、フォルチュニィは基本的には「衣装デザイナー」ではなく、絵画彫刻インテリアデザインにも才能を発揮したアーティストなので、作品数は多くありません。ココ・シャネルが日本でも有名であることに比べると、専門家以外にはほとんど知られてこなかった人でした。私もはじめてフォルチュニィのドレスを見ました。1985年「布に魔術をかけたヴェニスの巨人フォルチュニィ展」が行われた、というときには、子育てと2度目の大学入学で、「モード」どころではなかった、ということもありましたけれど。 結婚以来、姉、妹、伯母、姑からのお下がりの服ばかり着てすごし、「モード」などということに目がいくようになったのは、鷲田清一の『モードの迷宮』をちくま学芸文庫で読んでから。 アートとしてのモードには興味がありますが、今でも家では娘息子が「衿がよれよれになったので、もう着られない」というお下がりのTシャツと娘が「私に無断で縮んだ」というスエットパンツですごし、出かける服は妹や姑のお下がり。今年着ている黒のダウンコートは、1994年にいっしょに中国で働いた旧友が「デザインが気に入ったのだけれど、Lサイズでは私には大きすぎたので、よかったら着てね」と、大阪から送ってくれたもの。この冬、暖かくて重宝しました。 夫が、私にむかって「何を着ても似合う人と何を着ても似合わない人は、何を着てもかまわない」と言った、という話は何度かしたけれど、以来「私は何を着てもいい女性」として、何でも着ています。よれよれTシャツでも♪ボロは着てても心は錦、です。 夫の言う「何を着てもかまわない」の2種類の女性のうちのどちらにあたるのか、なんてツッコミは無用。言わずともわかる、私は何を着ても、似あ~<おわり>
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