春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

パトロン達の愛した芸術

2008-10-11 08:39:00 | アート
2008/11/09ぽかぽか春庭@アート散歩>パトロンたちの愛した芸術(1)芸術保護者パトロン 日本とインドネシアの交流というと、私の世代にとって真っ先に思い浮かぶのは、デヴィさんの名。 赤坂コパカバーナでホステスとして働いていた19歳の根本七保子が、「夜の接待用」として59歳のスカルノ大統領に提供されました。(名目は貿易会社秘書。給与はインドネシア貿易開発をねらっていた商社丸紅もち) 彼女の渾身の「夜の接待」は大統領の心をとらえ、22歳で見事「第三夫人」の座を獲得しました。その後スカルノは失脚し、たった3年の大統領夫人生活だったけれど、その間、隠し財産はしっかりスイスの銀行に預金した(という噂)。 結婚後は、「デヴィ夫人」と名乗り、大統領死去ののちも、実業家&タレントとして活動。ニューヨークで傷害事件をおこして実刑を受け服役する、という波瀾万丈な女性。大統領夫人の生活と傷害実行犯として服役する生活の両方を味わった女性はそうはいない。 彼女は、日本国籍を失い、インドネシア国籍で生活しているけれど、インドネシアでは評判が悪いらしく、夫の国のバティックを身につけた姿も印象にありません。 一度はインドネシアを代表する人の妻となり、「元大統領夫人」という肩書きを利用して生きてきたのに、夫となった人の国のために行う活動が少ないように見受けられます。彼女が「私もやっている」と宣伝している慈善活動のなかにも、インドネシア関連は多くない。 スカルノ大統領治世下で、隠し財産をため込んだのかどうか、定かではありませんが、彼女の財産や存在があまりインドネシアのために役立っていないのは、寂しいことです。 インドネシアバティックが、素朴なろうけつ染めから芸術品の域にまで達したのは、「王宮の衣装」として取り入れられたことが大きな契機になっています。財力を注ぎ込んで、より高度な品をつくりだそうとする「芸術のパトロン」の存在は大きなものです。 和更紗も、鍋島家などの大名家の産業保護によって発達しました。 日本でも、芸術にはパトロンの存在が大きい。平安の藤原氏、室町の足利氏、江戸の将軍や大名たち。それぞれが、文学建築絵画工芸染色織物芸能などの保護育成をはかりました。 現在、各地に多数の寺社建築や美術館博物館があり、私たちも芸術の宝庫を見ることができます。 三の丸尚蔵館は、天皇家から国庫へ寄贈された美術品を展示しています。 永青文庫は細川家の、徳川美術館は徳川家の「武家の家宝」を展示している美術館です。 現代、企業メセナとして、出光美術館、サントリー美術館、大倉集古館(ホテル・オークラなどの大倉グループ)、ブリジストン美術館など、創業者や一族の集めた美術品を展示しているところが多い。 パトロン(patron)の語源は、ラテン語のパトロヌス (patronus)。ラテン語のパテル(pater、父)と同根の語です。 パテルは、スペイン語ではパードレ(父、神父=padre)、英語ではファザー(父、神父、Father)、またはパパpapaです。 パトロヌスは、保護者、後援者のことで、英語ではパトロンpatronです。 古代ローマでは、「パトロヌス」とは、私的な庇護関係における保護者を指しました。この関係で、保護者(パトロキニウム)と被保護者(クリエンテス)は、擬似的な親子関係「父と子」とも考えられました。パトロヌスはクリエンテスに対して法的、財政的、政治的援助を与える存在であったのです。 後世においては、一般的に「保護者=パトロン」となりました。 クリエンテスは、現代英語ではクライアントclientであり、弁護士に対する依頼人、医者や心理療法士に対する患者、広告業者に対する顧客、を意味します。 現代語では、「パトロン」はその保護する相手により、意味合いがことなります。芸術家にとっては、かれらの活動を支援する資産家、企業がパトロンです。毎月の生活費をひとりの男性に出してもらっている女性にとって、彼は「パトロン」です。この男性を「パパ」と呼ぶ女性も多い。 私の夫は、子どもたちにとっては「遺伝子上、法律上のパパ」ですが、私にとっては「パトロン」ではありません。<つづく>もんじゃ(文蛇)の足跡: 今月は、10月に引き続き、美術館散歩シリーズを続けています。「布を見る」シリーズのあと、「パトロンたちの愛した芸術」シリーズ1~6。「ねたみそねみひがみやっかみ美術館徘徊」シリーズ1~8。00:00 コメント(3) ページのトップへ 2008年11月11日ぽかぽか春庭「商家の力」2008/11/11ぽかぽか春庭@アート散歩>パトロンたちの愛した芸術(2)商家の力 江戸時代から財力を蓄えてきた「商家の財宝」もなかなかのものです。 商人たちは、一定の財産を蓄えると、「美術品」に目がいくようになり、代々のコレクションは、コレクターの目利きとお金の力の見せ所となっています。 以下、三井家、住友家などが累代集めてきたコレクションをめぐります。 三井家は、三越デパートの前身「越後屋呉服店」によって、江戸時代に財をなしました。 幕末に「尊皇派」に加わることによって、三井家は明治期に、住友家、岩崎家と並び、三井・住友・三菱コンツェルンとして、莫大な資産を蓄え、有り余ったお金を美術品収集にも向けました。戦後の財閥解体を経てなお、膨大な美術品を所蔵しています。 日本橋三越の隣、三井グループの本拠地ともいえる三井本館7階にあるのが三井記念美術館。http://hix05.com/architect/street/mitsui.html 三井記念美術館は、三井家の財宝を中心に展示しています。http://www.mitsui-museum.jp/index2.html 2008年6月29日に見た「三井家の茶箱」展は、江戸後期から近代にかけて三井家で仕立てられた三井家伝来の茶箱・茶籠約30点に草花図襖絵などをまじえて展示されていました。 茶箱とは、「携帯用お茶セット」ともいえる茶道具一式をいれた箱です。 三井家の当主や夫人たちは、代々お茶をたしなみ、自作の茶道具をしつらえています。 豪華な茶籠や、抹茶道具と煎茶道具が一緒に入った茶籠などもあり、商家の茶人や数寄大名などが、自由な発想で楽しんでいたようすが彷彿とします。  三井家の人々が優雅にお茶を楽しんでいた頃、私のご先祖は、ちょいとフチが欠けた茶碗かなんかでお茶を飲んでいたのかも知れません。 魚沼郡コシヒカリが今のように高値で売れる時代ではなかったから、小作料の米をもってきた小作人たちに一杯のお茶をふるまうにも、茶葉を大事に出がらしになるまで湯を注いでいたかも、、、、なんて、ひがみつつ、お金持ちの茶箱を拝観。本日の徘徊ミソヒト金の匙銀の茶筒のきらめいて、野点の席に吹きすぎる風<つづく>08:59 コメント(5) ページのトップへ 2008年11月12日ぽかぽか春庭「三井家のおたから・茶箱展」2008/11/12ぽかぽか春庭@アート散歩>パトロンたちの愛した芸術(3)三井家のおたから・茶箱展 「茶箱展」展覧会の説明より================ 「持ち運びができる小型の箱や籠などに、喫茶用の茶道具一式を組み込んだものを茶箱および茶籠と呼んでいます。 茶人が自らの好みで選び仕立てた茶箱・茶籠は、茶の湯をたしなみつくした人が行き着く究極の趣味世界ともいわれます。 自らの趣味にあった箱や籠を茶箱にあつらえ、それに茶碗や茶器、茶巾筒、茶杓、菓子器など好みに合った道具を探し、それらをこだわりの袋や裂で包んで収めた茶箱・茶籠は、まさに「数寄の玉手箱」と呼ぶにふさわしい茶道具です。そのはじまりは桃山時代頃まで遡るようです。 三井家代々の、茶箱と茶籠を、草花図・山水図などの襖絵・屏風絵などとともに展示し、野外での喫茶の雰囲気も演出した展示空間、、、、」=========== 『三井家の茶箱』展を観覧しているほとんどの人が、「お茶をたしなんでいる」「趣味は茶道」「次の茶会にはどんな着物を着ようかしら」というような人ばかりでした。 着物で「茶箱展」にお出かけしたのは、こんなマダムたち。http://plaza.rakuten.co.jp/edoyasiki/diary/200805300000/ ひがめは私だけかと思ったのだけれど、見てきた人のブログをいくつか読んでみると 「三井記念美術館に行ったが、こちらはゆったりしていた。でもいる観客は綺麗に着付けしたお着物のマダムとか、いかにも美術品好き!という感じの方ばかりで、どなたもものすごく熱い目で三井家の「お宝」を見つめていらした。」という感想も書かれていて、エエシの奥方有閑マダム大集合と感じたのは、私だけじゃなかった。 丸山応挙の絵なども展示されていて、見所はたくさんあったのでしょうが、あいにくとお茶のことはさっぱりわからん。 お茶は、「袱紗のたたみ方」というのを習ったっきり、「足がしびれることは二度とやらぬ」と思って以来、とんと疎遠でした。 小さな茶器があって、ミニチュアサイズ。おままごとや、雛飾りの段においてもかわいい、というような感想しかでてこない。 とまれ、金持ちゆうゆうと趣味をたのしむ、という三井家の家風、「数奇の玉手箱」という展覧会のタイトル通り、「数寄」を極めるとこうなるんだなあ、と思います。 そして、俗人の悲しいサガ。こういう茶道具、オークションにかけたらいくらくらいの値がつくのか、と、ついつい下世話な感想もちつつ会場をめぐりました。本日の徘徊俳諧茶筅ひとつ米何俵分の値やら<つづく>11:32 コメント(2) ページのトップへ 2008年11月13日ぽかぽか春庭「江戸・東京茶の湯展」2008/11/13ぽかぽか春庭@アート散歩>パトロンたちの愛した芸術(4)江戸・東京茶の湯展 10月30日、日本橋高島屋で開催されていた『江戸・東京茶の湯展』を見ました。 このお茶碗、オークションにかけたらいくらかしら、なんていう俗人根性ばかりで三井家のお宝を見てしまった私、もっと無心に茶の美を味わう「大人の鑑賞」をしなければいけないのではないかという反省もあって出かけました。つうか、招待券もらったから見にいったんだけどね。 領地一国と茶碗ひとつもらうのでは、どちらがいいかと問われたら、「一椀の名物茶碗」という時代だった戦国末期。 たとえば。滝川一益は、武田攻めに武功をあげ、織田信長秘蔵の栗毛馬とともに、上野一国と信濃小県・佐久二郡が与えられ、厩橋城主に任ぜられました。一国一城の主になったのです。しかし、一益は、茶道の友に手紙を書きました。「このたび武田氏を討ちました。信長公が望みをお尋ねになったなら、小茄子の茶入れをいただきたいと申し上げるつもりでした。ところがそれはなく、このような遠国に置かれてしまい、もはや茶の湯の冥加も尽き果てました」 城よりも「小茄子」という名物の茶入れがほしかった、と書いているのです。 茶人として自身の力量を示すこと、名物と称えられる茶器を多数保持して、それを他の人々に見せつけることは、権力のあかしであった時代でした。一城より茶器のほうがほしかった、という一益の言い分も、「名利より芸術を愛した」という意味ではありません。「小茄子」という茶入れを保有することで、一益の名声はより大きくなり、一国を持つ以上の利益があると皆が思っていたからこそ「城より茶入れがほしかった」という愚痴となったのです。 財をなした商人や 権力者が、次に美術品収集をはじめるのは、にわかに芸術の美にめざめたから、というより「芸術・美術品の保有者」という名声を求めるため、というほうがあたっているでしょう。美術品を集めること、芸術家のパトロンになることは、己の財力権力のあかしになるからです。 『江戸・東京茶の湯展』、最初のコーナーでは、徳川初期三代、家康秀忠家光の愛用した大名物(おおめいぶつ)「茶入れ」が展示されていました。 「茜屋茄子」、「利休尻膨」、「利休物相」が並べて展示される、という、茶人垂涎の展示をはじめ、数々の名物茶器が並べられていました。 定家筆の掛け軸や、山田宗偏の自筆手紙などもあり充実した展示、また、江戸の下級武士が長屋で茶会を楽しんでいるようすの絵、相撲取り力士が茶を点てている錦絵などもあり、茶の湯文化の広がりを知ることもできる展示でした。 そんなスンゴイ茶器が並ぶなか、私の目は相変わらずの「猫に小判」状態。大名物の隣に、百円均一ショップの茶碗が並んでいたとしても、「はぁ、たいしたもんですねぇ」と、感心して見たことだろう。 この茶の湯展には、各流派の「立礼」による茶の湯道具の展示コーナーがありました。外国人接待用として、テーブルと椅子を用いるお手前があり、それぞれの茶の流派で美しく機能的な茶の湯用のテーブルと立礼に適した茶道具がありました。あらま、私は足がしびれることは嫌いだ、と思って茶の湯修行をやめたのに。今から、立礼だけ習おうかしら。 この展覧会にも、茶会帰りのような和服をお召しの奥様方が大勢いらした。私は茶器といっしょに高級和服で目の保養をさせていただいた。ええ、「和服の美」を、無心に鑑賞させていただいたんですけど、、、、あの小紋、一枚いくらくらいかしら、、、。<つづく>00:09 コメント(7) ページのトップへ 2008年11月14日ぽかぽか春庭「住友家のおたから泉屋博古館」2008/11/14ぽかぽか春庭@アート散歩>パトロンたちの愛した芸術(5)住友家のおたから泉屋博古館 三井家のお宝は三井記念美術館にしまってあり、住友家のおたからは、京都の泉屋博古館(せんおくはっこかん)にしまってあります。http://www.sen-oku.or.jp/ 住友家は、江戸期代々の財物に加え、第15代当主住友春翠が明治中頃から大正期にかけて蒐集した中国古銅器と鏡鑑のコレクションで知られています。 これらを寄贈した美術館が「泉屋博古館」。私はクッキーのいずみやの博物館かと思ってました。まあ、どっちにしろ、お金持ちのお金が余って建てる美術館のひとつです。 その分館が、東京にあります。http://www.mapion.co.jp/front/Front?uc=4&ino=BA418558&grp=museum&pg=1 東京分館は、地下鉄六本木一丁目をスエーデン大使館やスペイン大使館がある側の出口をめざして屋外エスカレータを上っていくところにあります。 2008年4月20日、友人A子さんといっしょに、泉屋博古館で『近代日本画と洋画にみる対照の美』を見ました。 『近代日本画と洋画にみる対照の美』展示ごあいさつより============= 『わが国の近代絵画史は、日本画と洋画の両輪によって育てられ、豊かな稔りを結びました。さらに両分野ともに東京、京都、大阪に地盤を置く画家たちの活動により、地域毎の彩りも添えられ、多彩な展開を見せました。本展は、竹内栖鳳、東山魁夷、浅井忠、鹿子木孟郎、岸田劉生の他、日本洋画に大きな影響を与えたジャン=ポール・ローランス、クロード・モネの作品も展示いたします。』================ 鹿子木孟郎の「競べ馬」「ノルマンディーの浜」。この作家の作品を、初めて,見ました。 鹿子木孟郎の作品を集めている三重県立美術館よりリンクhttp://www.pref.mie.jp/bijutsu/hp/collection/j_k/kanokogi_index.htm 展示の点数は少なかったですが、なにしろいつも人が少なくゆっくり見ることのできる小規模な美術館なので、のんびりできてよかったです。 絵をみたあとは、六本木の居酒屋で、友人とおしゃべり。松本健一について、市川房枝について、子育てと仕事について、、、、話がはずみました。この展覧会に言及しているいくつかのブログをリンク。 http://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/75a7e9785edcbab58af7cc608079afa9 http://blossom-soon.seesaa.net/article/90391741.html 8月26 日、友人K子さんと、泉屋博古館で「七宝展」を見ました。泉屋博古館は初めてきたというK子さん、私が最初に思ったのと、発想おんなじ。「クッキーの泉屋?」と聞いてきました。わ~い、トモダチ友だち。 七宝は、ガラス粉を焼き付けて模様を描く焼き物です。 七宝は、桃山時代に日本に伝えられ、明治時代に新しい技法が発明されて盛んになった工芸。 明治のすぐれた七宝作品は、宮内庁や華族の御用達となった一部を除いて、ほとんどが、外貨獲得用の輸出用でした。<つづく>00:10 コメント(2) ページのトップへ 2008年11月15日ぽかぽか春庭「村田家のおたから・七宝展」2008/11/15ぽかぽか春庭@アート散歩>パトロンたちの愛した芸術(6)村田家のおたから・七宝展 K子さんと泉屋博古館で見たのは、村田家のおたから。 コレクター村田理如が長年個人で集めてきた七宝などの工芸品120点が、泉屋博古館に展示されていました。 村田さんは、父親が設立した村田製作所に勤務していました。そのまま勤務をつづければ、お兄さんのように村田製作所の役員社長と進んだのかもしれないのに、美術館館長として工芸品と関わる人生のほうをを選びました。http://www.sannenzaka-museum.co.jp/ 清水三年坂美術館館長、村田理如さんのおじいさんは、陶工でした。 お父さんは、陶器すなわちセラミックの近代産業利用の会社を設立しました。電気や通信にセラミックを応用した事業を発展させ、村田製作所を大会社に育て上げました。 理如さんは、ニューヨークで七宝工芸品に出会い、会社勤めの合間に、世界各地にちらばっていた七宝を収集してきました。 こつこつとオークションに出かけては、ほんとうにひとつひとつ気に入った作品を集めてきた雰囲気が、コレクション全体に、ただよっています。http://www.sannenzaka-museum.co.jp/news.html サラリーマンのコレクションと言っても、創業社長の息子さんなのだから、一般の会社員のようなカツカツの暮らしをしていたのではないだろうけれど、事業家が金儲けをして、金にあかせて美術品収集をはじめた、というのとはことなり、村田さんのコレクションは、展示の作品にコレクターとしての愛着が感じられました。 村田さんが、海外勤務のあいまにオークションなどで集めた七宝は、清水三年坂美術館に常設展示されていますが、今回、120点余りが泉屋博古館に展示されました。 ほんとうに美しい細かい模様の数々。職人の高い志と技法に圧倒されました。 明治時代、日本政府は、「日清日露戦争に勝って、ようやく日本は世界の一流国の仲間入りができた」と思いこんだのですが、西欧諸国にとって、日本とは「浮世絵、工芸品などのすばらしい伝統文化を持った国」として認識され、ジャポニズムの浸透とともにその名を知られる国になってきていました。 「戦争に勝って強い国」ではなく、「繊細な美しい工芸品を生み出せる国」として尊敬を集める国になる方向もあったのに。 いまや、国際関係において「文化度」が、その国の地位を高める最重要な要素になっています。 明治時代に、西欧の人々を感心させた高い工芸の力を生かし、これからは、軍事力などでなく芸術力、文化力を「国力」の指針としてほしいと思います。 しかし、どの工芸も後継者養成が悩みの種。10年15年と続く下積みの徒弟時代に耐えられる若者がいなくなっているので、いろいろ難しいこともあるでしょうが、優秀な工芸職人が育ってくれることを願っています。本日の徘徊ミソヒト七宝の金の輝きこの線に命を賭けし職人の指<おわり>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする