(1)近代絵画にみる自然と人間(2)積み藁と落ち穂拾い(3)藁塚放浪記(4)「ジヴェルニーの積み藁夕日」と「三丁目の夕日」(5)志によって築く藁塚2008/10/01ぽかぽか春庭@アート散歩>田園讃歌(1)埼玉県立近代美術館・近代絵画にみる自然と人間 各地の県立美術館には、その地方出身の画家の絵などが集められていたり、県展、市民絵画展など、地方の特色を生かした展覧会が開かれることが多い。 目玉となる「客が集まる絵」は、だいたい一館に一作くらい。 山梨県立美術館には、ミレーの『落ち葉拾い』がある。 埼玉県立近代美術館には、モネの「積み藁・夕日」がある。 だが、最近はどこも地方財政緊縮のあおりを受けて、「今年度の新作購入は予算ゼロ」という美術館も多い。 2007年秋、埼玉県立近代美術館で「田園讃歌」というテーマの展覧会を見た。(会期2007年10月27日(土)~12月16日(日)。北九州市立美術館、ひろしま美術館、山梨県立美術館の4館共同企画だ。 「田園讃歌・近代絵画に見る自然と人間」 4館の所蔵絵画・写真を集めた企画で、近代絵画のなかで、「田園風景」をテーマにしている。 キュレーターのセンスが展覧会の善し悪しを左右する最近の美術展のなかでも、とてもまとまりのよい、すぐれた作品の集め方がなされていると感じた。 山梨県立美術館所蔵のミレー「落ち穂拾い」と、埼玉県立近代美術館所蔵のモネ「ジベルニーの積み藁・夕日」の2点を核に構成されている。 「田園風景の美」は、近代になって発見された。 「田舎のけしき」なんて、大昔からそこにあったものだ。農業がはじまったときから、農村風景というものは、存在したし、農耕儀礼の絵や耕作収穫の絵は豊饒祈願の宗教絵画として、メソポタミアの時代から残されている。 しかし、その景色を「美の対象」として画家が意識して眺めるようになったのは、農村の時代から産業都市の時代へと移り変わって以後のことである。 マリーアントアネットがベルサイユ宮殿のなかに「プティトリアノン」と呼ばれる「農村のままごと」を行う場所をつくり、自ら農婦の衣裳を着て農村ごっごをした、というころから、ブルジョア層に田園趣味が広まった。 近代国民国家が成立して以後、市民層が絵画を買うようになってからは、かっての宗教画にかわって風景画の購入が喜ばれるようになってきた。 近代とは、「田舎を美の対象として眺める目をもった時代」でもある。 ミレーたちがバルビゾン村へ移り住んだのも、世が「産業都市の時代」へとなっていたからこそ、意味のあることだった。 日本の美術愛好者にとって、ミレーの「落ち穂拾い」は、図工や美術の教科書で眺めてきた「絵画の代表作品」のように感じる作品のひとつだ。リンクは、オルセー美術館所蔵のもっとも有名な作品http://www.asahi-net.or.jp/~hw8m-mrkm/kate/gallery/11.gathering.grain.html<つづく>2008/10/02ぽかぽか春庭@アート散歩>田園讃歌(2)積み藁と落ち穂拾い ミレーの「落ち穂拾い夏」を、一地方都市の山梨県立美術館が購入したと知ったときから、ぜひ見にいこうとと思っていた。 でも、なかなか甲府まで足を伸ばすことはできなかった。 やっと今回見ることができた。http://www.rere.net/museum/yamanashi-museum.html 「落ち穂拾い夏」は四季連作の中のひとつ。四季4連作とは、「ぶどう畑にて春」「落穂拾い夏」「りんごの収穫秋」「薪集めの女たち冬」から成り、いずれも貧しい農民たちのささやかな収穫を描いている。 また、ミレーの「種まく人」は、絵に興味がない人にとってもなじみ深い。岩波書店のロゴマークデザインのもとになったので、多くの人に親しまれている。「種まく人」http://www.pref.yamanashi.jp/barrier/html/kigyo/34955923008.html バルビゾン派から印象派、ポスト印象派(Post-impressioists)へと時代が移っていっても、「外光による自然描写、田園光景」は、主要なモチーフとして絵画を彩った。 ゴッホもミレーの「種まく人」や「一日のおわり」を模写しており、「田園風景」は、この時代の画家たちにとって、大きなモチーフだった。 ミレーが農民を描いた絵も、ゴッホの絵も、私には「宗教画」のような印象がある。 複製画をみるたびに、農作業を行う農民の一日も、それを絵に描く画家の一日も強い宗教心のなかにあるように感じた。 今回の展示の解説プレートで、ミレーの「落ち穂拾い」も、旧約聖書の「ルツ記」の中の詩篇にもとずいたモチーフなのだと知った。 フランスへ渡って近代絵画を学んでいた日本の若い画家たちは、ミレーたちバビルゾン派の絵を、よく模写した。 今回の展覧会でも、和田英作や高田力蔵が、ミレーの「落ち穂拾い」を模写した作品が展示されていた。黒田清輝によるミレーの「小便小僧」の模写もあった。 日本の近代絵画における「農村風景」は、南画など伝統的な日本の絵画の「農村風景」に西洋の視線を取り込んできたもの、という特徴をもつ。 浅井忠らの描く農村風景には、「神への敬虔な祈り」というより、ノスタルジーを呼び起こされる。 明治の画家たちがバルビゾン派にならって描いた農村風景を、いま日本のなかでさがすのはむずかしい。藁屋根の家、小川にうたう水車、夕暮れのあぜ道。目籠を背負う農婦、母に背負われて畑から戻る赤ん坊、みんな日本の光景から消えたもの。 明治の農村はすでに「農本主義」をぶちあげても追いつかない「産業国家に組み込まれる農業」になっており、「失われゆく農村」の悲哀を帯びていた光景に見える。 画家たちのなかには、最初からノスタルジーがモチーフとしてあったのではないだろうか。<つづく>2008/10/03ぽかぽか春庭@アート散歩>田園讃歌(3)藁塚放浪記 今、ヨーローッパにも、日本にも、近代絵画がよきモチーフとした農村光景は残されていない。フランスにモネの描いた夕日に映える「積み藁」はないし、日本に浅井忠が描いた農村風景はない。 展覧会の最後のコーナーは、藤田洋三の写真集『藁塚放浪記』の中に納められた写真が並んでいる。 日本各地の農村の藁塚を撮影した美しい写真の数々。 ワラヅト、ワラニョ、ボウガケ、ワラニゴ、ワラススキ、ワラホギ、チョッポイ、ヨズク、ワラグロ、ワラコヅミなどの、各地方で刈り取った稲藁を束ねて積み上げた塚の呼び名がさまざまある。 名前がさまざまであるとともに、各地方独特の藁の積み上げ方がなされている。リンクは、「ニョウ」と呼ばれていた長野県の藁塚の写真。(撮影者は藤田洋三ではない)http://www.5884atease.com/kanko/nyou/nyou.htm 今、農村地帯でも、刈り取った稲はすぐに人工乾燥工場へ運ばれてしまい、天日干しされるのは、自家消費分のごくわずかなものだけなので、写真のモチーフになるような光景は、めったに見ることができない。 この秋、私が出身地の田舎で目にした「稲架(ハサ)」も、ごくわずかだった。 田圃や稲架の光景、これからは「保存地区」に「観光」で行かない限り、日常風景として見ることはできないのだろうと思う。 太田道灌は現在の東京をながめたら、「家康入府以前の江戸は葦原の武蔵野が広がる光景だったのに」と、嘆くかも知れない。しかし、もはや東京を武蔵野の原野にもどすことはできない。 それと同じように、日本の田園風景が失われたことを嘆いても、では、300年前の日本に戻そうといっても不可能だ。 私たちは「近代」という時代の中に入ったときから、多くのものを失ってきたのだ。 「落ち穂拾い」は、貧しい人々のために小麦畑に麦穂を残しておくようにと書かれた旧約聖書の「ルツ記」の実践風景が描かれている。 落ち穂を拾わなければならない貧しさからの脱却は、「近代産業社会」によって実現された。 今、ヨーロッパで落ち穂拾いをする人を見かけることはむずかしいだろう。 落ち穂拾いの貧しい農民はいなくなった。同時に、落ち穂を分け与えあう人々のつながりもなくなった。<つづく>2008/10/04ぽかぽか春庭@アート散歩>田園讃歌(4)「ジヴェルニーの積み藁夕日」と「三丁目の夕日」 モネが「美しいフランスの田舎」の光景として愛してやまなかった「村の農民たちが総出で積み上げた積み藁に夕日が映える景色」も、フランスの田舎で見ることが少なくなっている。リンクはジヴェルニーの積み藁夕日http://www.saihakuren.org/recommend/oi.php?id=53 映画「続三丁目の夕日」を見た若い女性が「人情があふれていた。人々が夢を抱いて目を輝かせていた。(中略)こまやかで、隣近所のつきあいがあたたかかったあの時代の失われた何かを取り戻したい。経済大国での便利や自由を否定するわけでもない。でも、お金じゃない何かを置き忘れてきたのではないか」と、投書したのを読んだ。 それを読み、実際に昭和30年代に子どもだった私は「今の便利さや快適さを捨てて、あんたらがあのころの生活に耐えられるなら、30年代に戻ってみたらいいやんか」と、思ってしまった。 置き忘れたんじゃない。「経済大国での便利や自由」が欲しかった人たちは、「こまやかな人情や隣近所のあたたかい交流」を犠牲にすることによって、便利さや自由を手に入れたのだ。 「経済成長の代償なのだろうか」と、投書の女性は自問する。 その通りだよ。社会が経済的に豊かになって、社会構造が変化すれば、共同体(コミュニティ)が変化せずにはいられない。 捨ててきたことの痛みを自覚することなしに、「こまやかな人情やあたたかい隣近所」だけ取り戻すことはおそらくできないだろう。 「経済大国での便利や自由」を既得権として確保したまま、「あたたかい人情がほしい」なんて、虫のいい願いはむずかしいのだ。 映画青年牧野光永氏は、「魔女の宅急便」のラストシーンを見て「成長とは何かを失うことなのだ」と、感じ取ったと書いていた。私は、その鋭敏な感受性をよしとする。 所沢に住む投書女性が「隣に住む人の顔も名前も知らず、人とかかわることを避ける時代」を残念に思い、「わすれてしまった『何か』を取り戻したいものだ」と、いうのなら、まずは、ケータイとコンビニとテレビエアコンなしに、西武線も池袋からの地下鉄もなしに1年間暮らしてみて、それから行動を起こしたらいい。 武蔵野の原野はとりもどせないが、人の心は、自分の働きかけによって変わるだろうから。 ムラの農耕共同体は、共同作業で田植えや稲刈りを行い、藁塚を積み上げてきた。 近代産業社会に突入したとき、日本は、その共同体のあり方を変化させつつ継承した。 「ムラ社会」と呼ばれた共同体(コミュニティ)をそのまま産業工場の労働者に応用したのだ。 日本の組合組織は、欧米の「ユニオン」とは、異なる面がある。 ユニオンは、、同業労働者の権利を守るために結成された「資本家との闘争」の組織である。その機能に加えて、日本の「クミアイ」は、「ムラ社会コミュニティ」の代替機能をもっていた。だから、クミアイ主催の運動会に、「家族会」はこぞって参加したのだ。<つづく>2008/10/05ぽかぽか春庭@アート散歩>田園讃歌(5)志によって築く藁塚 世界各国で取り組まれたQC(品質改善・企業改善)運動。だが、欧米で成功した会社は少ない。日本の会社においてのみ、QC(カイゼン)活動が大成功をおさめたのも、「労働者組合ムラ社会」が背景にあったからだと、私は思っている。 「カイゼン運動に費やされる時間も労働時間だから、ボランティアとして行うのではなく、カイゼン運動を行った時間にも賃金を支払うべきだ」という考え方が、カイゼン運動の雄トヨタなどでも言われ出した。企業組合が「ムラ社会コミュニティ」でなくなってくれば、当然出てくる要求だろう。 産業構造が変化し、「企業別単組」のようなクミアイ共同体も機能不全となり、かろうじて残されてきた地方の「ムラ社会共同体」の残滓も、過疎化とともに失われた。 江戸下町の「長屋共同体」的なコミュニティをそっくり移入したのが、高度成長期における新興宗教団体だった。 宗教団体コミュニティは、農村部から都市に流入した「根をそがれたムラ社会住人」にとって、かっこうの共同体となった。今現在、日本で最大のコミュニティは、「学会員一千万人」を擁する宗教団体である。 「ムラ社会」から連続してきた共同体のあたたかさ細やかさが変化したのを嘆いても、はじまらない。 変化した社会を戻したければ、近代社会が築きあげてきたものをくつがえさなければならないということになる。 近代産業社会が作り上げた、教育制度と国防と税によって成りたつ「近代国民国家」共同体が機能不全におちいり、あたたかさとこまやかさを失っているのは確かだが、国民国家共同体にかわるものは、まだ機能をはたしていない。 近代産業社会は、いま、たそがれ。 日中輝きわたっていた太陽を一日の終わりには、だれも止めることができない。日が沈むように、近代社会もポスト近代社会も沈みつつある。 明日、別の新しい太陽は出てくるのだろうが、どのような社会を照らすどのような太陽なのか、わからない。経済学者も情報工学最先端を行く人も、いろんなことを言っているが、わたしにはとんと未来が見えない。 ポスト近代社会を生きていく私たちは、失われた共同体を懐かしがっているよりも、「ポスト近代社会の共同体」を新たに作り上げていくべきなのだ。 地縁血縁によっていた「ムラ社会」の共同体でなく、地縁によっていた「長屋共同体」「労働組合共同体」でもなく、志と希望をともにして歩んでいけるような、志縁共同体。と、いってしまうと、これまでゴマンと出されてきたユートピアになってしまうのだが。 志を等しくしてともに働き収穫し、収穫を分け合って藁塚を積み上げていける志縁共同体を成立させたいと、私は願っている。 藤田洋三の写真集『藁塚放浪記』には、さまざまな形の藁塚の姿とともに、農作業に精を出す人々の笑顔が写されている。 今、日本中でこの収穫の笑顔を見いだす機会は少ない。 「観光農業」や「保存農地」でもなければ、千枚田に藁塚が点々と残される風景など見ることができなくなったのだ。 近代が風景画に描き出してきた農村光景は、近代の終焉とともに消えた。 私たちに「ポスト近代の次」はあるのだろうか。 私は、夕日に輝く積み藁の風景を見たい。 タイやバリ島の田舎あたりにまだ、藁塚の風景が残されているときくが、かの地でもやがては失われていくのだろう。失われる前に見に行こうか。<おわり>
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