2012/12/06
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>音楽映画(3)永遠のマリア・カラス
日本の歌姫が雲雀なら、西欧の歌姫は鴉、とは、女子高時代によく笑ったジョークでした。つまり、オペラなんぞ見たこともない田舎の女子高生でも知っているオペラ歌手がマリア・カラス。LPレコード時代、私が自分のおこずかいで買ったレコードのうち、女性オペラ歌手の唯一の一枚がマリア・カラスでした。
マリア・カラスは1977年53歳で亡くなり、一方ひばりは昭和の終焉とともに1989年、52歳でなくなりました。享年までなにやら不思議な一致をみせた二人です。とはいえ、ひばりが9歳から亡くなる直前まで第一線の歌手として歌い続けたのに対して、マリア・カラスの全盛期は約10年ほど。最初の夫30歳年上のJ.B.メネギーニがマリア・カラスのマネージングを行っていた時期にあたります。
母親との軋轢により過食症になり、メネギーニが初めてマリアを見たときには、体重100kgだったと言われます。メネギーニは、マリアの体調管理からオーディション管理、すべてを仕切ってマリアを一流歌手の仲間入りさせました。マリアの歌手としての成功にメネギーニの管理があったことはまちがいありません。マリアにとって、メルギーニは、父親に匹敵する男性でした。父親は母親と離婚して、家族の元を去っていったからです。しかし、管理を強める夫に、マリアはしだいに違和感を持つようになります。
1959年、夫とともにギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスの招待を受けたマリアは、オナシスと愛し合うようになり、夫のもとを出奔。このとき36歳。声が急速に衰えてきていましたが、マリアは声の維持より恋を優先しました。しかし、メネギーニはなかなか離婚に同意せず、ようやく離婚成立したのは1967年。
マリア・カラスは、1965年頃からさらに声が衰えだし、事実上の引退に追い込まれます。しかし、オナシスにとっては「穏やかに静かに生きるマリア」が必要なのではなく、世界の歌姫として華やかに活躍するマリアが必要なのでした。
マリアが歌えなくなったころから、オナシスは「世界一の歌姫」を手に入れるより、もっと見栄えのする「世界一」を手に入れようと躍起になっていました。世界のファーストレディ、ケネディ未亡人ジャクリーンです。オナシスは9年間愛人として手元においたマリアをあっさりと捨て去り、1968年10月ジャクリーンと再婚しました。ジャクリーンにはオナシスの財力が必要であり、アメリカ経済界進出をめざすオナシスには、元ファーストレディの名声が必要でした。オナシスとジャクリーンは、最初から不和が目立ったふたりでした。オナシスが離婚を決意したあと、手続きに入る前に1975年に死去。離婚寸前とはいえ、ジャクリーンにも莫大な遺産が残されました。(オナシスの実娘のほうが取り分がずっと多かったですけれど)
マリア・カラスは、実母との不和、30歳年上の夫との最初の結婚。大富豪との愛人関係。アメリカ大統領未亡人によって、愛したオナシスと別離。過酷な人生を歩みました。
愛する人に徹底的に裏切られたことから、不眠に落ち入り、以後マリアは睡眠薬依存症となります。晩年の不調、53歳の死、と、これだけ並べてもドラマたっぷりです。2005『マリア・カラス最後の恋』など、彼女を主人公にした映画も作られています。
『永遠のマリア・カラス』は、恋愛問題からではなく、オペラ歌手としてのアイデンティティとマリアというテーマからストーリーが出来上がっています。(以下、ネタバレを含むあらすじ紹介です)
引退同然になりパリに引きこもっていたマリアのもとに、辣腕プロモーターのラリーが訪れます。全盛期のマリアの声で吹き込まれていたレコード音源に、現在のマリアが口パクで合わせて、オペラ『カルメン』を撮影する、という企画です。マリアは口パクに抵抗しますが、ラリーや評論家サラの説得で撮影に臨みます。
このラリーによる『カルメン』製作というエピソードは、オペラ監督としても名高く、カラスの親しい友人でもあったフランコ・ゼフィレッリの脚本による創作です。ゼフィレッリは、カルメンを撮りたかったのだろうなあと思います。カルメンを演じるソプラノを思い浮かべたとき、彼の頭に思い浮かぶのは、マリア・カラス。彼女以上にカルメンを演じられるスターはいない。
マリアは、さまざまなオペラのプリマを演じましたが、このカルメンだけは、コンサート上演はあっても、オペラで演じたことがなく、カルメンを演じたいというのは、マリアの密かな願いでもありました。
紆余曲折の末、華やかなオペラ『カルメン』が完成しますが、マリアはこの映画の公開を拒否します。ラリーは50%自費でまかなった出資金回収をあきらめ、マリアの願い通りカルメンをオクラ入りにします。
映画の中でも述べられていますが、口パクを完全に行うには、それなりにオペラを歌える人が演じる必要があります。本物の歌手としてもカルメンを歌いこなせる人が演じないと、声帯の動かしかたから腹筋の使い方まで、すぐにウソはばれてしまいます。マリア役のファニー・アルダンもマルコ役のガブリエル・ガルコも、その点はプロ歌手が見ても及第点がつけられる口パクだったろうと思います。
実際の晩年のマリア・カラスは。
『永遠のマリア・カラス』でも冒頭に出てきますが、1973年と1974年に来日。1974年にはテノール歌手、ジュゼッペ・ディ・ステファノ(最後の恋人でもありました)と共に、日本公演を行っています。国内4ヶ所でピアノ伴奏によって歌う、ワールドツアーの最後の地が日本でした。マリアの生涯最後の公式舞台が日本だったのです。
映画の中に、マリアが忸怩たる思いで、このときの歌を聞くシーンがあります。日本の「ただ有名人の顔が見たいだけ」の聴衆たちは、マリアの音程不確かな歌にも大拍手を送っています。(東京公演の模様はNHKによるTV収録で残されています)。
このひどい東京公演がマリアの最後の舞台になってしまったのは、本当に気の毒なことです。『永遠のマリアカラス』に描かれたように、口パクカルメンでもいいから、マリアのオペラ舞台が残されていたなら、いいのになあと思ってしまいます。コンサートでのハバネラなどは残っていますが。
マリアの声はドラマティコ・ソプラノ・ダジリタと呼ばれる、ソプラノからメゾソプラノまでカバーし、どの音域の声もつややかに輝くベルカントであったと言われます。その分いっそう喉を酷使し、全盛時代は10年、前後の時代を加えても歌えたのは20年ほどでした。
ひばりの後にも先にもひばりに匹敵する歌謡曲歌手はおらず、マリアカラスの後にも先にもマリアに匹敵するオペラ歌手は現れていません。
映画『永遠のマリアカラス』は、マリア全盛期の音源による『カルメン』を見るだけでも、一見の価値がありました。
『永遠のマリアカラス』というタイトルと紛らわしいですが、黒柳徹子となかにし礼がカラスをめぐって語り合う『マリアカラス永遠の歌姫(ディーバ)』というNHKの番組(2011月10月23日放送)。マリアがニューヨークで最初に受けたラジオ番組で歌った「蝶々夫人」の歌声が記録されています。12歳のマリア・カラスの歌声。
http://www.youtube.com/watch?v=gB63Y69yr8c
この番組の最後、カラスが自ら音楽と愛について語ったことばが残されています。
「一流の音楽とは、ただひとつ完璧な音楽センスのことです。愛も同じ。愛し敬いそれを全うする。決して嘘をつかず、裏切らないこと。愛するというのはそういうことです。」
以上、音楽の秋を楽しんだ音楽映画の紹介でした。
何年の録画かわからないのですが、youtubeにUPされているカルメンより「ハバネラ」を歌うマリアカラス
http://www.youtube.com/watch?v=3rjOrOt6wFw&feature=related
マリアカラスの『蝶々夫人』
http://www.youtube.com/watch?v=mN9Dipgqdtw&feature=related
時間がある方へ、1955年スカラ座での「椿姫第一幕」(昔の録音で音質悪い。30分かかります)
http://www.youtube.com/watch?v=FvpvCYaMgIE&feature=related
<おわり>
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>音楽映画(3)永遠のマリア・カラス
日本の歌姫が雲雀なら、西欧の歌姫は鴉、とは、女子高時代によく笑ったジョークでした。つまり、オペラなんぞ見たこともない田舎の女子高生でも知っているオペラ歌手がマリア・カラス。LPレコード時代、私が自分のおこずかいで買ったレコードのうち、女性オペラ歌手の唯一の一枚がマリア・カラスでした。
マリア・カラスは1977年53歳で亡くなり、一方ひばりは昭和の終焉とともに1989年、52歳でなくなりました。享年までなにやら不思議な一致をみせた二人です。とはいえ、ひばりが9歳から亡くなる直前まで第一線の歌手として歌い続けたのに対して、マリア・カラスの全盛期は約10年ほど。最初の夫30歳年上のJ.B.メネギーニがマリア・カラスのマネージングを行っていた時期にあたります。
母親との軋轢により過食症になり、メネギーニが初めてマリアを見たときには、体重100kgだったと言われます。メネギーニは、マリアの体調管理からオーディション管理、すべてを仕切ってマリアを一流歌手の仲間入りさせました。マリアの歌手としての成功にメネギーニの管理があったことはまちがいありません。マリアにとって、メルギーニは、父親に匹敵する男性でした。父親は母親と離婚して、家族の元を去っていったからです。しかし、管理を強める夫に、マリアはしだいに違和感を持つようになります。
1959年、夫とともにギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスの招待を受けたマリアは、オナシスと愛し合うようになり、夫のもとを出奔。このとき36歳。声が急速に衰えてきていましたが、マリアは声の維持より恋を優先しました。しかし、メネギーニはなかなか離婚に同意せず、ようやく離婚成立したのは1967年。
マリア・カラスは、1965年頃からさらに声が衰えだし、事実上の引退に追い込まれます。しかし、オナシスにとっては「穏やかに静かに生きるマリア」が必要なのではなく、世界の歌姫として華やかに活躍するマリアが必要なのでした。
マリアが歌えなくなったころから、オナシスは「世界一の歌姫」を手に入れるより、もっと見栄えのする「世界一」を手に入れようと躍起になっていました。世界のファーストレディ、ケネディ未亡人ジャクリーンです。オナシスは9年間愛人として手元においたマリアをあっさりと捨て去り、1968年10月ジャクリーンと再婚しました。ジャクリーンにはオナシスの財力が必要であり、アメリカ経済界進出をめざすオナシスには、元ファーストレディの名声が必要でした。オナシスとジャクリーンは、最初から不和が目立ったふたりでした。オナシスが離婚を決意したあと、手続きに入る前に1975年に死去。離婚寸前とはいえ、ジャクリーンにも莫大な遺産が残されました。(オナシスの実娘のほうが取り分がずっと多かったですけれど)
マリア・カラスは、実母との不和、30歳年上の夫との最初の結婚。大富豪との愛人関係。アメリカ大統領未亡人によって、愛したオナシスと別離。過酷な人生を歩みました。
愛する人に徹底的に裏切られたことから、不眠に落ち入り、以後マリアは睡眠薬依存症となります。晩年の不調、53歳の死、と、これだけ並べてもドラマたっぷりです。2005『マリア・カラス最後の恋』など、彼女を主人公にした映画も作られています。
『永遠のマリア・カラス』は、恋愛問題からではなく、オペラ歌手としてのアイデンティティとマリアというテーマからストーリーが出来上がっています。(以下、ネタバレを含むあらすじ紹介です)
引退同然になりパリに引きこもっていたマリアのもとに、辣腕プロモーターのラリーが訪れます。全盛期のマリアの声で吹き込まれていたレコード音源に、現在のマリアが口パクで合わせて、オペラ『カルメン』を撮影する、という企画です。マリアは口パクに抵抗しますが、ラリーや評論家サラの説得で撮影に臨みます。
このラリーによる『カルメン』製作というエピソードは、オペラ監督としても名高く、カラスの親しい友人でもあったフランコ・ゼフィレッリの脚本による創作です。ゼフィレッリは、カルメンを撮りたかったのだろうなあと思います。カルメンを演じるソプラノを思い浮かべたとき、彼の頭に思い浮かぶのは、マリア・カラス。彼女以上にカルメンを演じられるスターはいない。
マリアは、さまざまなオペラのプリマを演じましたが、このカルメンだけは、コンサート上演はあっても、オペラで演じたことがなく、カルメンを演じたいというのは、マリアの密かな願いでもありました。
紆余曲折の末、華やかなオペラ『カルメン』が完成しますが、マリアはこの映画の公開を拒否します。ラリーは50%自費でまかなった出資金回収をあきらめ、マリアの願い通りカルメンをオクラ入りにします。
映画の中でも述べられていますが、口パクを完全に行うには、それなりにオペラを歌える人が演じる必要があります。本物の歌手としてもカルメンを歌いこなせる人が演じないと、声帯の動かしかたから腹筋の使い方まで、すぐにウソはばれてしまいます。マリア役のファニー・アルダンもマルコ役のガブリエル・ガルコも、その点はプロ歌手が見ても及第点がつけられる口パクだったろうと思います。
実際の晩年のマリア・カラスは。
『永遠のマリア・カラス』でも冒頭に出てきますが、1973年と1974年に来日。1974年にはテノール歌手、ジュゼッペ・ディ・ステファノ(最後の恋人でもありました)と共に、日本公演を行っています。国内4ヶ所でピアノ伴奏によって歌う、ワールドツアーの最後の地が日本でした。マリアの生涯最後の公式舞台が日本だったのです。
映画の中に、マリアが忸怩たる思いで、このときの歌を聞くシーンがあります。日本の「ただ有名人の顔が見たいだけ」の聴衆たちは、マリアの音程不確かな歌にも大拍手を送っています。(東京公演の模様はNHKによるTV収録で残されています)。
このひどい東京公演がマリアの最後の舞台になってしまったのは、本当に気の毒なことです。『永遠のマリアカラス』に描かれたように、口パクカルメンでもいいから、マリアのオペラ舞台が残されていたなら、いいのになあと思ってしまいます。コンサートでのハバネラなどは残っていますが。
マリアの声はドラマティコ・ソプラノ・ダジリタと呼ばれる、ソプラノからメゾソプラノまでカバーし、どの音域の声もつややかに輝くベルカントであったと言われます。その分いっそう喉を酷使し、全盛時代は10年、前後の時代を加えても歌えたのは20年ほどでした。
ひばりの後にも先にもひばりに匹敵する歌謡曲歌手はおらず、マリアカラスの後にも先にもマリアに匹敵するオペラ歌手は現れていません。
映画『永遠のマリアカラス』は、マリア全盛期の音源による『カルメン』を見るだけでも、一見の価値がありました。
『永遠のマリアカラス』というタイトルと紛らわしいですが、黒柳徹子となかにし礼がカラスをめぐって語り合う『マリアカラス永遠の歌姫(ディーバ)』というNHKの番組(2011月10月23日放送)。マリアがニューヨークで最初に受けたラジオ番組で歌った「蝶々夫人」の歌声が記録されています。12歳のマリア・カラスの歌声。
http://www.youtube.com/watch?v=gB63Y69yr8c
この番組の最後、カラスが自ら音楽と愛について語ったことばが残されています。
「一流の音楽とは、ただひとつ完璧な音楽センスのことです。愛も同じ。愛し敬いそれを全うする。決して嘘をつかず、裏切らないこと。愛するというのはそういうことです。」
以上、音楽の秋を楽しんだ音楽映画の紹介でした。
何年の録画かわからないのですが、youtubeにUPされているカルメンより「ハバネラ」を歌うマリアカラス
http://www.youtube.com/watch?v=3rjOrOt6wFw&feature=related
マリアカラスの『蝶々夫人』
http://www.youtube.com/watch?v=mN9Dipgqdtw&feature=related
時間がある方へ、1955年スカラ座での「椿姫第一幕」(昔の録音で音質悪い。30分かかります)
http://www.youtube.com/watch?v=FvpvCYaMgIE&feature=related
<おわり>