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ジャンボ春庭「キクユ族の結婚式で居眠り」

2012-12-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/12/23
ジャンボ春庭アフリカ通信>1979年ケニア便り(50)キクユ族の結婚式で居眠り

11月3日
 結婚式に招かれました。キクユ族の結婚式で、YWCAの事務長(ミセス・ジェリダ)の妹が結婚するのです。私は、前にくす玉を作ってお祝いしてあげました。1時開始というので、あせってタクシーで行ったら、これはケニア時間なので、始まったのは、1時半。花ヨメと花ムコの車が教会から帰ってきて、車をかこんで丸くなった女たちが次々とキクユ族の伝統の歌を歌って、祝福します。30分くらい歌っていました。

 しかし、おもしろかったのはここまでで、室内に入ってからは退屈の一言。まず、食事がでました。キクユ族の伝統料理であるイリオ(豆とじゃがいものつぶしたもの)、肉ひときれ、米、バナナ、カップケーキ、コカコーラと出ました。女たちが共同で作ったものです。
 食べ終わると、あとはキクユ語によるスピーチばっかり。たまに歌うと教会の歌。スピーチといっても、日本のようい2時間たつと次の花ヨメ花ムコが入口の外で待っているというのではないので、延々と続くのです。延々なんてものでなく、エンえん延々という感じで、2時から6時まで、出席者の一人ひとりが花ヨメ花ムコにプレゼントを直接手渡してプレゼント品を公開し、一人ひとりが大演説を続けます。女も男も、よくまあしゃべると思うほどしゃべり、いいプレゼントの時は、花ヨメ花ムコといっしょに写真を撮ります。

 おもしろい演説には皆笑い、いい話には拍手がおこりますが、私にはおもしろくもなんともなくて、なんと、途中でいねむりをしてしまいました。(キクユ後はあいさつ程度しかわからないので)となりの席のおばあさんに起こされました。
 ベッドと柱時計が一番いいプレゼントで皿やらナイフやら籠やら、お金の人もいました。6時にようやく終わってほっとしました。

 夜はヒルトンホテルで、ルオー族の踊りを見ました。あとで、控室へ行って、衣装をつけさせてもらったりしました。腰みのです。

11月4日
 ひっこしをしました。YWCAが年間契約の人でいっぱいになったので、日払いの旅行者は追い出されたのです。
 郊外のルルの家に間借りしました。ルルというのは、真珠という意味だそうです。2歳の女の子と三カ月の赤ん坊の母親です。夫のブランディンは、会社の不景気で自宅待機になり、ケリチョへ仕事を探しに行っています。家は、ほんとうは、社宅なんだけど、ないしょで貸し間にしています。

 へやは10畳くらいで、ベッドといすひとつ貸してもらいました。台所は自由に使ってよくて、自分で日本食を作ったりできます。おしょう油や味の素は高いけど、売っています。片栗粉はありません。

 11月5日からナイロビ大学の夜間英語スクールに通います。せっかくのことだから、英語など一丁前に喋れるようになって帰ろうというわけです。月謝は、三千円ですから、日本の英語学校より安上がりの計算。みち子の同僚の協力隊員の田村みゆきさんが別のクラスにいます。
 したがって、旅行通信は、これで終わり。
 これからは、毎日英語のことばかり書いても仕方ないので、休信。
 ジーパンは届いてないようです。お金は足りています。手紙は日本インフォメーションセンターに出してください。お父さんにはうまいこと行っておいてください。(別に帰りを待っているようでもないけど)

 ナイロビの町中は、今、選挙のポスターだらけですが、ひとつおもしろいのを見ました。コマーシャルポスターですが、サンヨー電気の広告です。
 こちらの戦況ポスターには「ジュー!カマウ!(カマウを上げろ)」とか書いてあります。サンヨーのは「ジュー!サンヨー!サンヨーは、選挙後のアフターサービスもする」というのです。ケニアでも候補者が選挙後には公約なんかわすれてしまうのは、日本と同じらしく、選挙後もアフターサービスをするというのは、強烈な皮肉になっているわけです。

 日本のニュースは、選挙のことと台風のことがちょっと載って以来、何の記事もありません。してみると日本にとりたてて大ニュースはないわけでしょうね。

 私は、もうナイロビの顔役になって、いつも一皿135円のサラダをお昼に食べにいく店では、私が入っていくと、サラダのもりつけをはじめています。この間は、お金がなかったので、「おひるすぎに銀行へ行って、ドルをケニアシルに換えてくるから、今は貸しにして食べさせてくれ」と言ったら、「OK、OK」と言ってくれました。

 でも、本当にナイロビはちっぽけな町です。博物館のちっこいのがひとつだけで、美術館はないし、デパートはないし、もうディスコもあきたし、英語の映画はわかんないし、楽しめる場所はゼロです。
 東京というのは、ゴミゴミしているといつも文句を言っているけど、世界一退屈しない町だと感心しています。
 ナイロビに一生住む人には別段、これはこれで満足できるのでしょうけど。
 それから、日本の主婦は、三食ひるねつきとはいえ、よく働くもんだと思います。(こちらの都会の主婦に比べれば)母親は、子供のあそび相手をしないので、子供はいつも退屈しています。子供同士でもあまり遊ばないし、ケニア子供は退屈の塊。
 では、またね。


<つづく>

もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/12/23
 
 「11月5日からナイロビ大学夜間スクールで英語を習う」と手紙に書いたのですが、習いに通った記憶はありません。たぶん、父親に「年内に帰国せよ」と言われて、帰国しないための、何かもっともらしい言い訳をしなければならず、「英会話に熟達すべく、学校に通う」という大義名分を思いついたのだろうと思います。従妹のみちこから、同僚が通っている英会話学校の話をきいて思いついたことでしょうが、この英会話学校の申し込みを正式にしたのかどうかも覚えていないのです。たぶん、してない。

 私の英会話は、下町の人々とのブロークンイングリッシュでの会話でしたから、このころから33年たっても、いまだに「完全にぶっこわれた英語」を授業でも使っていて、文法めちゃくちゃ発音はケニア式(すなわち開音節5母音の日本式英語と同じ)です。だいたい、三単現のSとかいう文法が不合理です。私が愛するとLOVEで、彼が愛するとLOVESと、変えなければならない理由はない!!(これを言い出すと、愛するの否定形は「愛するない」でいいじゃないかどうして「愛さない」と変えなければならないのだ、と、日本語学習者に逆襲されますが。)

 1979年11月、私はナイロビの町の郊外で、プールで泳いだり、一日中本を読んですごしたりという無為徒食の日々をすごしました。あとさきのことは何も考えず何事にもわずらわされず、ノンビリと過ごせた日々はこのときのほかにないと思うので、一生のうちに、この「なんにもしない日」があって、よかったと思っています。ずっと働きヅメ人生でしたし、他の時期の「何者でもなく、何もしない毎日」は、不安や焦燥感のあるものでしたから、何も思い煩うことなく何もしないで過ごせた時間は、貴重でした。

 スワヒリ語は、9か月のケニア滞在のうちには上達しましたが、日本に帰国後はいっさい使うことがなかったので、もうすっかり忘れてしまいました。
 「演劇人類学、舞踊人類学の現地調査」というふれこみで、ボーマスオブケニアでアフリカンダンスを習ったのも中途半端の尻すぼみになりましたし、私のケニア滞在は、ただ「楽しくすごした」というだけで終わりました。
コメント (2)
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