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ぽかぽか春庭「東博シンポジウム山本作兵衛」

2013-04-14 00:00:01 | エッセイ、コラム


2013/04/14
ぽかぽか春庭@アート散歩>山本作兵衛炭坑記録画(1)東博シンポジウム山本作兵衛

 2月9日に、東京国立博物館平成館講堂で、「山本作兵衛シンポジウム」がありました。
 応募葉書で申し込みをして、聴講することができました。主催は東博と田川市石炭歴史博物館です。

 2011年に、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が「世界記憶遺産」として登録されてから、コレクションの展示を心待ちにしていましたが、なかなか展覧会が開かれませんでした。
 今回のシンポジウムで、田川市博物館の方針で、作品保護保存を優先し、展覧会はあとまわしにした、ということがわかりました。町おこしなどに活用したかったでしょうに、賢明なことだったと思います。

 これは、東京練馬のいわさきちひろ美術館でも説明がなされていましたが、紙の保存に関わることです。コウゾやミツマタを原材料として伝統技法で作られた古代の紙は、千年たっても劣化が少ないのに対して、19世紀後半から20世紀にかけて普及した洋紙類はほとんどが酸性紙で、絵の具のノリのよい「画用紙」が安く大量に学校教育用から画家の使うスケッチブックまで使われました。

 酸性紙が50年から100年ほどでボロボロに劣化し崩れてしまう紙だったことがわかってきたのは、1970年代からで、日本で中性紙に切り替える動きが出てきたのは、ようやく1980年代以後のこと。すなわち、1850年から1980年ごろの間の紙は、早晩劣化しぼろぼろの粉のようになってしまう。

 いわさきちひろが使っていたスケッチブックも、山本作兵衛が1000枚の炭坑画を描いた画用紙も、酸性紙であり、日光などにさらされるとたちまち劣化してしまう。いわさきちひろ美術館に展示してあるのは、この問題を断った上で、ほとんどがコロタイプ印刷によるレプリカ(複製画)でした。
 東博平成館のロビーに展示されてた炭坑画も、ほとんどがレプリカでした。

 私は、精巧なコロタイプ印刷による水彩画複製画は、原画と同じように鑑賞できると感じています。版画が1枚目と2枚目がまったくの同一ではなくても、同じように鑑賞できるのと同様に、水彩画は複製であっても、一般の人が見るのには十分鑑賞にたえます。絵の具の盛り上がり、タッチなどが微妙になる油絵では複製画は原画の迫力に勝ることが難しいでしょうが、山本作兵衛の炭坑画にとって、「オリジナルの原画ではないから、作兵衛の絵の魅力が減じている」とは思いませんでした。複製であっても、これから積極的に人々に見てもらいたい作品です。
 
 世界記憶遺産は、ユネスコが「人類が長い間記憶して後世に伝える価値があるとされる書物などの記録物」を選定しているものです。
 日本で最初に記憶遺産として登録されたのは、田川市と九州大学が保存している炭坑画でした。2011年5月、日本最初の記録遺産として大きく報道されました。以来、作品の保護保存がはかられてきました。

 山本作兵衛。50年間炭鉱夫として働いた炭坑での労働の日々を、正確な絵と文章で再現しています。絵の専門的な訓練を受けていない人の手による、「プリミティブアート」のひとつと言えるのかもしれません。作兵衛の絵には、専門的な絵描きが絵のわざを駆使して描いたのとは異なる魅力が感じられました。
 作兵衛の絵には、実際に炭坑の中で生きた人にしか描けない、圧倒的なリアルかつあたたかい、人間の真実を見つめる目があります。すばらしい絵です。

 作兵衛は、1892(明治25)年に、福岡県で生まれました。小学校に入るとまもなく、作兵衛も7、8歳のころから兄とともに、炭車押しなどの構内作業に携わり、家計を助けながら小学校を卒業しました。

 初めて絵を描いたのは、弟の初節句に送られた加藤清正の兜人形写生したときのこと。貧しい一家に絵の題材になるものはほかになく、くり返しこの人形の絵を描き続けたそうです。尋常小学校を卒業したのち、絵を描く仕事がしたいとペンキ屋に奉公したこともありました。しかし、丁稚奉公は年期があけるまでは給金は無し。弟妹を抱えた一家の家計を助けるために1906(明治39)年、15歳のときから炭鉱夫として働き続け、1955(昭和30)年に田川市位登炭坑を閉山によって退職するまで50年間にわたって、15の炭坑を渡り歩く生活でした。作兵衛は63歳まで、ひたすら炭坑で働き続けたのです。
 50年にわたる炭坑の仕事。九州の炭坑も次々に閉山となっていきました。

 作兵衛の生活に絵筆が戻ったのは、1958(昭和33)年のこと。65歳の作兵衛は、1957年から、田川市弓削田の長尾鉱業所本事務所の夜警宿直員として再び働き出しました。
 夜間警備の仕事。巡回の合間、警備室でじっとしていると、マラッカ海峡の海戦で戦死した長男のことばかり思い出されて、つらい夜が続きました。1年もたったころ、気を紛らわす手すさびとして思いついたのが、炭坑時代を記録に残すことでした。



 作兵衛は自筆年譜にこう書いています。
 「ヤマは消え行く、筑豊524のボタ山は残る。やがて私も余白は少ない。孫たちにヤマの生活やヤマの作業や人情を書き残しておこうと思い立った。文章で書くのが手っ取り早いが、年数がたつと読みもせず掃除のときに捨てられるかもしれず、絵であればちょっと見ただけでわかるので絵に描いておくことにした。」

 東京国立博物館でのシンポジウムでは、作兵衛の業績を短くまとめたビデオが放映されましたが、その中に一冊のノートも写されていました。尋常小学校へ通うにも、炭坑の仕事をしながらの通学であった作兵衛が、炭坑の記録を書くために、漢和辞典を丸ごと筆写して漢字を覚えるためのノートでした。生真面目な筆跡で一字一字書き写しているノート、ほんとうに頭の下がる努力の跡でした。

 元々、人に見せるつもりはなく、自分の過ごしてきた炭坑の生活を孫に伝えるための記録でした。3年の間に、絵と文章を描きこんだスケッチブックが15冊にもなりまいた。

 昭和36(1961)年冬この炭坑記録画に目をとめたのが、長尾鉱業所会長の長尾達生です。2年後、300枚の炭坑記録画のうち140枚の抜粋が『明治・大正炭坑絵巻』として自費出版されました。墨で描かれた絵と文章による記録でした。自費出版であるし、衰退産業である炭坑の記録に目を向ける人も少なく、中央にはほとんど知られることがありませんでした。

<つづく>
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