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ぽかぽか春庭「グルシェは母か否か・コーカサスの白墨の輪」

2013-04-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/04/25
ぽかぽか春庭感激観劇日記>演じられた母たち(5)グルシェは母か否か・コーカサスの白墨の輪

 東京ノーヴイ・レパートリーシアターの「コーカサスの白墨の輪」演出は。
 舞台上手に物語の語り部がいます。男の語り部が鉦や太鼓を打ち鳴らしながらストーリーを展開させていき、あとひとりの女の語り部は、人形が演じるミハイルの声も担当していました。もうひとりの女語り部は三味線を弾く。この演出は、この物語が観客の目によって判断される「叙事的演劇」である、という効果を出す、という試みだと思います。

 恋人のシモンはグルシェが気高い母性愛の持ち主であることを理解し、ともにミハイルを育てていこうと力強くグルシェに語りかけて物語は終わります。
 そのあとは、出演者総出のフィナーレで、グルジアンダンスを全員で踊ります。K子さんは、「あなた、ダンス好きだからいっしょに踊りたくなったでしょ」と、笑っていました。楽しいダンスでしたが、私は、「わぁお、今回も出演者の数のほうが観客の数より多いかしら」と、そればかり気になってしまいました。

 下北沢にある劇団ノーヴイ・レパートリーシアターの定席は、客席26というマイクロ劇場なので、フィナーレに役者が並ぶと、観客数とたいして変わらず、スタッフをいれたら、これで、モトがとれるのかしらと心配になるくらい。シアターXの席数、最大にすると300まで広げられるところを、椅子にシートかぶせて100くらいになっていました。そこに50くらいは客がいたかしら。出演者は25人くらい。うん、観客の方が多かったわ。よかった!

 気はやさしいが、分別はあまり持ち合わせていなかったグルシェという娘が、血のつながりもなく、育て上げる義理もない赤ん坊を拾って育てるうち、貧困、飢え、周囲のさげすみ、ついには愛のない結婚を選択せざるを得ないという事態にも陥ってしまう。恋人を裏切る苦しみみも味わいながらも、母としての成長を遂げていく。
 未婚のまま子を育てているゆえ、兄嫁らのさげすみの視線も受けたグルシェ。食べるにも事欠いたグルシェ。グルシェは自らの闘いのなか、母となっていくのです。

 最後は、シモンと、「血のつながりはなくても愛に満ちた家族」を成就させるグルシェ。自分自身の力によって、周囲の圧力に立ち向かい、自分自身で正義を勝ち取っていくグルシェ、という人間像をくっきりと描き出した、という点で、ノーヴイ・レパートリーシアターの演出、役者はとてもよかったと思います。

 女手一つで、喰うや食わずで子を育てていく苦しさつらさ、しかし、それゆえの母としての誇りやよろこび、それをここにいる観客のなかのだれより味わってきたと自負できる私には、グルシェが最後に我が子を手放さずにすんだ裁判結果は、大岡裁判を知っていてもなお、ああ、よかった、と思えて、ラストダンスシーンの祝祭気分は盛り上がりました。

 ブレヒトによって描かれる女性が「無償の愛をささげる母性」「性を昇華して戦う聖少女ジャンヌダルク」「男に無限の愛を感じさせる聖なる娼婦」の3パターンしかなく、母が従来の母性神話から一歩も出ていかないことの不満、というのは、近年のブレヒト批判の常道なのだそうですが、ジェンダー理論による演劇批判というのもひとめぐりした感のある昨今、ブレヒトも違う目で見てもいいんじゃないかしら。

 東京ノーヴィの劇のなかで、グルシェは成長します。裁判の過程で、ミハイルといっしょにすごした時間が自分にとっての幸福であったことを、グルシェは自覚しています。彼女は、たよる男もいないなか、自分自身で自分の幸福を築き上げた。この幸福を「従来のジェンダー役割を一歩も出ていない」などと批判されてしまうと、「子とすごした時間が私の幸福」という考えから一歩も出ないですごしている私など、ほんとショーモナイ母親だということになってしまうので、ここは単純なブレヒト批判のほうこそ、蹴っ飛ばしておきましょう。

 母親が、「我が子とすごした時間こそ我が人生の幸福」と言って、何が悪い、ふん。
 いや、誰からも悪いっていわれていないですけど。

 「コーカサスの白墨の輪」で、グルシェが裁判で思いの丈を述べます。
 アツダクはグルシェに「お前が母と名乗ることをあきらめて、領主夫人に渡せば、あの子は莫大な遺産を受け継いで、幸福になれるのだ、おまえはミハイルの幸福を望まないのか。貧乏な母と共にいて幸福だと言えるのか」とつきつけます。
 そのときのグルシェの台詞。「いくらお金持ちになっても、真の愛情のない人生は不幸である」と、グルシェは訴えます。

あの子が金の靴をはいたら、その靴であたしたちをふんでゆくでしょう。
悪いことをするようになり、あたしたちをあざ笑うようになるでしょう。
石の心臓をだいて毎日をくらす、そんな不幸な一生をあの子はおくるのよ。
自分が飢えることはおそれても、光を恐れることを忘れるでしょう。
あの子が金の靴をはいたら・・・


 何の考えも持っていなかった台所女中のグルシェは、子育ての間にしっかりとした人生観幸福観を心に育てていました。どんな大金持ちであっても、真にミハイルを愛する人がいない中にいたら、ミハイルは幸福にはなれない。人生の真の幸福をはっきり悟った母に成長していました。
 そして、巨大な権力を持つ領主夫人に、徒手空拳で立ち向かったのです。グルシェの武器は、育てた愛し子への愛情のみ。

 アツダクは、ミハイルを白墨の輪の中央に立たせ、両手をグルシェと領主夫人に引かせます。痛い痛い、おかあちゃん、手が痛いよう、と泣き叫ぶ幼いミハイルの手を離してしまうのは、真に子を思う母の心。
 「人間らしく生きることは危険だ!それでも生きる事を恐れるな」という演出意図どおりに、グルシェは、ほんとうに人間らしい母のこころを表すことを恐れず、我が子を失ってしまう取り決めの行動をとりました。
 
 アツダクは、この裁判のあと、いずれへともなく姿を消したと、語り部はうたいます。この演劇が日本で好まれるのも、日本人は大岡裁判が大好きだし、母モノが好きだからですけれど、母は強しされどその手はやさし、という見応えのある劇として、これはこれで大団円。

 たった一人で、権力者の領主夫人に立ち向かったグルシェの行動を、観客たちは果たして我が身のことして受け止めたのでしょうか。ブレヒトの異化作用によって観客になんらかの価値観の反転をもたらしたのなら、観客たちは「大切なものを守るためなら、巨大な権力にたった一人で立ち向かう勇気」をグルシェに見いだして、明日からの「巨大な力」との闘いに立ち向かう力を得たことでしょう。

 もし、「長いものには巻かれろ、お上のいうことには従え」「政府が原発が必要だというなら、存続させよう」「沖縄に基地を置くことが国の安全というなら、そうなんだろう」と巻かれたまま「我が身だけの安全安心」を考える生活を続けるなら、たぶん、この演劇を見たことは「ひとときの安逸」を楽しんだだけの「劇的演劇」だったということになるでしょう。ブレヒトの理論ならそうなります。
 私は、グルシェの闘いを見た観客は、大切なものの真の幸福のために、「もの言うこと」を恐れない行動があることに、共感してフィナーレの拍手を送ったと信じます。

 わたし?巻かれないですとも。
 そして、ナリだけ大きくなってもパラサイトを続けている私の「大切なタコ」たちのために、老いた母、明日も食い扶持稼ぎに働き続けます。ナンダカナァ烏賊作用?


<つづく>
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