2013/04/17
ぽかぽか春庭@アート散歩>山本作兵衛炭坑記録画(3)東京タワーの山本作兵衛展
3月18日、東京タワーに行きました。展望台に上がるためではありません。1階の特設会場で「世界記憶遺産の炭坑絵師山本作兵衛展」が東京タワー開場55周年記念として開催されていたからです。読売新聞と東京タワーの共催です。
http://www.tokyotower.co.jp/55/index_05.html
最初のコーナーは、10点の水彩画複製画。次に、59点の原画水彩画と山本作兵衛の遺品。炭坑の写真などから構成されていました。先に感想を言ってしまうと、山本作兵衛展としては、少々物足りなさ感がありました。東京国立博物館の講演会のとき見たときのほうが感激があったのは、会場に田川市からやってきた人々が絵の解説ボランティアをやっていたりして、熱気があったからかも知れません。
ただ、東博ではとても混み合っていてゆっくり絵を見ることは出来なかったのに対して、月曜日の東京タワーは観光客も少ない日なので、一枚一枚、時間をとって見ることができてよかったです。
出品目録も置いてない会場なのに、レプリカについても、写真撮影は禁止。
招待券で入ったときは図録を買うけれど、今回は入館料1200円払ったので、図録は買いませんでした。田川市石炭・歴史博物館編集の絵はがき10枚セットを買いました。500円。
作兵衛は1000枚の炭坑記録画を描きましたが、繰り返して何枚も同じ題材を描いたことがわかるよう、同じテーマの作品が並んでいるコーナーがあり、作兵衛の画業の一端を知るためによかった。炭坑共同風呂場の絵が5点同じ題材で並んでいました。写真の左右裏焼きのように、左右逆になっている絵もあり、作兵衛は記憶の中の炭坑の労働と人々の生活のようすを、何度も反芻するように描き出していたということがよくわかりました。男女混浴をだれも気にもとめずに入っていたのがわかります。
炭坑の共同浴場。絵はがきを写真にとってのUPなどで、色具合が原画とちょっとちがうけれど。
ユネスコは、選定登録の条件として、世界記憶遺産になった絵などを広く公開することを求めています。
田川市石炭・歴史博物館も、インターネットミュージアムとして作兵衛炭坑画を見られるサイトを設けてありますが、残念ながら、このサイトの絵は小さすぎて、文字が読めません。
作兵衛は、はじめは文字記録だけしていました。しかし「孫やひ孫にとって、文字だけでは面白くなくて、自分の死後捨てられてしまうかもしれない。絵があればわかりやすくて、後代になっても見てもらえるだろう」ということで66歳から絵を描き出したのです。ですから、作兵衛としては、炭坑の絵と文字は一体となった記録であったはず。
田川市が、文字も読み取れるような大きなネットミュージアムにしてくれることを希望します。せっかくの記憶遺産、広く大勢の人に見て欲しい。
絵を描きながら、作兵衛は「自分の絵は記憶しているまま真実を描いているけれど、ひとつだけ、嘘がある。炭坑坑道の中は、暗くて絵に描いたように明るく見えることはない。でも、真っ暗の画面じゃわかりにくいから、人も石炭もはっきり見えるように描いている」と述べています。
「後世の人に炭坑の真実を伝えたい」という作兵衛の心を感じとりながら、東京タワーの足下に並べられた絵を一枚一枚、心して見て行きました。
作兵衛は明治から昭和までの炭坑を経験した人ですが、「昭和の記録は写真があるから」と、主に明治大正時代の炭坑の記憶を絵に残しました。
東京タワーが建った1958年という年、まさに山本作兵衛が炭坑画の作画をはじめた年にあたります。日本の敗戦からの復興を象徴し、人々の希望を表すように空高く見上げる存在だった東京タワー。同じ頃、炭坑は衰退へと向かい、山は次々に閉山していきました。
作兵衛は、1975年に筑豊炭田がすべて閉鎖となったのも見届け、1985年に92歳で亡くなりました。
これから、絵の保存方法については、いろいろ手立てが施されることでしょう。画集やレプリカでいいから、たくさんの人に作兵衛の画業を知ってほしいです。
展望台、上がるかどうかちょっと迷いましたが、18日は炭坑画だけにして、夕暮れのなか、タワーを見上げながら帰りました。
<おわり>