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ぽかぽか春庭「お盆介護」

2013-08-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/08/28
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記8月(4)お盆介護

 盆の入り13日は郷里に帰省し、両親と姉の眠る墓にお参り。
 しかし、今年のふるさとの盆は墓参りがメインではなく、母の弟、「駅おじさん」一家のもめごと仲裁が主要な用事でした。

 こどものころの夏休み、海に行くにも東京へ行くにも、我が家は駅おじさん一家といっしょにでかけました。駅おじさんの持つ「国鉄家族パス」に便乗するためです。おじいさんたち留守番の人の分の家族パスを使わせてもらって、父や姉私も家族パスで出かけたのです。JRになった今はチェックが厳しくなったことでしょうが、50年以上も前は、知り合い同士で家族パスを貸し借りするなんてことも行われていたみたい。(もう時効ですよね)一般的な親戚のおじさんという以上に、駅おじさんは我が家にとって親しい存在でした。

 長男が農業を継ぐから、三男の駅おじさんは国鉄に入って独立する予定だったのですが、長男が戦死したあと、駅おじさんが母の一家の後継ぎになりました。駅長職を退職した後は運輸会社に再就職し、農作業と農家の伝統行事を守ることとの両立をはかってきました。再就職先も退職してからは、市の「シルバー技能者」に認定されて、地域の人々に「正月飾りのつくり方」などを指南する伝統技能保持者として活躍してきました。今年は90歳。

 数年前から認知症の兆候があったようですが、周囲の人は「これほどしっかりとしていて、人にものを教える立場でいる人なんだから」と、認知症の診断を受けることを保留していました。本人もプライドがあって、自分の物忘れを認めないでいるうちに一気に認知症状がすすみ、ことしの4月に家を離れてグループホームに入所しました。

 ここから「嫁に行った長女と次女」vs「あとを継いだ長男と嫁」が、「父の介護」をめぐって大対立の様相になりました。
 長女次女は、長年築き上げた家を出されて、グループホームに追いやられ、「家に帰りたい」と泣く父親が、不憫で仕方がない。「兄嫁はグループホームにも顔を出さない」と、不満です。兄嫁は「嫁に出たものが、うちのやり方に口を出すな。もう、この家の敷居をまたがせないから、実家などと思ってくれるな」という、世間によくある対立となりました。

 駅おじさんは長く仕事を続けて、年金も一番有利にもらえた世代です。広い土地や家屋敷の財産のほか、貯金もたくさんある。長女次女は「お父さん名義の貯金は、葬式代を除いて、すべてお父さんの介護のために使い切って欲しい」と主張します。兄嫁は「実家の貯金を何に使おうと、嫁に出たものが口出しするな」という主張。肝心の長男は嫁と妹の間をさばけない。

 いとこたちのうち、駅おじさんの長女とは、30余年前にいっしょにケニアですごした仲で、私もいろいろ世話になった義理もあるので、彼女は私を「自分の味方」とみなしていっしょに兄嫁を非難してくれるものと決めていました。しかし、老人介護をめぐっては、私も一方の味方をすることはできません。毎日をいっしょに暮してきた兄嫁ひとりを悪者にもできません。

 駅おじさんの嫁は「お父さんがグループホームに入ってから、私はようやく肩の荷がおりて、ほっとしている。家に戻って欲しくない」といいます。駅おじさんは家長意識の強い人で、嫁として長年仕えてきた苦労もわかるのです。

 戦地で苦労し、終戦後は働きづめで長年苦労してきた父親の老後が、これじゃあんまり惨めでかわいそう。父が笑顔で余生をすごせるよう、父が貯めたお金は全部父のために使い切って欲しい、という長女次女の気持ちもわかります。 

 そこで、私、妹のモモ、横浜の叔父夫妻が間に入って仲裁することになりました。互いに怒鳴り合う激しい応酬の末、これまで介護を一手に負わされていた次女の苦労も汲み取って、長男、長女、次女が平等に介護を担うこと、月に一度はグループホームから実家に戻ってくる日を設けること、などを取り決め、メモに書き入れて収まることになりました。

 しまいに、いとこは「モモちゃんちは三人姉妹で仲良くて、老人介護も仲良く担っていたから、そういうもんだと思っていたのに、嫁が関わるとダメだわ」と嘆きます。
 我が家の場合、三女の妹がサザエさんち方式で父といっしょに住んでくれていました。嫁に出た私と姉は、私が仕事の休みの土日、姉が美容院定休日の火曜日、あとは妹にまかせてローテーションで父の最後の入院生活を支えました。もめるほどの財産もないので、父といっしょに住んだ妹が家と家作アパートを相続し、姉は結婚後に父に家を建ててもらったからそれが生前贈与の分。私は物置ひとつもらって終わり。もめることはありませんでした。
 三姉妹仲良くすごせたことが、父にはなによりの孝行だったと思います。

 「リゾート特別快速やまどり号」に乗ってふるさとへ行きました。


 8月15日は、姑の家にお盆参り。前日に電話すると「暑いから、昼間こないで、夕方来るように」と姑が言うので、日が傾いてから娘息子と出かけました。
 姑の目下の課題は、2階と3階の窓にカーテンをつけたいということ。2階の窓にはブラインドがあるのですが、これが気に入らず、ブラインドではなくてカーテンがいいというのです。日差しを遮るためにはブラインドでもカーテンでも同じだと思うのですが、縦に開け閉めするのは好みに合わないのでしょう。

 娘むすことメジャーを持参し、窓の横幅縦の長さを図って、ホームセンターでさがすことにしました。姑がカーテン生地を見に行った専門店では、注文あつらえしか扱っておらず、窓ひとつ分のカーテンが4万円するといって憤慨していました。
 「昔は、家のカーテンなんぞ、全部ミシンで家で縫ったものなの。こうやってひだをとって」と、紙を折り曲げて実演する。「でも、もうミシンを出してくるのもおっくうになってしまって」と、なんでも家のことは手作りした昔をなつかしんでいます。

 我が家では「山形のだし」と呼ばれる郷土料理を、生協の既製品を買って食べています。きゅうり、みょうがなどの夏野菜を細かく刻んでしょうゆなどで和えたもので、うちでは豆腐にのせていただきます。でも、姑に言わせると、「最近じゃ、だしを市販品で間に合わせるうちもあるって聞いたけれど、だしってのは、その家その家の味があるんだもの、あんなもの料理のうちにもはいりゃしない、買って食べるもんじゃない」というのです。我が家で市販品のだしを買ってすませていることは姑にはないしょです。

 昔、実家の母も「糠漬けをスーパーで買う人もいる」と、驚いていたことがありましたが、今、私も糠漬けをビニールパック入りで買っています。
 時代の趨勢とはいえ、カーテンも既製品。セーターも靴下も既製品。しかたないことなんだろうなあと思います。「なんでも手作り」をした時代を必死に家族のために働きとおした姑を思いやりつつ、姑のカーテンはホームセンターで買ってこようと思います。

 火を使うのもたいへんな暑さの猛暑日、夕食はスーパーのパック入り握りずしにしましたが、「おいしい」と言って食べてくれたので、まずはよし。
 山形の親戚の○○ちゃんと○○ちゃんは仲がよくない、という話をきいて、その○○ちゃんのどちらも、私は一度もあったことのない親戚で、だれやらわからない人なのだけれど、姑が話したいことなのだから、謹んで承りました。

 去年の夏は暑さにやられて元気がなかった姑。今年は口うるさく「水飲んだか、冷房入れたか」と、こまめに気遣うようにしています。健康番組で老人の熱中症の話をしていました。老人は、自分ではのどがかわいた気がしないので飲まないでいて、体中の水分が不足してしまうそうです。
 顔を合わせるたびに「お茶のめ、水のめ」というので、うるさく思っていることでしょうが、嫁というのは、どうぜ何をしても不満に思われる存在なのだから、気にしません。

 88歳の姑、去年の夏に比べると、今年はずっと元気なのがなにより。今まで山のようなサプリメントをとっていたのですが、「これが一番効果があるから、これ一本にした」と、サプリメントを一種類だけにしぼったので、それもよかったのかと思います。健康おたくで、健康にいいことはなんでもやってきた姑。カスピ海ヨーグルトにはまっていたときは、ポットで手作りしていたし、どくだみ茶がいいと聞けば、せっせとどくだみの葉を乾燥させてお茶にしていました。夫に「おかあさん、昔、紅茶きのこっていうのを作って飲んだでしょ」と、聞いてみたら「ああ、そんなこともやっていたなあ」といいます。今でも紅茶きのこを健康食品として飲用している家庭あるのでしょうか。

 カーテン、娘と息子がホームセンターで注文して、取り付けはふたりで仕上げました。娘と息子は「お父さんは、おばあちゃんになんにもしてやらないんだから」と憤慨しますが、姑にしてみれば、なんにもしないタカ氏がいちばん大事。

 今は、土曜日のデイケア体操教室がなによりの楽しみです。どんな体操をしているのか、再現して見せてくれるのがかわいらしい。
 私も、この夏はいままで経験したことのない蕁麻疹の症状で苦しみました。お互い一病息災ながらなんとか過ごせているのが何より。

 姑88歳。駅叔父さん90歳。
 子供の頃から病弱だった妹モモも、来年には還暦をむかえます。みな、戦後のもののない時代を必死に生き働きづめの親を見て「早く大人になって働いて、親に楽させてやりたい」と思って今日までがんばってきた世代です。私とモモは親にあんまり楽もさせないうちに死なれてしまったけれど、従姉妹は、駅おじさんの余生が少しでも笑顔を見せられる毎日であってほしいと願って、必死だというのもわかります。

 モモは、従姉妹にたのまれ、昔のアルバムを家から持ってきて、おじさんに見せていました。「兄嫁が家に入れてくれないので、アルバムをどこにしまったのかもわからない。同じ写真がモモちゃんちにあるでしょう。お父さんに昔を思い出すように古い写真を見せてやりたいの」と、いとこは言うのです。

 「ほら、海で撮った写真。これが駅おじさん。若いねぇ。くじら波海岸につくまでに、トンネルいくつ越えたっけね。窓を閉めないと、蒸気機関車の煤で顔が真っ黒になったけ」と、妹といとこが昔話をしていました。

 古いアルバムのセピア色の写真。波の音が聞こえます。家族パスでみなで行ったくじら波海岸。駅おじさんが休暇をとれるお盆あとの時期は、日本海には大きな鯨のような波が立っていて、私は海というものは大きな波がうねるものだと思っていました。凪で平らな海をはじめて見たときはびっくりしました。

 夫はこどものころは毎夏、山形の姑のふるさとへ行っていました。山形の田舎が舞台の高畑勲『おもひでぽろぽろ』を見て、夫が子供時代をすごした夏の光景を想像することができました。

 夏の思い出を持つことができたこどもは幸福です。宿題が終わった子も終わっていない子もよい夏をすごしたと信じて、9月をむかえましょう。
 駅おじさんも姑も、ゆったりと古い夏の思い出を反芻しながら秋を迎えることができますように。

<おわり>
コメント (3)
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