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ぽかぽか春庭「床に置く絵」を踏んでみた-福田美蘭展in東京都美術館」

2013-10-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/08
ぽかぽか春庭@アート散歩>アート散歩2013年9月(2)「床に置く絵」を踏んでみた-福田美蘭展in東京都美術館

 福田美蘭は、1989(平成元)年に、26歳で安井賞を受賞し、美術界にさっそうと登場しました。以来、縦横無尽の活躍で、若手と思っていた彼女も50歳。私はこれまで美術館などで彼女の作品を見たことが少なく、雑誌グラビアや新聞雑誌の挿絵によって見てきたので、画家というより、「ポップなイラスト」のように、その作品を受け取ってきました。

 今回の展示にも、おもしろい仕掛けがたくさんありました。
 福田美蘭の父親が、だまし絵などの軽妙な作品で知られるグラフィックデザイナー福田繁雄だ、ということも、美蘭をポップな絵描きさんという印象に受け取る要因だったかもしれません。美蘭は、既製の写真に手を加えたり、先行絵画の模写に描き加えたり、複製ということばと「見ること」は、福田美蘭の制作のキーワードになっています。

 最初の展示には「日本への眼差し」というタイトルがあって、古今の日本画を元ネタにしていろいろ書き加えやパロディが加えられています。床の間に飾られているような雪景色の墨絵風掛け軸の絵、富士山の下に描かれているのは、りんご食って死んだ白雪姫。小人たちが大粒の涙こぼしている。「富士によって白雪姫の不死を暗示している」という本人の解説ことばが書いてあるけれど、私には「永遠の命(永遠の著作権)を維持しようとしているディズニー社」への「これは芸術作品だから、パクったって文句言わせないよ」という美蘭の心意気を感じました。塀に書かれた子供の落書きにも「著作権侵害」の文句つけてくると言われているディズニー社ですが、この白雪姫には文句が付けられたのやら否や。

 もはや実際には着ることもされず、鑑賞するのみになった着物、志村ふくみの染色織物。それを、福田美蘭は堂々と着た姿で自画像を描く。「志村ふくみ《聖堂(みどう)》を着る」
 茶を飲まずに飾っておく茶碗とか、花をいれると汚れちゃうから花を生けられない花器とか、芸術になってしまって実用にはならない本来は「実用の品」であったもの達へ「ものとして使われるべきなのにえらくなっちゃって、飾り物にされて、ご愁傷様」というようなまなざしの自画像。

 「オマージュ」と評されている絵もありますが、私には「コケにしている、おちょくっている」としか見えない絵も。
 たとえば「孫を描く安井曾太郎像」。安井曾太郎が描いた孫の女の子、全然かわいらしくない。「金蓉」のような美人の絵も書いているのだから、孫をおにんぎょさんのようにかわいらしくも描けたはずなのに、なんだか小生意気そうな「子供ながらもタカビー」な感じで「私のおじいさまは高名な画家なのよっ」と、美術学校の画学生あたりを睥睨しそうな顔の孫に描いてある。その孫を描く安井曽太郎を想像して描いたオマージュだというのだけれど、どう見ても、孫は元ネタに輪をかけて可愛らしくない。安井の顔はリアルなのに、孫の顔は安井が描いた以上に青黒い顔で、これってオマージュ?と思いました。安井曾太郎らの「リアリズム」に一言いいたいんだろうなあ、と感じました。「リアルって何?」

福田美蘭「孫を描く安井曾太郎」


安井曽太郎の「孫」

 次の部屋のテーマは、「西洋への眼差し」
 「ラファエロのグランドゥーカの聖母」とか、ダビンチの「最後の晩餐」の洗浄前と洗浄後、とか、いろんな西洋名画がおちょくられて、いやオマージュされています。モナリザはポーズするのに疲れちゃって、横たわった姿で描かれているし、「黄金の雨に変身したゼウスを迎えるダナエ」に降っているのは黄色いリプトン紅茶ティーバック。
 有名な西洋絵画にいろいろな付け加えが仕掛けてあります。

 入り口近くには「踏み絵」がありました。キリスト、教皇、天使などが描かれた横2m縦2.4mの大きな絵。タイトルは「床に置かれた絵」
 床に置かれていて、作家のキャプションには「踏んでみることで見方が変わる」というような解説が書かれています。立っている係員の女性に、「この絵を踏んづける人が、どれくらいの割合でいますか」と、きいてみる。「さあ、半分くらいでしょうか」

 私もおそるおそる絵の上にたってみました。右側のエラソーな人の上を踏んづけて歩く。たぶん法王をイメージしているんだろうけれど、どうせ法王なんて、中世に免罪符売ったり金儲けに奔走したような手合いが多いんだし、「踏め」と書いてあるんだから踏んでおこう、みたいな。

 「絵の上を歩いてみることで絵の見方がかわるかも」という作家からのメッセージですが、私が感じたのは「いくら絵でも、やはりイエスの顔は踏めないなあ」でした。『沈黙』を思い出しました。小説中でイエスは「踏むがいい。私を踏んでも私への信仰心がないなんて思わないから」というようなことを言ってくれるのですが、禅ぶっディスト(のようなもの)の私だってイエスの顔を踏むのはためらわれました。踏んだら自分の心に「尊者への冒涜」と感じたと思います。隠れキリシタンなどにとって、踏み絵はつらかったろうなあと思いました。

 物質としては、パネルとアクリル絵の具にすぎないのですが、そこに聖なるものが具象され描かれたら、そこにはやはり何らかの意味が盛り込まれてしまう。形の持つ意味を考えさせられました。描かれ形作られた像は、すでに物質として存在するのではなく、心に訴え掛ける何ものかを帯びて存在するのだとよくわかりました。

<つづく>
コメント (2)
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