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ぽかぽか春庭「明治の学校建築と近代化」

2013-10-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/13
ぽかぽか春庭アート散歩>近代建築めぐり2013(3)明治の学校建築と近代化

 江戸時代、寺子屋・手習所は、江戸中期から幕末までに飛躍的に増加しました。ひらがなの読み書きなどを教える手習い塾がほとんどでしたが、「往来物」などの教科書も普及し、一般民衆教育に有効な効果をあげ、当時の世界のなかではもっとも高い民衆識字率を持っていました。諸外国では貴族や上層の学識層を除く民衆の識字率が低かったのに対し、日本の識字率の高かったことは、江戸から明治への変革が比較的スムーズに移行した要因のひとつに挙げられるでしょう。

 明治初期に新政府文部省が教育制度改革を目指して行った調査では、全国に16000ヶ所を越える寺子屋が設置されていたそうです。現在の小学校数は全国に約2万校ですから、数だけから見たら、江戸時代の教育機関もそうひけをとっていません。明治時代の小学校の中には、寺子屋の施設をそのまま小学校としたところも数多くありました。寺院の建物をそのまま小学校としたところ、民間の手習所を小学校としたところが、明治政府設置小学校の7割を占めています。

 明治政府にとって「近代国民育成」のため、「教育」は最重要の課題でした。「藩民から国民へ」の変化は、「学校」という制度を定着させることによって成り立つと考えられました。ことに地方では学校の建物を通じて、目に見える形で「新しい時代の新しい教育」が人々に示されたのです。全国各地に学校新築の機運が広がりました。

 地元の大工たちは、伝統工法の技量のかぎりを尽くして、真新しい校舎を立てました。
 各地に次々と建設された学校や官庁の建物は、ベランダやバルコニー、両開きのガラス窓、鎧戸式雨戸、塔楼を備え、新時代をあたりに示しました。

 松本市の旧開智学校の建物は、東京小石川に建てられた旧医学校(現東京大学総合研究博物館小石川分館)の外観を参考にしたと言われています。
 開智学校建設の白羽の矢が立った大工棟梁、立石清重(1829-1894)は、1875年1月、自費で上京しました。息子の立石清吉は医師をめざしており、地元の蘭医に教えを受けたのち東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学していました。

 清吉在学当時の医学校は、新校舎の設計中でした。一学生にすぎない清吉がどのようなツテをたどったのかは不明ですが、清重は設計段階の医学校校舎の外観や構造を知ることができたのではないかと推測されます。清重は、1873(明治6)年に神田錦町で新築なった開成学校(現・東京大学)を見学したほか、横浜の西洋館なども見たそうです。

 ひと月半の西洋建築見学から郷里に戻った清重は、さっそく「開智学校新築仕様帳」を提出し、舶来品の扉把手(ドアノブ)窓ガラスなどを東京から取り寄せました。
 医者になろうとしていた息子清吉が18歳の若さでなくなってしまったあとも、清重は松本裁判所、大町裁判所、筑摩県師範学校、東筑摩中学校、東筑摩高等小学校、長野県会議事堂などを建設、長野県の近代建築に腕をふるいました。

旧開智学校 立石清重・佐々木喜十 1876(明治9)


旧開智小学校玄関
 洋風の建物の玄関には、龍の飾りが置かれ、独特の和洋折衷の意匠をほどこしています。

東京都文京区小石川 旧医学校


現在の東京大学総合博物館小石川分館(旧医学校)


<つづく>
コメント (4)
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