2013/10/15
ぽかぽか春庭アート散歩>近代建築めぐり2013(4)折衷の近代
県令たちが「新しいご時世」「近代化」という時代の変化を建物によって目に見える形にしよういう意気込みを持っていたことはわかったけれど、それを受け取った側はどうだったのか、私にとってもっと知りたいことのひとつです。
当時の新聞などを調べると、新築披露を見た人々のようすが描写されています。松本の開智学校が落成したときは、人力車が通行できなくなるほど見物人が押し寄せたそうです。
洋風の形は備えていても、開智学校の玄関には龍の模様が彫り込まれているなど、伝統の意匠も各所に見られる建物になっています。今まで見たことのない「西洋」の出現に人々は驚きつつ見とれ、しかし細かい意匠のなかになじみの文様や建築技法を見て、「近代」や「西洋」というものが、これまでの生活から隔絶したものではない、という意識を持ったのではないかと、私は感じたのです。
明治初期には、血税一揆(徴兵反対に端を発する新政府への抵抗)に連動する学校焼き討ち事件なども起こったのだけれど、人々はしだいに「文明開化」を受容していきました。この過程にはさまざまな要因が複合していたと思いますが、そのひとつにこの「擬洋風建築」をあげることができるでしょう。
身近に出現した洋風建築が、在来工法を駆使する地元の大工の手に成り、馴染みの意匠が散りばめられていたことにより、「近代文明」が自分たちが築いてきたこれまでの生活を破壊するだけのものではないことを感じ取り、明治新政府の方針を受容していったのではないかと、鶴岡の旧西田川郡役所、松本の旧開智学校などを見て、感じました。
開智学校
擬洋風建築への評価、はじめは「西洋建築の工法を知らない地元大工が見よう見まねで建てた、まがいものの洋風建築」という評価でした。近年になって「見た目は洋風をめざしているが、在来工法で建てられて、これはこれで日本古来の伝統を生かした建築」という再評価がなされています。
私は、さらに、「この和洋折衷こそが、近代を市民に浸透させる要因だったのだ」と積極的な評価をすべきだと考えます。
大学で西洋工法の近代建築設計施工を学んだ辰野金吾たちが建築界に活躍をはじめた以後の建物について、私は以前「西洋においつけおいこせのものまね」と論評したことがあります。
東京駅を「西洋キッチュ」と評したのです。この評価、訂正しなければなりません。私がこの「キッチュな近代」と評したとき、それは辰野金吾設計の東京駅ではありませんでした。戦後、焼け野原になった東京を復興させるために、GHQが命じた「当座の応急的な修復だけで開業を急ぐ」とされて、その後そのままにされていた「仮のすがた」の東京駅を見て感じたことを書いたのでした。
東京駅は2012年10月に、建築当初(1914年大正3)の形を復元しました。
復元途中に東京駅前を通りかかって、何度か工事中の姿を撮影しました。そのときでも、当初の姿を想像できましたが、復元なった東京駅を見て、素直に美しいと思いました。必死で「西洋文明」に追いつこうとして近代建築を施工していた建築家の気負いは感じますが、東京駅の姿も決して「西洋のものまね」ではない、これはこれで「新しい日本建築」としての美しさを持っている建物だと感じました。

必死で西洋をおいかけ、限りなく本物に近づこうとしていながら、「まね」を抜け出すことはむずかしかったかもしれません。しかし、日本のさまざまな「近代遺産」たちをつぶさに見て歩けば、近代社会を築き上げた人々の心意気がわかってくるのだろうと思います。それまで各地の近代建築見学を続けたいと思います。
開智学校も、旧西田川郡役所も、東京駅も、それぞれが美しいです。
なかでも、擬洋風建築と言われる、在来技術を駆使した大工や左官たちの建物は、最初から「和洋折衷をめざした」本物の「日本建築」であると思うのです。
開智学校のドア上部の龍の飾り
和魂洋才を標榜して突き進んだ明治の改革。
和洋折衷は「和服を着て靴を履きシルクハットをかぶって歩く」というようなスタイルとなって写真や新聞挿絵に残されているので、これまで私は「滑稽な西洋かぶれ」のように受け取ることもあったのですが、そもそも、中国文明や漢字を受け入れた古代から、折衷方式こそが「日本の伝統」です。家のなかに洋間を作っても、決して靴のままでは上がらない。必ず玄関で靴を脱ぎ、洋間には、スリッパを履いてソファに座るという折衷が、我々にとっての「伝統的なやり方」なのであったと思います。
文机の前に正座する寺子屋から、新築なった小学校の椅子に着座することから、「新時代」の受容がなされていったのだろうと思うのです。学校内部においても、玄関で外靴から上履きに履き替えるところがほとんどで、靴のまま校舎に入る学校は、おそらくは皆無、あってもごくわずかだったろうと思います。
椅子にすわる生活、という西洋と、外履を脱いで上履書きに履き替えるという伝統の暮らし方、その折衷に日本の近代が成立したのだと考えます。
<おわり>
ぽかぽか春庭アート散歩>近代建築めぐり2013(4)折衷の近代
県令たちが「新しいご時世」「近代化」という時代の変化を建物によって目に見える形にしよういう意気込みを持っていたことはわかったけれど、それを受け取った側はどうだったのか、私にとってもっと知りたいことのひとつです。
当時の新聞などを調べると、新築披露を見た人々のようすが描写されています。松本の開智学校が落成したときは、人力車が通行できなくなるほど見物人が押し寄せたそうです。
洋風の形は備えていても、開智学校の玄関には龍の模様が彫り込まれているなど、伝統の意匠も各所に見られる建物になっています。今まで見たことのない「西洋」の出現に人々は驚きつつ見とれ、しかし細かい意匠のなかになじみの文様や建築技法を見て、「近代」や「西洋」というものが、これまでの生活から隔絶したものではない、という意識を持ったのではないかと、私は感じたのです。
明治初期には、血税一揆(徴兵反対に端を発する新政府への抵抗)に連動する学校焼き討ち事件なども起こったのだけれど、人々はしだいに「文明開化」を受容していきました。この過程にはさまざまな要因が複合していたと思いますが、そのひとつにこの「擬洋風建築」をあげることができるでしょう。
身近に出現した洋風建築が、在来工法を駆使する地元の大工の手に成り、馴染みの意匠が散りばめられていたことにより、「近代文明」が自分たちが築いてきたこれまでの生活を破壊するだけのものではないことを感じ取り、明治新政府の方針を受容していったのではないかと、鶴岡の旧西田川郡役所、松本の旧開智学校などを見て、感じました。
開智学校

擬洋風建築への評価、はじめは「西洋建築の工法を知らない地元大工が見よう見まねで建てた、まがいものの洋風建築」という評価でした。近年になって「見た目は洋風をめざしているが、在来工法で建てられて、これはこれで日本古来の伝統を生かした建築」という再評価がなされています。
私は、さらに、「この和洋折衷こそが、近代を市民に浸透させる要因だったのだ」と積極的な評価をすべきだと考えます。
大学で西洋工法の近代建築設計施工を学んだ辰野金吾たちが建築界に活躍をはじめた以後の建物について、私は以前「西洋においつけおいこせのものまね」と論評したことがあります。
東京駅を「西洋キッチュ」と評したのです。この評価、訂正しなければなりません。私がこの「キッチュな近代」と評したとき、それは辰野金吾設計の東京駅ではありませんでした。戦後、焼け野原になった東京を復興させるために、GHQが命じた「当座の応急的な修復だけで開業を急ぐ」とされて、その後そのままにされていた「仮のすがた」の東京駅を見て感じたことを書いたのでした。
東京駅は2012年10月に、建築当初(1914年大正3)の形を復元しました。
復元途中に東京駅前を通りかかって、何度か工事中の姿を撮影しました。そのときでも、当初の姿を想像できましたが、復元なった東京駅を見て、素直に美しいと思いました。必死で「西洋文明」に追いつこうとして近代建築を施工していた建築家の気負いは感じますが、東京駅の姿も決して「西洋のものまね」ではない、これはこれで「新しい日本建築」としての美しさを持っている建物だと感じました。

必死で西洋をおいかけ、限りなく本物に近づこうとしていながら、「まね」を抜け出すことはむずかしかったかもしれません。しかし、日本のさまざまな「近代遺産」たちをつぶさに見て歩けば、近代社会を築き上げた人々の心意気がわかってくるのだろうと思います。それまで各地の近代建築見学を続けたいと思います。
開智学校も、旧西田川郡役所も、東京駅も、それぞれが美しいです。
なかでも、擬洋風建築と言われる、在来技術を駆使した大工や左官たちの建物は、最初から「和洋折衷をめざした」本物の「日本建築」であると思うのです。
開智学校のドア上部の龍の飾り

和魂洋才を標榜して突き進んだ明治の改革。
和洋折衷は「和服を着て靴を履きシルクハットをかぶって歩く」というようなスタイルとなって写真や新聞挿絵に残されているので、これまで私は「滑稽な西洋かぶれ」のように受け取ることもあったのですが、そもそも、中国文明や漢字を受け入れた古代から、折衷方式こそが「日本の伝統」です。家のなかに洋間を作っても、決して靴のままでは上がらない。必ず玄関で靴を脱ぎ、洋間には、スリッパを履いてソファに座るという折衷が、我々にとっての「伝統的なやり方」なのであったと思います。
文机の前に正座する寺子屋から、新築なった小学校の椅子に着座することから、「新時代」の受容がなされていったのだろうと思うのです。学校内部においても、玄関で外靴から上履きに履き替えるところがほとんどで、靴のまま校舎に入る学校は、おそらくは皆無、あってもごくわずかだったろうと思います。
椅子にすわる生活、という西洋と、外履を脱いで上履書きに履き替えるという伝統の暮らし方、その折衷に日本の近代が成立したのだと考えます。
<おわり>