2013/10/30
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>50年間の日記(1)1960~2003年の10月末日記
「20年前の今日、何をしていましたか」と尋ねられたとき、パッと答えられるのはよほど印象的な日だった場合。日常茶飯事にとりまぎれた「普通の日」を思い出すことは難しいです。でも、思い出せる場合もある。私は、50年以上、断続的に日記を書いてきたので、書き残したものがあるときは、自分の行動をたどることができます。
3年日記とか10年日記という書き方をする日記帳を売っていて、同じ日の日記を10年分まとめて見ることができたりする日記帳がありますが、私は、ただノートにつけてきただけなので、同じ日の日記をまとめて並べることが、ありませんでした。試みに、古い日記の10月31日をまとめて読んだらおもしろかったので、10年前の10月末、20年前の10月末、1977年1979年1960年10月末と、さかのぼってみます。
~~~~~~~~~~~~
10年前の10月、私立大2校国立大2校の非常勤講師としていっしょうけんめい仕事してました。
2003/10/30 木 晴れ ニッポニア教師日誌>学生は食わぬ餃子
日本事情作文2コマ。ワンさん、台湾における日本設置のインフラについて発表。
台湾の人は、日本の人がびっくりするくらい「日本が作ったインフラ」に感謝しているのだという。王さんの発表の中に出てきた、後藤新平、新渡戸稲造らが、台湾の人たちに好かれていたという面もあるかもしれないし、もともとの台湾ネイティブは、蒋介石国民党より、日本の支配者のほうがまだマシだった、と思っていた人々もいるだろうから。
一方韓国朝鮮の支配者たちは、好かれていなかった。伊藤博文は安重根に暗殺されたし。
餃子の満州で、この前早食い完食の賞品としてもらったお食事券を使ってチンジャオロースセットを食べた。
壁に餃子早食い参加者タイム一覧が載っていたが、私のハンドル名はなかったので、店の人に「ねぇ、この14分51秒ってのは、ベストテンにはいるタイムなんじゃない、なんで名前書いてないのさ」と、わざわざ文句をつけた。アホな記録ながら、私にとっては「全日本、大学講師50代女性の部、餃子早食い暫定日本一」の、輝かしいタイムなんだから。50代の大学講師、私以外の誰が餃子早食いに挑戦しようか。当分私の勲章は「餃子早食い暫定日本一」である。
ただ、学生のひとりが「私はその店でアルバイトをしたことがあります。あそこのラーメンと餃子をまかないで出されても、まずくて食べられなかった」と言う。
本日の負け惜しみ:わたしはほぼ毎週、ラーメン餃子を食べてきた
2003/10/31 金 晴れ ニッポニア教師日誌>宝さがし
ビデオ、文化中級3コマ。
今日も、1組のビデオクラスはノリノリ。ビデオみて、ゲームなどのアクティビティをして、楽しくすごせるので、学生達もビデオクラスが大好き。「先生の授業がベストワンです。」と喜ばれて、私もいい気分。他の先生達、苦労して文型をわんさかつっこんで「こんなに覚えきれない」なんて文句言われて、学生の評判もイマイチになるのに、ビデオクラスは遊ばせてやって喜ばれて、教師は楽できて、ほんとおいしい授業だ。
今日は、位置の言い方復習のため、宝探しをやった。持ち物をひとつづつ学生から出させて、教室のどこかに隠す。学生は習ったばかりの「どこにありますか」の文型で質問し、かくした学生が「机の中にあります」「あなたのとけいはテレビの後ろです」などのヒントを言う。みんな大騒ぎで探し、見つかると大喜び。
「見つけられなかった宝物は、全部先生のものになるからね」と、冗談で言ってあるので、皆真剣に探す。
もちろんおいしい授業にするために、90分ヒトコマに何時間もかけて事前準備をしなければならない。ヒトコマなんぼの仕事で、こんなに教材準備やら、作文添削コメント書きの時間をとって、いったい時給はいくらになってしまうのやら、餃子の満州で皿洗っていた方がイイも知れないと思うのだが。でも、私、皿洗いは家の中でやるだけで、もう十分だし。
本日のつらみ:独立行政法人になったら、非常勤講師のコマ数は、思いっきり減らされるというウワサ、ウェ~ンますます年収が減るよう
~~~~~~~~~~~~~
1993年10月、娘と息子の子育てをしながら必死の思いで修士課程を終えたのに、その後半年間、仕事も見つからず、もんもんとし、貧乏に喘いでいました。11月に「文部省講師として中国に単身赴任する」という仕事が決まる直前のころ。
1993年10月30日土曜日 雨 「貨荻尊者とポンペ神社」
午前中、アルク内職(注:日本語教師養成講座受講生の質問に回答返信を書く)。
午後、娘(9歳)が誘っても、息子(4歳)はいっしょに遊びについて行かなかった。そのくせ「早くおねえちゃん帰ってこないかなあ」と待ちくたびれている。「おかあさん、あそんで」と言うのに、「お母さんは遊び相手じゃない。おねえちゃんがいっしょに遊びに行こうって言ったのに、あんたは行かなかったんだから、一人で退屈していなさい」と冷たい母。
こういうときに絵本でも読んでやるのが麗しき母なんだろうけど、自分の本読む時間がほしい。絵本を出して、前に娘のためにカセットに吹き込んだ朗読テープをかけてやる。家にある百冊以上の絵本にすべて母親が吹き込んだ朗読テープがついているというのも、いかにも手抜き育児らしいと思うが、息子が中学生ころになってグレたら、「小さい時にひざに抱いて絵本を読んでやる時間が不足していたのがいけなかった」と反省しよう
『この国のかたち2』またまた、とてもおもしろかった。私は自分の中にある「宗教的なるもの」をうまく夫に説明できないのだが、その情緒的な面は石牟礼道子の文が語ってくれるし、歴史上のエピソードについて、司馬(遼太郎)がとてもいい例をを出している。『この国のかたち2』にも、江戸時代に医学を教えたポンペの恩に感じて、自宅の一隅に「ポンペ神社」を祀っている医学者一家の話が出ている。
大江健三郎の公演記録の中に、難破船から漂着した船首飾りのエラスムス像を、どこのだれの像ともわからずとも、何か偉大なものを感じて、「貨荻尊者」として手厚く崇拝した、という話が載っていた。
私にとっては、これぞ信仰の基本である。西行が伊勢にまいって「何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と詠んだという話、これが本当に西行の作なのかどうかという詮議より、つまり、これが日本的信仰なのだと思う。
何かよきもの、ありがたきもの。それはおひさまであってもいいし、異国から漂着した像でもいい。日本に医学を教えてくれた恩人でもいい。自分の生をそのまま受け入れ、唯一無二の存在として認めてくれるもの、それが人にとって、母であったり仏であったり神であったり、カウンセラーであったり。
現世利益とはまた別だし、あの世の永劫を保証するものでもなく、今の自分の生をそのものとして認め、受け入れるもの。それが人には必要であり、ときとしてそれが、信仰の形をとれば、それがその人にとっての宗教。
夫の言う「無宗教」も、結局私の宗教と根はいっしょと思うのだけど。
1993年10月31日日曜日 晴れ 「1969年のおつう」
久しぶりに休みがとれた夫は、娘と息子を葛西臨海公園の水族館に連れて行った。私はバレエの日曜レッスンを受けてみたかったので「お洗濯もたまっているから留守番する」と残った。
レッスン前半はトール先生、後半はトシコ先生で、約3時間。いつもはもっと長く3時間半たっぷりのレッスンだという。正確にやろうとすると、グリッサードもピケターンも思い通りにできない。私はもうちょっとうまいつもりだったのに。
子供たちが帰るまで、洗濯をしながら『夕鶴』を見た。1969年の録画で、今の家庭用ビデオで撮ったくらいの画像の荒らさだが、与ひょうは宇野重吉、運ずが米倉斉加年、惣ど下條正巳。すごい配役。
中学校演劇部顧問をした最初の年1974年秋に、「夕鶴」を上演したとき、繰り返しレコード録音の『夕鶴』を聞いた。たぶん、レコードも1960年代のものではなかったか。
20年前に中学生たちといっしょに覚えたセリフのほとんどを諳んじていた。つうの、与ひょうの運ず惣どのせりふに合わせて全部言えるのだ。驚き。それだけ、木下順二のセリフが完成されたものであったといえるのかもしれないし、昨日のことは覚えていない老人も、教育勅語はそらで言えるというのとおなじことで、若い時の暗記は脳細胞に染み付いているのだろう。
山本は、この録画以降もつうの創出に工夫をこらしたことだろうが、この白黒の画面のつうは、これでひとつの完成を示していて、「俳優は何を演じていても基本は自分自身です」という『女優という仕事』の仲の一節がうなずかれる。千回を越えて演じ続けた「おつう」も、その一回一回が新たな出会いであり、新たな発見であったのだろうと思う。観客はそのうちの一回限りのおつうに出会い、一生の宝物にする。
今後、おつうを演じられる女優は出るのだろうか。山本ほどの精神の高さをもって演じられる女優がでなければ、この『夕鶴』は、高校や中学校の演劇部が演じる以外に宝の持ちぐされになってしまう。
夕方、子供たちは「水族館の次に葛西の地下鉄博物館に行って、地下鉄の運転シュミレーションをした」と、にぎやかに帰ってきた。夫に子守をしてもらって、この間バレエのおけいこ、ビデオで演劇鑑賞。主婦の休日満喫。
~~~~~~~~~~~~~~~~
34年前の1979年10月31日は、ケニアのナイロビにいました。実家あての手紙のうつしです。
1979年10月30日
ワンピースをクリーニング屋に出したら2シル60円でした。いよいよタマイさんが、タンザニアにたつので、夜、セレナでビールで乾杯して壮行会をしました。タマイさんは、動物孤児院の一番えらい人にタンザニアの動物保護区のえらいさんあてに紹介状を書いてもらえたと言って、喜んでいました。
1979年10月31日
朝、エンドさんの車でタマイさんを飛行場まで送っていきました。今までずっとYWCAに二人でいっしょに泊まって、私がボーマスに踊りを習いに行くときは、いっしょにつきあうし、タマイさんが動物孤児院に行く時は、私もついて行くし、というように仲良くしてきたので、彼女が行ってしまうと、さびしくなります。
カメルーン航空という聞いたこともない飛行機で行くというので、もし落ちたら追悼文集を出してやると、約束して別れました。
11月になったらすぐ、みちこの所にでも行こうかと思っていたら、YWCAの事務長らしいミセス・ジェリダという人が、私を気に入って、(浮世絵のハンカチなんかあげたからかもしれません)妹の結婚式というのが11月3日にあり、招待してくれたので、それまではナイロビにいることになりました。
おりがみのくす玉を作って結婚いわいにあげたら、とても喜んでいました。だいたい、くす玉は好評です。
11月2日には、ヒルトンで踊りを見ることになっています。(ボーマスじゃないことは確かだけど、どの踊りのグループかはわかりません)
じゃ、またね。
~~~~~~~~~~~~~
1977年。中学校国語科教師を退職し、出身の私立大学大学院で演劇学を学んでいました。
1977年10月30日
8時半に土合についたが、ロープウエイが混んで、10時すぎにやっと天神についた。天神尾根から谷川岳頂上へ。ガンゴー新道を通って降りた。本当は西黒尾根を降りるわけなのに、間違えたのだ。真っ暗な山道を歩いてこわかった。9時半に大宮に着いた。
1977年10月31日
風邪気味と疲れで一日中寝ていた。道成寺もののまとめを考えてみるが、アイデアを実証するというのはとても難しい。ついつい小説を読む。『背教者ユリアヌス』上巻はとてもおもしろかった。しかし中巻、彼が副帝になると、彼が何を考えいかに理想の具現に努力しようと、やはり私には権力者としての姿が見え、幽閉されている王子、哲学青年の王子としての上巻の方がずっといい。いかに彼がローマの理想を述べようと、私はゲルマンの反乱軍についてしまうのだ。
~~~~~~~~~~~~
1960年。小学生でした。
1960年10月31日
上野さんと星野さんとえいがをみにいった。おもしろかった。三本立30円。だがし代20円。来月のこずかい50円まえがりして、さいふつきのていきいれをかった。
~~~~~~~~~~~~~
2013年10月30日のツッコミ
1960年の私へ
1960年11月16日に見た映画は「バンビ」と「アルプスの少女ハイジ」だったことが書かれているのに、10月31日に見た映画のタイトルが記録されていません。きっと映画の中身よりも映画代と駄菓子代が50円かかったので、さいふを買うための50円を前借りしなければならなくなったことのほうが重要だったのでしょう。
1977年の私へ。
演劇学や芸能学を学んで何も役立つことはなかったけれど、アフリカンダンス研究フィールドワークと称してケニアに行くきっかけにはなりました。その結果ふたりの子が生まれたので、無駄にはならなかったということか。
1993年の私へ。
子供たちを食わせるために、必死で通信講座回答作成の内職をしていたころ。結局のところ、夫が子守をしたのは、この一日以外にはなく、子供たちが父親と過ごした貴重な一日になりました。この日ばかりは、一日ゆっくり休養できて夫に感謝したのですが、その後はずう~と悲惨。
朗読テープで絵本の読み聞かせするという手抜き育児で育った息子、見事に中学高校不登校。16歳で高校卒業資格認定試験に合格して、25歳の今は博士過程の学生になったけれど、あれもこれも、膝の上にだっこして絵本を読んでやらなかたからだと反省。
2003年の私へ
楽しい授業やれた日はうれしいよね。
昨今、留学生のようすも変わってきて、最近の授業、なかなかたいへんです。
2013年10月31日の日本語教室。他大学の日本語教師養成コース受講の大学生が教授に引率されて、私の授業を見に来ることになって、チョ~いやだ。最近はとんと書いてない授業案なども書かねばならず。
でも、非常勤講師の悲しさ、常勤の教授に「月末の木曜日、授業参観に協力してください」と言われて、断って来年の受け持ちコマ数を減らされたら、生活できない、と思ってしまう弱い立場。「25年も続けているのに未だに下手くそな授業」を公開しなければなりません。
きっと2013年10月31日の午後は「こんな授業を見られて恥ずかしい」と、打ちのめされていることでしょう。
授業案書かなくちゃならなくて、ブログネタが種切れになったので、昔の日記をUPしたのでした。
日記50年分並べてみて、地べたを這い回る如き低回人生だったけれど、同じ日は一日とてない飽きのこない毎日だったと思います。
専門学校、私立大学、国立大学、国立大学大学院、私立大学大学院、3つの大学の卒業名簿に名前があります。
職歴、地方公務員、病院検査技師、英文タイピスト、中学校教師、予備校講師、劇団女優、大学講師、その他。ふたりの子を育てながら修士号博士号をとったこと。忙しくて貧乏暇なしの生活でした。
日記読み返して思い出せる一日もあるし、まるきり忘れていた日もあるし、まあ、こうして読み返す時間がもてたことは、まあまあよい人生なんじゃなかろうか。
部屋のすみに放り込まれていた古いダンボール箱。日記や古い手紙のたぐいを突っ込んでおいたダンボール箱はごきぶりの巣になってらしく、箱を開けたら、ごきぶりが逃げていきました。ごきぶりの巣、まあ、私の人生にふさわしいのかも。
<おわり>
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>50年間の日記(1)1960~2003年の10月末日記
「20年前の今日、何をしていましたか」と尋ねられたとき、パッと答えられるのはよほど印象的な日だった場合。日常茶飯事にとりまぎれた「普通の日」を思い出すことは難しいです。でも、思い出せる場合もある。私は、50年以上、断続的に日記を書いてきたので、書き残したものがあるときは、自分の行動をたどることができます。
3年日記とか10年日記という書き方をする日記帳を売っていて、同じ日の日記を10年分まとめて見ることができたりする日記帳がありますが、私は、ただノートにつけてきただけなので、同じ日の日記をまとめて並べることが、ありませんでした。試みに、古い日記の10月31日をまとめて読んだらおもしろかったので、10年前の10月末、20年前の10月末、1977年1979年1960年10月末と、さかのぼってみます。
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10年前の10月、私立大2校国立大2校の非常勤講師としていっしょうけんめい仕事してました。
2003/10/30 木 晴れ ニッポニア教師日誌>学生は食わぬ餃子
日本事情作文2コマ。ワンさん、台湾における日本設置のインフラについて発表。
台湾の人は、日本の人がびっくりするくらい「日本が作ったインフラ」に感謝しているのだという。王さんの発表の中に出てきた、後藤新平、新渡戸稲造らが、台湾の人たちに好かれていたという面もあるかもしれないし、もともとの台湾ネイティブは、蒋介石国民党より、日本の支配者のほうがまだマシだった、と思っていた人々もいるだろうから。
一方韓国朝鮮の支配者たちは、好かれていなかった。伊藤博文は安重根に暗殺されたし。
餃子の満州で、この前早食い完食の賞品としてもらったお食事券を使ってチンジャオロースセットを食べた。
壁に餃子早食い参加者タイム一覧が載っていたが、私のハンドル名はなかったので、店の人に「ねぇ、この14分51秒ってのは、ベストテンにはいるタイムなんじゃない、なんで名前書いてないのさ」と、わざわざ文句をつけた。アホな記録ながら、私にとっては「全日本、大学講師50代女性の部、餃子早食い暫定日本一」の、輝かしいタイムなんだから。50代の大学講師、私以外の誰が餃子早食いに挑戦しようか。当分私の勲章は「餃子早食い暫定日本一」である。
ただ、学生のひとりが「私はその店でアルバイトをしたことがあります。あそこのラーメンと餃子をまかないで出されても、まずくて食べられなかった」と言う。
本日の負け惜しみ:わたしはほぼ毎週、ラーメン餃子を食べてきた
2003/10/31 金 晴れ ニッポニア教師日誌>宝さがし
ビデオ、文化中級3コマ。
今日も、1組のビデオクラスはノリノリ。ビデオみて、ゲームなどのアクティビティをして、楽しくすごせるので、学生達もビデオクラスが大好き。「先生の授業がベストワンです。」と喜ばれて、私もいい気分。他の先生達、苦労して文型をわんさかつっこんで「こんなに覚えきれない」なんて文句言われて、学生の評判もイマイチになるのに、ビデオクラスは遊ばせてやって喜ばれて、教師は楽できて、ほんとおいしい授業だ。
今日は、位置の言い方復習のため、宝探しをやった。持ち物をひとつづつ学生から出させて、教室のどこかに隠す。学生は習ったばかりの「どこにありますか」の文型で質問し、かくした学生が「机の中にあります」「あなたのとけいはテレビの後ろです」などのヒントを言う。みんな大騒ぎで探し、見つかると大喜び。
「見つけられなかった宝物は、全部先生のものになるからね」と、冗談で言ってあるので、皆真剣に探す。
もちろんおいしい授業にするために、90分ヒトコマに何時間もかけて事前準備をしなければならない。ヒトコマなんぼの仕事で、こんなに教材準備やら、作文添削コメント書きの時間をとって、いったい時給はいくらになってしまうのやら、餃子の満州で皿洗っていた方がイイも知れないと思うのだが。でも、私、皿洗いは家の中でやるだけで、もう十分だし。
本日のつらみ:独立行政法人になったら、非常勤講師のコマ数は、思いっきり減らされるというウワサ、ウェ~ンますます年収が減るよう
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1993年10月、娘と息子の子育てをしながら必死の思いで修士課程を終えたのに、その後半年間、仕事も見つからず、もんもんとし、貧乏に喘いでいました。11月に「文部省講師として中国に単身赴任する」という仕事が決まる直前のころ。
1993年10月30日土曜日 雨 「貨荻尊者とポンペ神社」
午前中、アルク内職(注:日本語教師養成講座受講生の質問に回答返信を書く)。
午後、娘(9歳)が誘っても、息子(4歳)はいっしょに遊びについて行かなかった。そのくせ「早くおねえちゃん帰ってこないかなあ」と待ちくたびれている。「おかあさん、あそんで」と言うのに、「お母さんは遊び相手じゃない。おねえちゃんがいっしょに遊びに行こうって言ったのに、あんたは行かなかったんだから、一人で退屈していなさい」と冷たい母。
こういうときに絵本でも読んでやるのが麗しき母なんだろうけど、自分の本読む時間がほしい。絵本を出して、前に娘のためにカセットに吹き込んだ朗読テープをかけてやる。家にある百冊以上の絵本にすべて母親が吹き込んだ朗読テープがついているというのも、いかにも手抜き育児らしいと思うが、息子が中学生ころになってグレたら、「小さい時にひざに抱いて絵本を読んでやる時間が不足していたのがいけなかった」と反省しよう
『この国のかたち2』またまた、とてもおもしろかった。私は自分の中にある「宗教的なるもの」をうまく夫に説明できないのだが、その情緒的な面は石牟礼道子の文が語ってくれるし、歴史上のエピソードについて、司馬(遼太郎)がとてもいい例をを出している。『この国のかたち2』にも、江戸時代に医学を教えたポンペの恩に感じて、自宅の一隅に「ポンペ神社」を祀っている医学者一家の話が出ている。
大江健三郎の公演記録の中に、難破船から漂着した船首飾りのエラスムス像を、どこのだれの像ともわからずとも、何か偉大なものを感じて、「貨荻尊者」として手厚く崇拝した、という話が載っていた。
私にとっては、これぞ信仰の基本である。西行が伊勢にまいって「何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と詠んだという話、これが本当に西行の作なのかどうかという詮議より、つまり、これが日本的信仰なのだと思う。
何かよきもの、ありがたきもの。それはおひさまであってもいいし、異国から漂着した像でもいい。日本に医学を教えてくれた恩人でもいい。自分の生をそのまま受け入れ、唯一無二の存在として認めてくれるもの、それが人にとって、母であったり仏であったり神であったり、カウンセラーであったり。
現世利益とはまた別だし、あの世の永劫を保証するものでもなく、今の自分の生をそのものとして認め、受け入れるもの。それが人には必要であり、ときとしてそれが、信仰の形をとれば、それがその人にとっての宗教。
夫の言う「無宗教」も、結局私の宗教と根はいっしょと思うのだけど。
1993年10月31日日曜日 晴れ 「1969年のおつう」
久しぶりに休みがとれた夫は、娘と息子を葛西臨海公園の水族館に連れて行った。私はバレエの日曜レッスンを受けてみたかったので「お洗濯もたまっているから留守番する」と残った。
レッスン前半はトール先生、後半はトシコ先生で、約3時間。いつもはもっと長く3時間半たっぷりのレッスンだという。正確にやろうとすると、グリッサードもピケターンも思い通りにできない。私はもうちょっとうまいつもりだったのに。
子供たちが帰るまで、洗濯をしながら『夕鶴』を見た。1969年の録画で、今の家庭用ビデオで撮ったくらいの画像の荒らさだが、与ひょうは宇野重吉、運ずが米倉斉加年、惣ど下條正巳。すごい配役。
中学校演劇部顧問をした最初の年1974年秋に、「夕鶴」を上演したとき、繰り返しレコード録音の『夕鶴』を聞いた。たぶん、レコードも1960年代のものではなかったか。
20年前に中学生たちといっしょに覚えたセリフのほとんどを諳んじていた。つうの、与ひょうの運ず惣どのせりふに合わせて全部言えるのだ。驚き。それだけ、木下順二のセリフが完成されたものであったといえるのかもしれないし、昨日のことは覚えていない老人も、教育勅語はそらで言えるというのとおなじことで、若い時の暗記は脳細胞に染み付いているのだろう。
山本は、この録画以降もつうの創出に工夫をこらしたことだろうが、この白黒の画面のつうは、これでひとつの完成を示していて、「俳優は何を演じていても基本は自分自身です」という『女優という仕事』の仲の一節がうなずかれる。千回を越えて演じ続けた「おつう」も、その一回一回が新たな出会いであり、新たな発見であったのだろうと思う。観客はそのうちの一回限りのおつうに出会い、一生の宝物にする。
今後、おつうを演じられる女優は出るのだろうか。山本ほどの精神の高さをもって演じられる女優がでなければ、この『夕鶴』は、高校や中学校の演劇部が演じる以外に宝の持ちぐされになってしまう。
夕方、子供たちは「水族館の次に葛西の地下鉄博物館に行って、地下鉄の運転シュミレーションをした」と、にぎやかに帰ってきた。夫に子守をしてもらって、この間バレエのおけいこ、ビデオで演劇鑑賞。主婦の休日満喫。
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34年前の1979年10月31日は、ケニアのナイロビにいました。実家あての手紙のうつしです。
1979年10月30日
ワンピースをクリーニング屋に出したら2シル60円でした。いよいよタマイさんが、タンザニアにたつので、夜、セレナでビールで乾杯して壮行会をしました。タマイさんは、動物孤児院の一番えらい人にタンザニアの動物保護区のえらいさんあてに紹介状を書いてもらえたと言って、喜んでいました。
1979年10月31日
朝、エンドさんの車でタマイさんを飛行場まで送っていきました。今までずっとYWCAに二人でいっしょに泊まって、私がボーマスに踊りを習いに行くときは、いっしょにつきあうし、タマイさんが動物孤児院に行く時は、私もついて行くし、というように仲良くしてきたので、彼女が行ってしまうと、さびしくなります。
カメルーン航空という聞いたこともない飛行機で行くというので、もし落ちたら追悼文集を出してやると、約束して別れました。
11月になったらすぐ、みちこの所にでも行こうかと思っていたら、YWCAの事務長らしいミセス・ジェリダという人が、私を気に入って、(浮世絵のハンカチなんかあげたからかもしれません)妹の結婚式というのが11月3日にあり、招待してくれたので、それまではナイロビにいることになりました。
おりがみのくす玉を作って結婚いわいにあげたら、とても喜んでいました。だいたい、くす玉は好評です。
11月2日には、ヒルトンで踊りを見ることになっています。(ボーマスじゃないことは確かだけど、どの踊りのグループかはわかりません)
じゃ、またね。
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1977年。中学校国語科教師を退職し、出身の私立大学大学院で演劇学を学んでいました。
1977年10月30日
8時半に土合についたが、ロープウエイが混んで、10時すぎにやっと天神についた。天神尾根から谷川岳頂上へ。ガンゴー新道を通って降りた。本当は西黒尾根を降りるわけなのに、間違えたのだ。真っ暗な山道を歩いてこわかった。9時半に大宮に着いた。
1977年10月31日
風邪気味と疲れで一日中寝ていた。道成寺もののまとめを考えてみるが、アイデアを実証するというのはとても難しい。ついつい小説を読む。『背教者ユリアヌス』上巻はとてもおもしろかった。しかし中巻、彼が副帝になると、彼が何を考えいかに理想の具現に努力しようと、やはり私には権力者としての姿が見え、幽閉されている王子、哲学青年の王子としての上巻の方がずっといい。いかに彼がローマの理想を述べようと、私はゲルマンの反乱軍についてしまうのだ。
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1960年。小学生でした。
1960年10月31日
上野さんと星野さんとえいがをみにいった。おもしろかった。三本立30円。だがし代20円。来月のこずかい50円まえがりして、さいふつきのていきいれをかった。
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2013年10月30日のツッコミ
1960年の私へ
1960年11月16日に見た映画は「バンビ」と「アルプスの少女ハイジ」だったことが書かれているのに、10月31日に見た映画のタイトルが記録されていません。きっと映画の中身よりも映画代と駄菓子代が50円かかったので、さいふを買うための50円を前借りしなければならなくなったことのほうが重要だったのでしょう。
1977年の私へ。
演劇学や芸能学を学んで何も役立つことはなかったけれど、アフリカンダンス研究フィールドワークと称してケニアに行くきっかけにはなりました。その結果ふたりの子が生まれたので、無駄にはならなかったということか。
1993年の私へ。
子供たちを食わせるために、必死で通信講座回答作成の内職をしていたころ。結局のところ、夫が子守をしたのは、この一日以外にはなく、子供たちが父親と過ごした貴重な一日になりました。この日ばかりは、一日ゆっくり休養できて夫に感謝したのですが、その後はずう~と悲惨。
朗読テープで絵本の読み聞かせするという手抜き育児で育った息子、見事に中学高校不登校。16歳で高校卒業資格認定試験に合格して、25歳の今は博士過程の学生になったけれど、あれもこれも、膝の上にだっこして絵本を読んでやらなかたからだと反省。
2003年の私へ
楽しい授業やれた日はうれしいよね。
昨今、留学生のようすも変わってきて、最近の授業、なかなかたいへんです。
2013年10月31日の日本語教室。他大学の日本語教師養成コース受講の大学生が教授に引率されて、私の授業を見に来ることになって、チョ~いやだ。最近はとんと書いてない授業案なども書かねばならず。
でも、非常勤講師の悲しさ、常勤の教授に「月末の木曜日、授業参観に協力してください」と言われて、断って来年の受け持ちコマ数を減らされたら、生活できない、と思ってしまう弱い立場。「25年も続けているのに未だに下手くそな授業」を公開しなければなりません。
きっと2013年10月31日の午後は「こんな授業を見られて恥ずかしい」と、打ちのめされていることでしょう。
授業案書かなくちゃならなくて、ブログネタが種切れになったので、昔の日記をUPしたのでした。
日記50年分並べてみて、地べたを這い回る如き低回人生だったけれど、同じ日は一日とてない飽きのこない毎日だったと思います。
専門学校、私立大学、国立大学、国立大学大学院、私立大学大学院、3つの大学の卒業名簿に名前があります。
職歴、地方公務員、病院検査技師、英文タイピスト、中学校教師、予備校講師、劇団女優、大学講師、その他。ふたりの子を育てながら修士号博士号をとったこと。忙しくて貧乏暇なしの生活でした。
日記読み返して思い出せる一日もあるし、まるきり忘れていた日もあるし、まあ、こうして読み返す時間がもてたことは、まあまあよい人生なんじゃなかろうか。
部屋のすみに放り込まれていた古いダンボール箱。日記や古い手紙のたぐいを突っ込んでおいたダンボール箱はごきぶりの巣になってらしく、箱を開けたら、ごきぶりが逃げていきました。ごきぶりの巣、まあ、私の人生にふさわしいのかも。
<おわり>