20160920
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(3)おみなえし
をみなへし、現代仮名表記では「おみなえし」。平安時代に当てられた当て字の漢字表記では女郎花。
別名は粟花。私は、粟の豊作に見立てた粟花が、農耕生活には一番合っている命名かと思います。「おみなめし女飯」という名もあります。能では「おみなめし」の一曲があります。やはり、粟飯からの名付けかなあと思います。「おとこめし」は、米の飯。
実用の植物として、根を煎じた薬は「敗醤根」として解毒、消炎。利尿などに用いられました。

向島百花園にて撮影20160905
「をみな」は、若く美しい女性。「へし」は、動詞へすの連用名詞形。へす(圧す)=圧倒して脇に押しつける。現代語では「押し合いへし合い」という表現や「へし折る」に「へす」があるほかは、あまり使われないことばになりました。
「をみなへし」に残った「へし」ですが、現代語では「おみなえし」なので、「へす」を感じませんけれど。
美女を圧倒し、押しのけるほど の美しさである、とたたえられた「をみなへし」
美しい女性に見立てる歌も、植物として花の美しさをたたえる歌もあります。
4-0675 中臣女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌
娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺可聞
をみなへし佐紀沢に生ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも
おみなえしがたくさんあるという佐紀沢に花かつみ(野花菖蒲)が生えている。そのかつみではないけれど、かってない身のほどの恋をしてしまった
万葉集編集者の最有力者とされている大伴家持。自分が受け取った多くの「をみな」たちからの恋の歌をたくさん採録していますけれど、それに対して自分がどのような返歌をしたかについては、女性からの歌に続けて返歌を載せているのもあるし、いないのもある。この中臣女郎(なかとみのいつらめ)の恋の歌は、五首を並べていますが、返歌なし。
おみなえしの花も野花菖蒲も、ただ美しく咲き、散っていった、ということでしょうか。をみなへしの万葉仮名表記は「娘子部四」
7-1346 譬喩歌 草に寄する
姫押 生澤邊之 真田葛原 何時鴨絡而 我衣将服
をみなへし佐紀沢の辺の真葛原いつかも繰りて我が衣に着む
姫押(おみなえし)の咲いている佐紀沢のほとりの真葛原の葛(くず)を、いつ糸にして私の衣にできるだろうか。(女郎花のように美しいあの娘をいつかは私のものにしたいなあ)
おみなえしの万葉仮名表記は「姫押」。「へし」が「へす(押す)」の意をふくんでいることが意識された当て字です。
8-1530 詠み人知らず
娘部思 秋芽子交 蘆城野 今日乎始而 萬代尓将見
をみなへし秋萩交る蘆城の野今日を始めて万世に見む
をみなへしと秋萩が交じって咲いている蘆城(あしき)の野、今日を始めとして、いつの世までもずっと見てゆこう
おみなえしの万葉仮名表記は「娘部思」
太宰府の役人達が、蘆城の駅家で宴をしたときに詠まれたのですが、だれが作者であったかは、いまだにわからない、という詞書きがあります。
蘆城野は、太宰府にほど近い駅家(旅人のために馬を用立てる中継所)。太宰府から旅立つ人を蘆城野まで見送りに出るのが役人の仕事でもあったのでしょうね。旅立つ人と見送る人は、今生の別れになるのやも知れず、いつまでもこの秋の野の萩とおみなえしを見たいと思う心も切実だったでしょう。
蘆城野は、現在の福岡県筑紫野市阿志岐のあたりと推定されています。現在では高校や幼稚園、人家が建ち並び、秋萩もおみなえしも見当たらないようですが、おみなえしをずっと見ていたいと詠んだその心は、千三百年の後までも残りました。
8-1534 石川朝臣老夫の歌一首
娘部志 秋芽子折礼 玉桙乃 道去裹跡 為乞兒
をみなへし秋萩折れれ玉桙の道行きづとと乞はむ子がため
おみなえしと萩を折ってください。旅のみやげにといって欲しがる子どものために
おみやげにおみなえしと秋萩を持って帰ろうとするおじいさん。老夫(おきな翁)といっても40代か50代くらいなのでしょう。おみやげにおみなえしをねだる子どもはまだ幼いのかしら。
10-2107 花を詠める
事更尓 衣者不揩 佳人部為 咲野之芽子尓 丹穂日而将居
ことさらに衣は摺らじをみなへし咲く野の萩ににほひて居らむ
わざわざ衣をすり染めたりしません。おみなえしが咲いている佐紀野の萩に似合ってきれいに輝いて見えるでしょうから
この歌のおみなえしの万葉仮名表記は「佳人部為」。衣装を摺り染めにしなくても、萩に似合ってそこにいるという女性の美をイメージさせる「佳人部為」です。
10-2115
手取者 袖并丹覆 美人部師 此白露尓 散巻惜
手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも
手に取ると袖まで美しく染まりそうなおみなえしが、この白露に散ってしまうのが惜しいなあ
おみなえしの万葉仮名表記は「美人部師」です。
「匂う(にほふ)」は、現代語の「匂いがする」ではなくて、色美しく映える、ということです。
10-2279 花に寄する
吾郷尓 今咲花乃 娘部四 不堪情 尚戀二家里
我が里に今咲く花のをみなへし堪へぬ心になほ恋ひにけり
私の里に咲いているおみなえしのような可憐なあの娘のことを、耐えられないほど恋しく思う
八月七日、守大伴宿禰家持、館に集いて宴する歌
17-3943 大伴家持
秋田乃 穂牟伎見我氐里 和我勢古我 布左多乎里家流 乎美奈敝之香物
秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折りけるをみなへしかも
秋の田の穂の様子を見ながら、私の親しい人(背子)が折り取ってきたおみなえしです
17-3944 大伴池主
乎美奈敝之 左伎多流野邊乎 由伎米具利 吉美乎念出 多母登保里伎奴
をみなへし咲きたる野辺を行き廻り君を思ひ出た廻り来ぬ
おみなえしが咲いている野をめぐっているうちに、あなた様のことを思い出して、回り道をしてやってきました
家持の招待を受け、招かれた側の池主が、招待主を思いつつやってきた、という挨拶をした歌です。
746(天平18)年旧暦8月7日。越中国主家持と部下の大伴宿祢池主の歌のやりとり。役所のトップ「越中守」の家持に対して、池主は「越中掾(えっちゅうのじょう)」三等官でした。池主は、漢詩なら家持より上手と見なされていたということですが、漢詩でも和歌でも、宴席でさっと気の利いた詩や和歌を詠む能力がなければ、出世もおぼつかない。
池主は、まあまあな出世をして、756(天平勝宝8)年には、式部少丞(従六位上相当)になりました。今でいうと、文部省次官に次ぐ地位。しかし、池主は、藤原仲麻呂暗殺未遂事件で捕らえられ、757 年に獄死。
政治事件に関わった中級官僚の大伴池主。歴史書の片隅に名前が残ったかも知れませんが、それだけなら私のような古代史にうとい者は、池主の名前を知ることもなかったでしょう。家持と親しかったおかげで、池主の歌を千三百年ののちに、さして和歌に詳しくもない私が読んで楽しむことができました。
17-3951 秦八千島(はたのやちしま)
日晩之乃 奈吉奴流登吉波 乎美奈敝之 佐伎多流野邊乎 遊吉追都見倍之
ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし
ひぐらしが鳴く時には、おみなえしが咲いている野をめぐって眺めるのがいいですよ
大伴家持の館で催された宴会で、池主とともに歌を詠みました。
家持、池主、八千島の三首の表記は、ほとんどが一音節一文字で、平仮名表記に近い書き方です。おみなえしは「乎美奈敝之」です。
20-4297 (天平勝宝5年)8月12日に、二三の大夫等おのおの壺酒を提げて高圓の丘に登り、いささかに所心を述べて作る歌三首(のうち)
少納言大伴家持
乎美奈弊之 安伎波疑之努藝 左乎之可能 都由和氣奈加牟 多加麻刀能野曽
をみなへし秋萩しのぎさを鹿の露別け鳴かむ高圓の野ぞ
おみなえしや秋萩を踏み倒して、牡鹿が露を分けて鳴くでしょう。この高円(たかまど)の野で
20-4316 兵部少輔大伴家持、独り秋野を憶いて、いささかに拙懐を述べて作る
多可麻刀能 宮乃須蘇未乃 努都可佐尓 伊麻左家流良武 乎美奈弊之波母
高圓の宮の裾廻の野づかさに今咲けるらむをみなへしはも
高円(たかまど)の宮の山すそにある小高い野原には、今ごろおみなえしが咲いているでしょうね
家持が、高円の秋野を思い出して作った六首の歌のひとつ。家持と同じ大伴氏であり、部下であった大伴池主。歌読むときのかけがえのない仲間であった池主が、藤原仲麻呂暗殺未遂事件(橘奈良麻呂の乱)に連座して捕らわれ、獄死したとき、家持は難波にいて、防人リクルート(防人検校)の仕事をしていました。奈良の都にいたなら、きっと反藤原仲麻呂の密議に加わる一人になっていたでしょう。
家持は池主らと高円の丘で酒を酌み交わし歌を詠み合った日のことを思い浮かべて、おみなえしの花を愛でています。家持の「いささかに拙懐を述べて作る」は、獄死した池主らへの思いを述べているのだろうと想像します。
こののち、家持は反藤原仲麻呂勢力に荷担し、左遷されたり処罰を受けたりします。私は、この仲麻呂事件による親友の死が家持に大きな衝撃を与え、万葉集という「非勅撰集」を編集する動機のひとつになったのではないか、と想像するのです。万葉集成立事情はさまざまな人が研究している分野ですが、私は、ただ、おみなえしの歌を並べてみて、そんなふうに感じたのです。
私が引用している万葉集は、1971年発行の岩波文庫。佐佐木信綱校注。もうぼろぼろですが、これまで歌だけ読んでいて、詞書きはほとんど読んでいなかった。でも、こうして詞書きをひとつひとつ丁寧に読んでみると、万葉の時代を生きた人々の思いが千三百年の時空を超えて伝わってくる気がします。

<つづく>
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(3)おみなえし
をみなへし、現代仮名表記では「おみなえし」。平安時代に当てられた当て字の漢字表記では女郎花。
別名は粟花。私は、粟の豊作に見立てた粟花が、農耕生活には一番合っている命名かと思います。「おみなめし女飯」という名もあります。能では「おみなめし」の一曲があります。やはり、粟飯からの名付けかなあと思います。「おとこめし」は、米の飯。
実用の植物として、根を煎じた薬は「敗醤根」として解毒、消炎。利尿などに用いられました。

向島百花園にて撮影20160905
「をみな」は、若く美しい女性。「へし」は、動詞へすの連用名詞形。へす(圧す)=圧倒して脇に押しつける。現代語では「押し合いへし合い」という表現や「へし折る」に「へす」があるほかは、あまり使われないことばになりました。
「をみなへし」に残った「へし」ですが、現代語では「おみなえし」なので、「へす」を感じませんけれど。
美女を圧倒し、押しのけるほど の美しさである、とたたえられた「をみなへし」
美しい女性に見立てる歌も、植物として花の美しさをたたえる歌もあります。
4-0675 中臣女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌
娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺可聞
をみなへし佐紀沢に生ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも
おみなえしがたくさんあるという佐紀沢に花かつみ(野花菖蒲)が生えている。そのかつみではないけれど、かってない身のほどの恋をしてしまった
万葉集編集者の最有力者とされている大伴家持。自分が受け取った多くの「をみな」たちからの恋の歌をたくさん採録していますけれど、それに対して自分がどのような返歌をしたかについては、女性からの歌に続けて返歌を載せているのもあるし、いないのもある。この中臣女郎(なかとみのいつらめ)の恋の歌は、五首を並べていますが、返歌なし。
おみなえしの花も野花菖蒲も、ただ美しく咲き、散っていった、ということでしょうか。をみなへしの万葉仮名表記は「娘子部四」
7-1346 譬喩歌 草に寄する
姫押 生澤邊之 真田葛原 何時鴨絡而 我衣将服
をみなへし佐紀沢の辺の真葛原いつかも繰りて我が衣に着む
姫押(おみなえし)の咲いている佐紀沢のほとりの真葛原の葛(くず)を、いつ糸にして私の衣にできるだろうか。(女郎花のように美しいあの娘をいつかは私のものにしたいなあ)
おみなえしの万葉仮名表記は「姫押」。「へし」が「へす(押す)」の意をふくんでいることが意識された当て字です。
8-1530 詠み人知らず
娘部思 秋芽子交 蘆城野 今日乎始而 萬代尓将見
をみなへし秋萩交る蘆城の野今日を始めて万世に見む
をみなへしと秋萩が交じって咲いている蘆城(あしき)の野、今日を始めとして、いつの世までもずっと見てゆこう
おみなえしの万葉仮名表記は「娘部思」
太宰府の役人達が、蘆城の駅家で宴をしたときに詠まれたのですが、だれが作者であったかは、いまだにわからない、という詞書きがあります。
蘆城野は、太宰府にほど近い駅家(旅人のために馬を用立てる中継所)。太宰府から旅立つ人を蘆城野まで見送りに出るのが役人の仕事でもあったのでしょうね。旅立つ人と見送る人は、今生の別れになるのやも知れず、いつまでもこの秋の野の萩とおみなえしを見たいと思う心も切実だったでしょう。
蘆城野は、現在の福岡県筑紫野市阿志岐のあたりと推定されています。現在では高校や幼稚園、人家が建ち並び、秋萩もおみなえしも見当たらないようですが、おみなえしをずっと見ていたいと詠んだその心は、千三百年の後までも残りました。
8-1534 石川朝臣老夫の歌一首
娘部志 秋芽子折礼 玉桙乃 道去裹跡 為乞兒
をみなへし秋萩折れれ玉桙の道行きづとと乞はむ子がため
おみなえしと萩を折ってください。旅のみやげにといって欲しがる子どものために
おみやげにおみなえしと秋萩を持って帰ろうとするおじいさん。老夫(おきな翁)といっても40代か50代くらいなのでしょう。おみやげにおみなえしをねだる子どもはまだ幼いのかしら。
10-2107 花を詠める
事更尓 衣者不揩 佳人部為 咲野之芽子尓 丹穂日而将居
ことさらに衣は摺らじをみなへし咲く野の萩ににほひて居らむ
わざわざ衣をすり染めたりしません。おみなえしが咲いている佐紀野の萩に似合ってきれいに輝いて見えるでしょうから
この歌のおみなえしの万葉仮名表記は「佳人部為」。衣装を摺り染めにしなくても、萩に似合ってそこにいるという女性の美をイメージさせる「佳人部為」です。
10-2115
手取者 袖并丹覆 美人部師 此白露尓 散巻惜
手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも
手に取ると袖まで美しく染まりそうなおみなえしが、この白露に散ってしまうのが惜しいなあ
おみなえしの万葉仮名表記は「美人部師」です。
「匂う(にほふ)」は、現代語の「匂いがする」ではなくて、色美しく映える、ということです。
10-2279 花に寄する
吾郷尓 今咲花乃 娘部四 不堪情 尚戀二家里
我が里に今咲く花のをみなへし堪へぬ心になほ恋ひにけり
私の里に咲いているおみなえしのような可憐なあの娘のことを、耐えられないほど恋しく思う
八月七日、守大伴宿禰家持、館に集いて宴する歌
17-3943 大伴家持
秋田乃 穂牟伎見我氐里 和我勢古我 布左多乎里家流 乎美奈敝之香物
秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折りけるをみなへしかも
秋の田の穂の様子を見ながら、私の親しい人(背子)が折り取ってきたおみなえしです
17-3944 大伴池主
乎美奈敝之 左伎多流野邊乎 由伎米具利 吉美乎念出 多母登保里伎奴
をみなへし咲きたる野辺を行き廻り君を思ひ出た廻り来ぬ
おみなえしが咲いている野をめぐっているうちに、あなた様のことを思い出して、回り道をしてやってきました
家持の招待を受け、招かれた側の池主が、招待主を思いつつやってきた、という挨拶をした歌です。
746(天平18)年旧暦8月7日。越中国主家持と部下の大伴宿祢池主の歌のやりとり。役所のトップ「越中守」の家持に対して、池主は「越中掾(えっちゅうのじょう)」三等官でした。池主は、漢詩なら家持より上手と見なされていたということですが、漢詩でも和歌でも、宴席でさっと気の利いた詩や和歌を詠む能力がなければ、出世もおぼつかない。
池主は、まあまあな出世をして、756(天平勝宝8)年には、式部少丞(従六位上相当)になりました。今でいうと、文部省次官に次ぐ地位。しかし、池主は、藤原仲麻呂暗殺未遂事件で捕らえられ、757 年に獄死。
政治事件に関わった中級官僚の大伴池主。歴史書の片隅に名前が残ったかも知れませんが、それだけなら私のような古代史にうとい者は、池主の名前を知ることもなかったでしょう。家持と親しかったおかげで、池主の歌を千三百年ののちに、さして和歌に詳しくもない私が読んで楽しむことができました。
17-3951 秦八千島(はたのやちしま)
日晩之乃 奈吉奴流登吉波 乎美奈敝之 佐伎多流野邊乎 遊吉追都見倍之
ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし
ひぐらしが鳴く時には、おみなえしが咲いている野をめぐって眺めるのがいいですよ
大伴家持の館で催された宴会で、池主とともに歌を詠みました。
家持、池主、八千島の三首の表記は、ほとんどが一音節一文字で、平仮名表記に近い書き方です。おみなえしは「乎美奈敝之」です。
20-4297 (天平勝宝5年)8月12日に、二三の大夫等おのおの壺酒を提げて高圓の丘に登り、いささかに所心を述べて作る歌三首(のうち)
少納言大伴家持
乎美奈弊之 安伎波疑之努藝 左乎之可能 都由和氣奈加牟 多加麻刀能野曽
をみなへし秋萩しのぎさを鹿の露別け鳴かむ高圓の野ぞ
おみなえしや秋萩を踏み倒して、牡鹿が露を分けて鳴くでしょう。この高円(たかまど)の野で
20-4316 兵部少輔大伴家持、独り秋野を憶いて、いささかに拙懐を述べて作る
多可麻刀能 宮乃須蘇未乃 努都可佐尓 伊麻左家流良武 乎美奈弊之波母
高圓の宮の裾廻の野づかさに今咲けるらむをみなへしはも
高円(たかまど)の宮の山すそにある小高い野原には、今ごろおみなえしが咲いているでしょうね
家持が、高円の秋野を思い出して作った六首の歌のひとつ。家持と同じ大伴氏であり、部下であった大伴池主。歌読むときのかけがえのない仲間であった池主が、藤原仲麻呂暗殺未遂事件(橘奈良麻呂の乱)に連座して捕らわれ、獄死したとき、家持は難波にいて、防人リクルート(防人検校)の仕事をしていました。奈良の都にいたなら、きっと反藤原仲麻呂の密議に加わる一人になっていたでしょう。
家持は池主らと高円の丘で酒を酌み交わし歌を詠み合った日のことを思い浮かべて、おみなえしの花を愛でています。家持の「いささかに拙懐を述べて作る」は、獄死した池主らへの思いを述べているのだろうと想像します。
こののち、家持は反藤原仲麻呂勢力に荷担し、左遷されたり処罰を受けたりします。私は、この仲麻呂事件による親友の死が家持に大きな衝撃を与え、万葉集という「非勅撰集」を編集する動機のひとつになったのではないか、と想像するのです。万葉集成立事情はさまざまな人が研究している分野ですが、私は、ただ、おみなえしの歌を並べてみて、そんなふうに感じたのです。
私が引用している万葉集は、1971年発行の岩波文庫。佐佐木信綱校注。もうぼろぼろですが、これまで歌だけ読んでいて、詞書きはほとんど読んでいなかった。でも、こうして詞書きをひとつひとつ丁寧に読んでみると、万葉の時代を生きた人々の思いが千三百年の時空を超えて伝わってくる気がします。

<つづく>