小石川後楽園20160926撮影
20160928
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(9)いちしの花
山上憶良の秋の七草の花の歌を見てきました。最後はおまけの八草め。
東京の秋。道ばたを歩いていて、一番目につく花は、彼岸花です。このところ、やたらに増えている気がします。自転車でご近所一回りするだけで、ガードレールの前にあちこちで咲いています。
近所の道ばた20190926
万葉集には、彼岸花という花は見当たりません。
万葉集に載っている花々、朝顔のように、その名で呼ばれていたのが現在の朝顔とはことなり、どの花であったか、諸説ある花も多い。
彼岸花は、「いちしの花」と呼ばれていたのではないか、という説があります。「いちしろし」は、「いちじるしく目立つ」という意味なので、イネが実るころ、田畑の畦でもっとも目立つ花、それは彼岸花であったろう、という推理です。
ただし、いちしの花も、諸説あり、ダイオウ、ギシギシ、イチヒシバ、草イチゴ、エゴノキ、イタドリなどが候補にあがっています。私は例によって、牧野富三郎博士説に従います。
牧野説は、いちしの花=彼岸花。
日本には稲作伝来時に帰化したのではないかという説が有力で、彼岸のころに咲くので彼岸花。また、墓などに植えられることから仏教用語を用いて曼珠沙華。別名や方言が百以上もあるということは、それだけこの花が広く知られていたということでしょう。
中国では、生薬「石蒜(せきさん)shisuan」として使われる薬の名で花も呼ばれています。
私は子どものころは、あまり彼岸花が好きではありませんでした。毒があると脅されたせいもあるでしょうし、周囲から隔絶して屹立する姿があまりにあでやかで、なじめなかったのかも知れません。
11-2480 柿本人麻呂歌集より
路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀■(女偏に麗) [或本歌曰 灼然 人知尓家里 継而之念者
道の辺の、いちしの花の、いちしろく、人皆知りぬ、我が恋妻は
[或(あ)る本の歌に曰(いわ)く いちしろく、人知りにけり、継ぎてし思へば]
道端のいちしの花が目立つように、私の恋しい妻のことをみんなに知られてしまいました
こっそりと通う隠し妻。通い婚の時代には、妻をはっきりと人に紹介するまでに、いろいろな紆余曲折があったのでしょう。人にお披露目をする前に、自分の通い先が人に知られ、妻のことが露見してしまった、道の端に咲く「いちしの花」のように、いちしろく(目立って)しまったのです。
穏便に順序を経て妻をお披露目する予定であったのか、まだ相手の両親の許しをえていないのか。柿本人麻呂が編集したとされている万葉集以前にまとめられた歌集の中に掲載されていた歌です。
妻の表記が「女麗(女編に麗)」であるところが、「我妹」などの表記よりも、あでやかな妻である印象を受けます。
近所の道ばた
娘息子と『漱石の妻』というドラマを見ていたら、中根鏡子との見合いの席で、舅になる鏡子の父親から「俳句をなさるそうですね」と問われて、漱石は「曼珠沙華あっけらかんと道の端」という句を披露していました。漱石の胸に、この「道の辺のいちしの花のいちしろく、人皆知りぬ、我が恋妻は」が本歌取りとして意識されていたかどうかは、ドラマでは描かれていませんでしたが、鏡子さんは、お見合いのときから「いちしろき」女性であったようです。
漱石は、近代日本語表現を作り上げた文人のひとりです。万葉時代の日本語、明治以後の近代日本語、そしてインターネット時代の現代日本語。生きたことばである限り、時代によってことばは変化していきます。変化しても、伝わる部分は伝わっていきます。
1300年前のことばであっても、「いちしろし」が室町時代から「いちじるし」に変わり、現代語では「いちじるしい」であって「他にぬきんでて目立つこと」と、わかれば、「道の辺の、いちしの花の、いちしろく、人皆知りぬ、我が恋妻は」という歌も、十分に味わえます。
忙しい時代ではありますが、ときに時代の流れに抗って、のんびり古代の日本語を味わてみるひとときも、またよきかな、、、、、現在無職のオバハンが、ちょいと暇つぶしをしただけ、というのもその通りですが、名主の滝公園や東御苑で彼岸花眺めてすごすのも、万葉集のページをひらくのも、無料でできる遊びです。どなた様もタダで楽しんでくださいませ。
皇居東御苑
名主の滝公園
以下、小石川庭園
<おわり>