南禅寺水路閣
20190106
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都旅行2018(1)南禅寺水路閣と疎水
2018年10月11月の京都旅行リポートつづきです。
京都の近代遺産のなかでも、南禅寺水路閣は、明治初期の土木技術遺産として今もなお現役で京都疎水の流れを保っている大事な施設です。
映画やテレビドラマに「絵になる光景」として、よく登場していたので、今回の旅のなかでも、「ぜひいきたい」「いきたい」「時間があれば」のなか、「ぜひ見たい」のひとつでした。
日が高くなれば観光客が押し寄せる名所ですから、朝、起き抜けで出発。
地下鉄東西線蹴上駅下車。
蹴上駅から南禅寺へ向かう途中、近代土木遺産のひとつ「蹴上ねじりまんぽ(粟田口隧道)」を通り抜けました。
トンネル北側
ねじりまんぽは「捩じり間歩」と書き、トンネルのひとつの工法の名前なんですと。
トンネルの上は「蹴上インクライン(後述)」が通っています。通常よりも大きな負荷に耐えられる特別な工法で、トンネルがねじれている状態で作られています(煉瓦斜架拱)。
トンネル上部のレンガがねじれているのがわかりますか。
通ったとき、私はそんなこと知らなくて、ただどんどんと歩いて出ましたが、ねじれの具合をもっとよく見ておけばよかった。近代土木遺産のひとつ。
トンネル上の扁額は、3代目京都府知事北垣国道(1836-1916)の揮毫「雄観奇想」
10分ほど歩いて、金地院の前を通り過ぎ、南禅寺へ。まだ観光客がほとんどいない水路閣の写真かを撮ることができました。
南禅寺水路閣は、古代ローマの水道橋をモデルにしたといいます。全長93.2メートル(幅4メートル、高14メートル)
テレビドラマなどに使われるアングルで。
ミカドが京都を出て東京へ行ってしまったあと、京都は一気に衰退していきました。そんな京都を「物資の集積地」にしようと、水運計画が立てられたのが、琵琶湖疎水。
琵琶湖から京都へ水を引き、京都の町中は、今、水音豊かな町になりました。
1885年に着工し、1890(明治23)年に第1疏水が完成。1912年に第2疏水が完成しました。当初の疎水利用計画では、大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業,潅漑用水,防火用水などでしたが、水力発電の有利性が注目されるようになり、1889年に蹴上に発電所が建設され,91年には送電を開始。京都はかつての繁栄を取り戻しました。
水路閣の上部はこのようになっています。疎水が流れています。
以下は、11月3日夕方に訪れた疎水記念館のパンフレットなどによる知識です。
3代目府知事の北垣国道は、衰える一方の京都を憂い、京都を水運の町にして盛り返そうと考えました。
早く江戸時代には、角倉了以・角倉素庵が琵琶湖疎水工事を考えていたのに、着工できなかったことを知り、北垣は京都の復興に水運が一番よいと思ったのです。
北垣は、弱冠21歳の田辺朔郎(1861-1944)を大抜擢し、疎水計画のリーダーにしました。東京帝大の卒業論文に「京都疎水計画」を提出していたからです。
この時代、土木技術といえばお雇い外国人に頼ってきましたが、1880年ころには、ようやく日本人技術者が育ったところでした。
水を通すための最大の難所は、2.4Kmのトンネルを掘らなければならなかったこと。殉職者も多数に及んだ難工事でしたが、田辺は「竪坑」を採用し、創意工夫を重ねて5年がかりで琵琶湖大津三保ヶ関から京都に水を引きました。
田辺は、アメリカ視察で水力発電が始まったことを知ると、疎水を利用した水力発電を日本でも完成させました。
この電力を利用した傾斜鉄道(通名はインクライン)は、三十石船をそのまま台車に載せ運河間を移動する電力モーターの施設。
インクラインの線路(復元)(撮影は11月3日)
インクラインによって、日本海の荷を琵琶湖を経て淀川経由で大阪湾まで運ぶという舟運ルートが完成し、京都はふたたび繁栄することになりました。インクラインは戦後まもなく、陸運の発達によって廃止されましたが、疎水は現在も京都市の水源です。
北垣は、技術者田辺の力を高く評価。自分の娘静子を田辺と結婚させました。(ちなみに。田辺の姉は、片山東熊(赤坂迎賓館、京都国立博物館など)の妻。幼いころに父を亡くした田辺を養育した叔父田辺太一の娘は田辺花圃(樋口一葉の先輩)。花圃の母方の従弟にあたるのが徳川家達(16代徳川宗家。田安家御殿女中だった実母は、花圃の母の姉)。調べてみると、明治時代、みなぞろぞろつながっている)
田辺は工部大学校(のちの東京大学工学部)教授に抜擢されましたが、北海道知事になっていた北垣の要請で退職、北海道鉄道旭川-滝川(当時ソラチプト)間の上川線を開通させました。
京都帝国大学工学部教授として、京都に戻り、関門トンネル、大阪市営地下鉄などの事業に参画し、84歳の天寿をまっとうしました。科学技術者、学者として明治大正昭和を駆け抜け、生ききった生涯だったと思います。(日本の敗戦前になくなっているので、負けた日本をし知らない勝ち組人生)
田辺朔郎像
わたしは、ただテレビドラマなどに出てきたときに、なんてすてきな場所だろう、見てみたいなあと思って訪れたのですが、近代京都、近代土木遺産という歴史の目で見てみると、ただすてきなだけじゃなくて、京都が今の姿で残るために、重要な場所だったことがわかりました。
なんとか新国家体制ぶちあげてみたものの、欧米に追い付け追い越せで必死だった明治。若い技術者たちの科学技術、たいしたもんです。かって科学が希望と同義であった時代には戻れないけれど、科学技術は大切。
科学とは無縁に見える春庭、高校時代は科学部所属で、部活で日本学生科学賞ってのを受賞したことあるの。
<きょうのわたし>
サスペンスドラマの主人公気分で
<つづく>