20190120
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018(9)西本願寺と東本願寺
ハンさんと東西の本願寺にお参りしました。
龍谷大学から寺塀に沿って歩くと、国宝唐門が修復中。2022年に修復終了だそうです。
西本願寺で見たかった飛雲閣も修復中です(2020年3月まで)。
ハンさんは、お寺の御朱印長集めをしていて、1年間京都に滞在中、ずいぶんの数がたまった、ということです。
<きょうの建物>
西本願寺総門から伝導院の屋根がのぞく
阿弥陀堂門
御影堂1760(宝暦10)再建
御影堂内部
経堂
太鼓楼
親鸞聖人信心の勢威においては東西並び立つものの、国宝や重要文化財の建物が残る西本願寺に対して、お東さんの建物は明治以後の近代和館。これも貴重な建物ですが、観光客にとっては、「国宝」と銘打たれたほうが、ありがたそうな気がしてしまう。これぞ俗界の考え方。
もっとも、東西とも考え方は俗界に近い。
お東さん信者にいわせると、現門主は今上天皇の従弟にあたる尊いお方、というのですが、信者でない者や「天皇の従弟だから無条件にありがたい存在だ」と考えないものにとっては、どっちもどっち。お西さんの22世法主大谷光瑞は大正天皇の従弟だったし。そもそも宗教家が爵位をもち華族となったこと自体、宗教にはあるまじき、と私は思っています。宗教家が俗界の地位をありがたがるのなら、俗人の精神状態と同じ。
逼塞していた鎌倉室町のころはいざ知らず、織田信長への抗戦をめぐって分裂し、家康が本願寺の東に新たな寺を建立したころから、教団はすったもんだがありまして、現在では東本願寺がさらに4教団に分裂していて、あらまあ、宗教の主導権争いって、たいへんなのね。
「この菊の御紋が目に入らぬかっ」というお東さんの門(16弁の菊ではないような)
真宗本廟御影堂 1895(明治28)再建
阿弥陀堂 1895(明治28)再建
御影堂門 1911(明治44)再建
<きょうの工芸>
西本願寺の門柱の下の部分。作り出した職人は、柱の下に今も作品が残っていることを知らないでしょう。私は「天皇の従弟だから尊い」という人より、このような心をこめて自分のできる技を残そうとした人を、ありがたいと思い、手を合わせてきました。私は職人仕事の信者ですから。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018(9)西本願寺と東本願寺
ハンさんと東西の本願寺にお参りしました。
龍谷大学から寺塀に沿って歩くと、国宝唐門が修復中。2022年に修復終了だそうです。
西本願寺で見たかった飛雲閣も修復中です(2020年3月まで)。
ハンさんは、お寺の御朱印長集めをしていて、1年間京都に滞在中、ずいぶんの数がたまった、ということです。
<きょうの建物>
西本願寺総門から伝導院の屋根がのぞく
阿弥陀堂門
御影堂1760(宝暦10)再建
御影堂内部
経堂
太鼓楼
親鸞聖人信心の勢威においては東西並び立つものの、国宝や重要文化財の建物が残る西本願寺に対して、お東さんの建物は明治以後の近代和館。これも貴重な建物ですが、観光客にとっては、「国宝」と銘打たれたほうが、ありがたそうな気がしてしまう。これぞ俗界の考え方。
もっとも、東西とも考え方は俗界に近い。
お東さん信者にいわせると、現門主は今上天皇の従弟にあたる尊いお方、というのですが、信者でない者や「天皇の従弟だから無条件にありがたい存在だ」と考えないものにとっては、どっちもどっち。お西さんの22世法主大谷光瑞は大正天皇の従弟だったし。そもそも宗教家が爵位をもち華族となったこと自体、宗教にはあるまじき、と私は思っています。宗教家が俗界の地位をありがたがるのなら、俗人の精神状態と同じ。
逼塞していた鎌倉室町のころはいざ知らず、織田信長への抗戦をめぐって分裂し、家康が本願寺の東に新たな寺を建立したころから、教団はすったもんだがありまして、現在では東本願寺がさらに4教団に分裂していて、あらまあ、宗教の主導権争いって、たいへんなのね。
「この菊の御紋が目に入らぬかっ」というお東さんの門(16弁の菊ではないような)
真宗本廟御影堂 1895(明治28)再建
阿弥陀堂 1895(明治28)再建
御影堂門 1911(明治44)再建
<きょうの工芸>
西本願寺の門柱の下の部分。作り出した職人は、柱の下に今も作品が残っていることを知らないでしょう。私は「天皇の従弟だから尊い」という人より、このような心をこめて自分のできる技を残そうとした人を、ありがたいと思い、手を合わせてきました。私は職人仕事の信者ですから。
<つづく>