嵯峨野竹林の道
20190115
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018(6)嵯峨野めぐり天龍寺
11月1日、ホテルに荷物を預けてチェックアウトし、嵯峨野めぐり。京福嵐山線嵐山駅の駅ビルにあるホテルなので、いつ嵯峨野めぐりをしてもよかったのですが、結局嵐山にいる最終日になりました。
まず、混み混みだといううわさの「竹林の道」へ。旅行ガイド番組で紹介されたという小道。京都に行ったら何はともあれ金閣寺と竹林の道、というくらい人気スポットになっているらしい。
静かな竹林の道を通りたければ、朝6時前に早起きして観光客が出てくる前に歩くのがベスト、というのを知っていたのですが、11月1日は、チェックアウトの荷物まとめをしていて、結局観光客がわいわいと出てきたあとに、わたしもわいわい組のひとりとして、竹林の道を歩きました。
原宿の竹下通りのようなごった返しの道でした。荷物などあとでまとめればよかったと、少々後悔。
このような撮り方ですと、静かな竹林のイメージですが、、、、
実際には原宿竹下通りのような人ごみ。
本日のお目当ては、宿泊した嵐山駅内ホテルの目の前にある天龍寺の秋の特別公開曹源池庭園と方丈庭園。天龍寺経営の精進料理。
ホテルの屋上テラスから見る天龍寺
天龍寺は、南北朝の争乱もようやくおさまったあと、後醍醐天皇の菩提を弔うために1339(暦応2)年に創建されました。南北に分かれた南朝側の後醍醐天皇を追い詰めて死なせたのですから、足利尊氏も御霊がたたらぬよう、祀る必要がありました。開祖は夢窓疎石。
寺の建設費用が不足したために、鎌倉時代元寇で途絶えていた元との貿易を再開して、その利益を建設にあてました。天龍寺船の交易です。長く途絶えていた中国との貿易再開ですから、唐物は高値で売りさばくことができ、大儲け。天龍寺伽藍は、1345(康永4)年に落慶法要が行われました。後醍醐天皇も7回忌を盛大に執り行ってもらい、御霊もたたらぬことに。天龍寺船さまさまです。
それでも、室町時代が最初っから安定を欠く足利幕府だったのは、いろいろあろうが、やっぱり後醍醐天皇のたたりもあったんじゃないかしら。島流しにされて恨みに恨んで亡くなった崇徳上皇なんかよりは、たたりも小さめだったとは思うけれど。
しかし、応仁の乱から幕末蛤御門の変まで、度重なる戦火その他の火災で、創建時の建物は残されていません。現在の伽藍は、明治以後の造営です。
明治の上地令によって、京都市内の寺は境内が明治政府の召し上げとなりました。天龍寺も嵯峨野一帯30万坪の境内は3万坪に縮小しましたが、臨済宗五山のひとつとしての格式は高い。
<きょうの建物>
建物は、例によって、どれがどれやら、という撮影です。たぶん、法堂と大方丈の建物だろうと思います。
龍門亭から見た禅堂(かな?)
<きょうの庭園>
方丈庭園
曹源池庭園
<きょうの京わたし>
池の前で
<きょうの京ごはん>
龍門亭「篩月(しげつ)」の精進料理。3000円。わたしなら二人前食べられるけれど、禅の教えでは、「満腹は修業のさまたげ」。さまたげの毎日で、禅には向かない私。曹洞宗ですけれど。
篩月ののれんの前で満腹してないのに、このおなか。
精進料理食べたあとの「もっと食えるが修業のため我慢」の顔
<きょうの出会い>
竹林の道の途中で京都を描いた絵葉書を買いました。竹林の絵。五重塔の絵など。
画家は中村欣司さん。法律事務所退職後に画家を志し、京都や海外の絵を描いてきました。
それらの絵を絵葉書に仕立てて、みずから竹林の道で観光客に売っています。私は最初、売り子さんだと思ったのですが、画家みずからの販売でした。
中村さんと絵葉書の写真をとらせてもらう許可を得て、ブログアップの許可ももらいました。(ご自身のHPにはお顔も出されていますが、ここでは少々加工して)
中村欣司HP
http://www.asahi-net.or.jp/~ps2k-nkmr/index.html
今年75歳という中村さん、お元気で絵の制作をお続けくださいますよう。
<きょうの工芸>
竹林の道の途中、工芸作家が共同で出している店がありました。
作品制作中
山ブドウの樹皮を染めて手でひとつひとつ編みこんでいきます。ほしいなあと思ったけれど、ひとつ3万~10万円の籠、買えませんでした。一澤信三郎帆布のトートバック12000円だって、清水の舞台から飛び降りる気分だったのですから(清水寺には今回いかなかったけれど)
作品見本の展示。この展示品は85000円
<つづく>