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ぽかぽか春庭「順正書院と無鄰菴」

2019-01-10 00:00:01 | エッセイ、コラム

順正書院庭園

20190110
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都2018(3)順正書院と無鄰菴

 早起きして水路閣と南禅寺(本坊、南禅院、金地院)の建物と庭園をたっぷりと見て、すっかりおなかがすきました。南禅寺名物の湯豆腐を食べることに。
 門前には湯豆腐の店が何軒もありましたが、由緒ありげな「順正」へ。
 受付に名前を書いてからしばらく待つようでしたので、庭など見ていました。

 順正は、元は「順正書院」という医学講習所。1839(天保10)年に開設され、蘭方医新宮涼庭(1787-1854)が、解剖(生象)生理、病理、外科、内科、博物、科学、薬性)の八科目の医学教育を行いました。明治時代になると、順正書院は京都府立医科大学へと発展し、順正書院の建物は、湯豆腐店として使われることになりました。

 順正書院玄関(順正書院と言う学院名は鯖江藩主間部詮が命名)

 順正書院

 順正書院石門(国の登録文化財)


 江戸時代 (元治元年1864)に花洛名勝図会描かれた順正書院


<きょうの庭園>
 順正書院の庭



 南禅寺の広大な土地は、明治時代になると水路閣が作られたほか、寺域の一部を明治政府が召し上げ、明治高官や財界人に別荘として払い下げられました。豊富な疎水の水を引き込んで、池をまわる回遊式の庭園を持つ別荘が点在し、南禅寺界隈別荘群として、現在も15邸が知られています。

 広大な庭園も、文化財的価値は高いけれどその分補修費が高額になる邸宅も、維持管理がたいへんです。維持できずに、売り出される別荘もあります。
 南禅寺界隈別荘15邸のうち、旧寺村助右衛門邸は、現在、料理旅館菊水として営業。對龍山荘は、家具小売りからのし上がってきたニトリが買い取り、ニトリ保養施設になっています。

 2018年、近年の「ビジネス最先端成金」のひとりが、この別荘群のうちの一軒を買いました。ZOZOタウン(ネット衣料品販売)で億万長者となり、宇宙旅行する切符を買った、という話題の主、前澤友作(1975~)が購入したのは、旧横山隆興別邸だった智水庵。
 ZOZOの会社保養所にするのか、純粋に前澤氏の個人別荘なのか知りませんが、分かりやすく成金している前澤氏、剛力彩芽を泣かさないでね。

 15邸のうち、旧山縣有朋別邸だった無鄰菴(むりんあん)は、別荘の姿のまま現在まで残され、公開されています。順正書院の店で湯豆腐たべたあと、無鄰菴を見学しました。無鄰菴は、成金所有にはならずに済み、京都市が買い取って公開しています。

 山縣有朋(1838-1922)は、七代目小川治兵衛(植治)とともに、この無鄰菴の庭を作り上げました。植治は、京都の近代庭園の多くを手掛け、ことに南禅寺周辺の別荘群の庭を数多く作庭しています。

<きょうの建物>
 無鄰菴洋館(煉瓦造り二階建て洋館 竣工:1898(明治38) 設計:新家孝正)
 明治政府は、対ロシア政策に苦慮していました。南下政策をとるロシア帝国との軋轢が深まるなか、1903年4月21日、無鄰菴洋館2階でロシア外交、東アジア外交を決定づける会議が開かれました。出席者は、無鄰菴当主の元老・山縣有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎の4人。のちに「無鄰菴会議」と呼ばれる会議において、明治後半から昭和敗戦までの東アジア外交の方針を決定することになりました。4人の会議記録は残されているのかどうか知りませんが、敗戦までの戦線拡大路線への道筋を決定づけた部屋と思うと、感慨深いものがあります。

 旧山縣有朋邸洋館外観(画像借り物)


 会議が行われた部屋


 洋館だけれど、折り上げ格天井にしつらえてある

 土蔵のような扉

 階段


 洋館2階から和館を見る


 和館南面


 茶室


<きょうの庭園> 

 山縣と植治が作り上げた庭園は、その後「近代和風庭園」の見本となり、植治は、南禅寺界隈別荘のほとんどの庭園ほか、日本各地で作庭しました。

  

  



<きょうの京ごはん>
 順正の湯豆腐ランチ。天婦羅、田楽、煮物、ゴマ豆腐にご飯と汁で3000円

 となりの席で香港からの一人旅女性が食べていた湯葉(ネットで見て食べてみたくなり、1週間休みをとって来日したのですって)


<つづく>
コメント (2)
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