20190113
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都旅行2018(5)長楽館、祇園閣
10月31日、三条駅近くのパン屋さんの奥のカフェでパンとコーヒーのランチ。ランチを軽くしたのは、3時からアフタヌーンティの約束があったからです。
長楽館の門

長楽館に着いて、外観撮影しながらハンさん母娘を待ちました。ハンさんシンちゃんを誘ったのは、わけがあります。長楽館にはホテル内にレストランやカフェがいくつもあり、一人客は、文化財登録してある古い館のほうのカフェには予約できない、というのです。二人以上でないと予約はできないというので、ハンさんに都合を確かめて3名の予約。
入り口鉄扉

正面入り口

ひとり4000円のアフタヌーンティーセット×3で、12000円。私にしてみれば、普段ならばぜったいにこの価格でお茶することはないけれど、長楽館の建物を見たいがための、プチ贅沢です。
実際には、平日の午後、フリのひとり客も入店できて、ひとりでお茶している人もいました。ただ、予約したほうが確実だと思ったための措置。11月1日夜からハンさんの家に泊めてもらうので、そのお礼という意味もあります。
レセプション前のベンチで待つ。ベンチもなにやら由緒ありげな。

長楽館は、明治のタバコ王村井吉兵衛の別邸として、1909(明治42)年に竣工。設計・監督は、J.M.ガーディナー、棟札に名を残した棟梁は清水満之助(清水建設三代目)。
タバコや製糸事業で財をなした村井吉兵衛(1864-1926)は、タバコ商村井吉右衛門(1832-1892)と孝子の娘宇野子(1869-1916)の婿養子に迎えられました。吉兵衛は吉右衛門の甥にあたり、宇野子とはいとこ同士の結婚。吉兵衛は14歳からタバコを売りさばき、アメリカ式の紙巻きたばこで財をなします。1904(明治37)年にタバコが専売制度に切り替わるとその保証金1120万円をもとでに、銀行、製糸業をはじめます。(公務員の月給は1ヶ月10円ほどの時代ですから、現在の貨幣価値だと2000億円くらいになります)
宇野子が1916(大正5)年に亡くなり、一周忌を終えるとすぐ、吉兵衛は後妻として日野西光善子爵の娘薫子(1879-1949)を迎えます。
薫子は、山川三千子『女官』に描かれた明治宮廷の「山茶花の局」で、宮中の花と謳われた女性です。成金のお金持ちは、お金ができると、次は貴顕出身の女性と結婚したくなるものらしい。大正天皇の従妹柳原白蓮を妻にした九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と同じね。
白蓮は宮崎龍介と手に手をとって駆け落ちしましたが、薫子は、吉兵衛との10年にも満たない結婚生活のあとは、未亡人として東京の広大な屋敷(武田五一設計の和館)で静かに暮らしたようです。(薫子に仕えた行儀見習い娘の談)薫子は本邸で暮らしたでしょうから、この京都の別邸長楽館ですごしたことは、どれほどあったでしょうか。(東京本邸の門は、日比谷高校内に現存。村井家美術品倉庫は現日比谷高校資料館。和館の一部は比叡山延暦寺書院として移築)
亀井至一(1843-1905)が日野西薫子をモデルにして描いた『美人弾琴図』(1890第3回内国勧業博覧会に出品 121×151cm)歌舞伎座所蔵)

宮中に女官として勤める前に描かれたのか、1890年に第3回内国勧業博覧会に出品したのだというのが正しければ、薫子はまだ10~11歳のころになります。この絵ではもう少し年上に見えますから、山茶花の局をモデルにしたというのが間違っているか、少女を少し大人っぽく描いたのか。もっとも、第3回内国勧業博覧会に出品した絵は入賞し、宮内省お買い上げとなったので、この歌舞伎座の絵は、出品作と同じ構図で後年描いた、ということです。はたして、この絵の薫子は何歳なのか。吉兵衛が薫子を後妻にと望んだとしたら、この絵をどこかで目にしていた可能性はありますね。
山川三千子の「女官」によると、宮中にあがったら、厳格な規則があり、めったなことでは実家に帰ることはできなかったと書かれています。三千子は13歳で女官となり、明治天皇崩御をしおに実家に下がってまもなく結婚していますが、薫子の結婚は30代のことで、後妻でもやむなし、と、貧乏華族の日野西家は考えたのか。(本当に貧乏だったかどうかは、わからないけれど、高瀬理恵『公家侍秘録』に描かれた日野西家のイメージでは、貧乏です。この漫画の中の日野西薫子は、わがまま奔放な公家のお姫様です)。
薫子には子はなく、吉兵衛の孫禎子を養子にして、日野西家から婿を迎えています。(薫子の弟長輝の息子資長)
めったには行かない歌舞伎座です。これまで『美人弾琴図』を目にしたことはありませんでした。3階に展示されているというので、次に歌舞伎座に行ったら見てみたいです。
<きょうの建物>
門から見た長楽館

長楽館正面

正面入り口ファサード

長楽館の内部
玄関内側

レセプションとなりの階段

<きょうの工芸>
長楽館門脇にあった由緒ありそげな郵便受け。いつごろの時代のものなのか、確認はできませんでしたが。


<きょうのわたし>シンちゃんとお茶しているところ

長楽館門前で。手に持っているのが信三郎帆布のトートバッグです。

<きょうの出会い>
三条通りから三条アーケード街を抜けて、地図を見ると一澤帆布店が近くにあることに気づきました。京都の本店のほか、どこにも出店しないがんこな老舗。
少し前に先代が亡くなったあと、長男次男四男で相続争いがあったことで全国に知られるようになったのは皮肉です。先代は仕事をまかせていた次男に相続させるという遺言を残したのに、長男はそれよりも日付の新しい「長男にすべてをゆずる」という遺言書を裁判所に提出。裁判では後発のものが偽遺言であるという積極的な証明はできないとして、長男勝訴。しかし、長男のごり押しを嫌い職人たちが一切退職。その後、相続権を持つ次男嫁名義で出された裁判では次男側勝訴。現在は、本店が次男一澤信三郎店。別店が四男帆布カバン喜一澤。長男、株の一部相続はできたみたいですが、帆布鞄制作からは手を引きました。
三条駅から500mくらいのところにあるので、歩いていけると思いましたが、歩いていたら、八坂神社近くの長楽館で待ち合わせの約束した3時ぎりぎりになるかも、と予想して、タクシーで一澤帆布店へ。
個人タクシーでしたが、なんと、八坂神社まわりを行ったり来たり、かなりの遠回りをしてようやく店の前へ着きました。東京からきて、地理不案内と運転手に言ってしまったのがまずかった。三条駅から一澤帆布店へ行く500mほどのところにどれほど一方通行があるのか知らないけれど、いくら東京もんでも、八坂神社のまわりをぐるりと回れば遠回りしたことに気づく。
仕方ない、これも京都。京都でいやな人に会ったのは、この時だけ。あとはみな親切な人でしたのに。領収書は受け取ってあるから、個人タクシー名、ネットで公表してもいいんだけどね。長旅のなか、こんな負の出会いもありますよね。
<きょうの工芸>
一澤帆布店のトートバッグを買いました。丈夫で長持ちしそうな武骨なバッグです。一針一針、職人が縫う帆布のバッグ、ミシンなどを許可を得て撮影させてもらいました。
店内に展示されていた縫製機械

店内。写真撮影もネットUPもOK。やたらに老舗ぶって「店内写真禁止」なんていう服屋さんに比べて、とても感じがいい。こういうのが本当の老舗と思います。

2階店舗を見ていた私が足をひきずっているのに気づいた若い店員さんは、店の奥にあった業務用のエレベーターまで案内してくれて、階段でなく2階から降りることができました。感じのよい応対に、私には高いと思うけれどどうしようかなと迷っていた12000円の帆布トートバッグ、買いました。娘のおみやげ花柄のボストンバッグは、30000円。品切れなので、あとで郵送。クリスマス25日の朝、届きました。娘はブランド物を好まないので、若い人たちが欲しがるエルメスもルイヴィトンも手にしたことなかったけれど、このバッグは「ブランド」だけど気に入ってくれました。
トートバッグとボストンバッグ


<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都旅行2018(5)長楽館、祇園閣
10月31日、三条駅近くのパン屋さんの奥のカフェでパンとコーヒーのランチ。ランチを軽くしたのは、3時からアフタヌーンティの約束があったからです。
長楽館の門

長楽館に着いて、外観撮影しながらハンさん母娘を待ちました。ハンさんシンちゃんを誘ったのは、わけがあります。長楽館にはホテル内にレストランやカフェがいくつもあり、一人客は、文化財登録してある古い館のほうのカフェには予約できない、というのです。二人以上でないと予約はできないというので、ハンさんに都合を確かめて3名の予約。
入り口鉄扉

正面入り口

ひとり4000円のアフタヌーンティーセット×3で、12000円。私にしてみれば、普段ならばぜったいにこの価格でお茶することはないけれど、長楽館の建物を見たいがための、プチ贅沢です。
実際には、平日の午後、フリのひとり客も入店できて、ひとりでお茶している人もいました。ただ、予約したほうが確実だと思ったための措置。11月1日夜からハンさんの家に泊めてもらうので、そのお礼という意味もあります。
レセプション前のベンチで待つ。ベンチもなにやら由緒ありげな。

長楽館は、明治のタバコ王村井吉兵衛の別邸として、1909(明治42)年に竣工。設計・監督は、J.M.ガーディナー、棟札に名を残した棟梁は清水満之助(清水建設三代目)。
タバコや製糸事業で財をなした村井吉兵衛(1864-1926)は、タバコ商村井吉右衛門(1832-1892)と孝子の娘宇野子(1869-1916)の婿養子に迎えられました。吉兵衛は吉右衛門の甥にあたり、宇野子とはいとこ同士の結婚。吉兵衛は14歳からタバコを売りさばき、アメリカ式の紙巻きたばこで財をなします。1904(明治37)年にタバコが専売制度に切り替わるとその保証金1120万円をもとでに、銀行、製糸業をはじめます。(公務員の月給は1ヶ月10円ほどの時代ですから、現在の貨幣価値だと2000億円くらいになります)
宇野子が1916(大正5)年に亡くなり、一周忌を終えるとすぐ、吉兵衛は後妻として日野西光善子爵の娘薫子(1879-1949)を迎えます。
薫子は、山川三千子『女官』に描かれた明治宮廷の「山茶花の局」で、宮中の花と謳われた女性です。成金のお金持ちは、お金ができると、次は貴顕出身の女性と結婚したくなるものらしい。大正天皇の従妹柳原白蓮を妻にした九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と同じね。
白蓮は宮崎龍介と手に手をとって駆け落ちしましたが、薫子は、吉兵衛との10年にも満たない結婚生活のあとは、未亡人として東京の広大な屋敷(武田五一設計の和館)で静かに暮らしたようです。(薫子に仕えた行儀見習い娘の談)薫子は本邸で暮らしたでしょうから、この京都の別邸長楽館ですごしたことは、どれほどあったでしょうか。(東京本邸の門は、日比谷高校内に現存。村井家美術品倉庫は現日比谷高校資料館。和館の一部は比叡山延暦寺書院として移築)
亀井至一(1843-1905)が日野西薫子をモデルにして描いた『美人弾琴図』(1890第3回内国勧業博覧会に出品 121×151cm)歌舞伎座所蔵)

宮中に女官として勤める前に描かれたのか、1890年に第3回内国勧業博覧会に出品したのだというのが正しければ、薫子はまだ10~11歳のころになります。この絵ではもう少し年上に見えますから、山茶花の局をモデルにしたというのが間違っているか、少女を少し大人っぽく描いたのか。もっとも、第3回内国勧業博覧会に出品した絵は入賞し、宮内省お買い上げとなったので、この歌舞伎座の絵は、出品作と同じ構図で後年描いた、ということです。はたして、この絵の薫子は何歳なのか。吉兵衛が薫子を後妻にと望んだとしたら、この絵をどこかで目にしていた可能性はありますね。
山川三千子の「女官」によると、宮中にあがったら、厳格な規則があり、めったなことでは実家に帰ることはできなかったと書かれています。三千子は13歳で女官となり、明治天皇崩御をしおに実家に下がってまもなく結婚していますが、薫子の結婚は30代のことで、後妻でもやむなし、と、貧乏華族の日野西家は考えたのか。(本当に貧乏だったかどうかは、わからないけれど、高瀬理恵『公家侍秘録』に描かれた日野西家のイメージでは、貧乏です。この漫画の中の日野西薫子は、わがまま奔放な公家のお姫様です)。
薫子には子はなく、吉兵衛の孫禎子を養子にして、日野西家から婿を迎えています。(薫子の弟長輝の息子資長)
めったには行かない歌舞伎座です。これまで『美人弾琴図』を目にしたことはありませんでした。3階に展示されているというので、次に歌舞伎座に行ったら見てみたいです。
<きょうの建物>
門から見た長楽館

長楽館正面

正面入り口ファサード

長楽館の内部
玄関内側

レセプションとなりの階段

<きょうの工芸>
長楽館門脇にあった由緒ありそげな郵便受け。いつごろの時代のものなのか、確認はできませんでしたが。


<きょうのわたし>シンちゃんとお茶しているところ

長楽館門前で。手に持っているのが信三郎帆布のトートバッグです。

<きょうの出会い>
三条通りから三条アーケード街を抜けて、地図を見ると一澤帆布店が近くにあることに気づきました。京都の本店のほか、どこにも出店しないがんこな老舗。
少し前に先代が亡くなったあと、長男次男四男で相続争いがあったことで全国に知られるようになったのは皮肉です。先代は仕事をまかせていた次男に相続させるという遺言を残したのに、長男はそれよりも日付の新しい「長男にすべてをゆずる」という遺言書を裁判所に提出。裁判では後発のものが偽遺言であるという積極的な証明はできないとして、長男勝訴。しかし、長男のごり押しを嫌い職人たちが一切退職。その後、相続権を持つ次男嫁名義で出された裁判では次男側勝訴。現在は、本店が次男一澤信三郎店。別店が四男帆布カバン喜一澤。長男、株の一部相続はできたみたいですが、帆布鞄制作からは手を引きました。
三条駅から500mくらいのところにあるので、歩いていけると思いましたが、歩いていたら、八坂神社近くの長楽館で待ち合わせの約束した3時ぎりぎりになるかも、と予想して、タクシーで一澤帆布店へ。
個人タクシーでしたが、なんと、八坂神社まわりを行ったり来たり、かなりの遠回りをしてようやく店の前へ着きました。東京からきて、地理不案内と運転手に言ってしまったのがまずかった。三条駅から一澤帆布店へ行く500mほどのところにどれほど一方通行があるのか知らないけれど、いくら東京もんでも、八坂神社のまわりをぐるりと回れば遠回りしたことに気づく。
仕方ない、これも京都。京都でいやな人に会ったのは、この時だけ。あとはみな親切な人でしたのに。領収書は受け取ってあるから、個人タクシー名、ネットで公表してもいいんだけどね。長旅のなか、こんな負の出会いもありますよね。
<きょうの工芸>
一澤帆布店のトートバッグを買いました。丈夫で長持ちしそうな武骨なバッグです。一針一針、職人が縫う帆布のバッグ、ミシンなどを許可を得て撮影させてもらいました。
店内に展示されていた縫製機械

店内。写真撮影もネットUPもOK。やたらに老舗ぶって「店内写真禁止」なんていう服屋さんに比べて、とても感じがいい。こういうのが本当の老舗と思います。

2階店舗を見ていた私が足をひきずっているのに気づいた若い店員さんは、店の奥にあった業務用のエレベーターまで案内してくれて、階段でなく2階から降りることができました。感じのよい応対に、私には高いと思うけれどどうしようかなと迷っていた12000円の帆布トートバッグ、買いました。娘のおみやげ花柄のボストンバッグは、30000円。品切れなので、あとで郵送。クリスマス25日の朝、届きました。娘はブランド物を好まないので、若い人たちが欲しがるエルメスもルイヴィトンも手にしたことなかったけれど、このバッグは「ブランド」だけど気に入ってくれました。
トートバッグとボストンバッグ


<つづく>