三十三間堂千体仏
20180129
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九屋日記京都旅行2018(14)三十三間堂と並河靖之記念館
京都国立博物館の隣にある三十三間堂(蓮華王院本堂)。
蓮華王院は、平安末期の後白河法皇の寺。時の権力者平清盛が財力を駆使して建てました。しかし、1249年の火災で焼失、現存の本堂は、鎌倉期、後嵯峨天皇の時代になって1266年に再建されました。
<きょうの建物>
三十三間の長さがある本堂。
戦国の世も治まった桃山時代に豊臣秀吉は、建物の修理、土塀の築造などを行いました。
秀吉の土塀
<きょうの庭園>
三十三間堂の庭
<きょうの工芸>
本堂におわすは、鎌倉期の再建時に大仏師湛慶(たんけい)が、同族の弟子を率いて完成させた1001体の仏像。国宝手観音坐像と重要文化財千体の千手観音立像。
124体は、お堂が創建された平安期の尊像、その他が、鎌倉期に16年かけて再興された像です。千体のうち、500体には作者名が残され、それぞれの観音像の造り手が判明しています。
千体観音像の前に、観音二十八部衆に風神・雷神を加えた30体の等身大の像があります。
仏像の見方はそれぞれであり、「美」を鑑賞するもよし、ひたすら祈るもよし。
ただ、国立博物館を見学してのちの三十三間堂になったので、すでに観光客は押すな押すなの状態になっていて、ひとり静かに一体一体と向かい合うというひとときはもてませんでした。朝早く開寺と同時に入って、お参りすればよかったと後悔。「刀」は私の範囲ではなかったし、朝早く並んでお気に入りトウラブキャラとツーショット撮る予定もなかったのに、刀のほうに並んでしまった。
千体の観音様も、二十八部衆も、とてもよい仏さまでした。千体の仏像を彫り上げた500人の名前のわかっている仏師にも名前のわからない仏師にも、よいものを後世に残しましたね、とお礼をいい、観音様にはいつもの通り、家内安全国家安泰世界平和宇宙長久、、、、それにつけても金の欲しさよ、とお祈りしました。
<きょうの建物その2>
並河記念館付近の町屋
京都の町屋に出ている地名表記「東山区三条通北裏白川筋東入ル堀池町」
並河靖之記念館
玄関
庭から見た記念館
池の上に張り出した縁側
応接間(並河靖之の事績を紹介しています)
並河靖之(1845-1927なみかわやすゆき)は、明治時代を代表する工芸家。有線七宝の第一人者でした。無線七宝を得意とした濤川惣助(なみかわそうすけ)とともに、明治工芸をけん引しましたが、作品のほとんどは海外輸出むけで、私も濤川惣助の作品は、赤坂迎賓館の壁に飾られている額絵を見たのみ。並河靖之の作品は、庭園美術館で大規模な回顧展が開催されたおりに、たくさんの作品を見ることができました。
個人の自宅を記念館にした美術館がたいていそうであるように、並河記念館も、靖之が残した七宝作品の展示点数はごく少なく、しかも撮影厳禁。しかし、最盛期には40人もの職人が靖之の下絵をもとにして七宝を制作していたという工房をみることができたのでよかったです。
春庭が庭園美術館で並河靖之展を見たときのリポートはこちら
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/7e459b3be5cab55b4d0f2f3e574ce612
今回の並河靖之記念館の訪問目的は、作品の鑑賞ではなく、京の町屋の内部を見学できる、という点にありました。
見学コースの最後に、玄関からつづく台所の見学がありました。ほほう、京都の町屋の造りはこないなってまんねんな、と、見学させてもらいました。
並河靖之記念館内部
<きょうの庭園その2>
並河家庭園は、京都の多くの個人住宅庭園がそうであるように、七代目・小川治兵衛(植治)の作になる庭です。こじんまりとしていて、白川からひかれている水を生かした気持ちのよい庭園と思いました。
並河記念館の庭
<きょうのひとり散歩>
並河靖之記念館見学を終えて、この界隈を歩きました。白川の流れの岸辺には柳の並木。細くて人がひとりやっと通れる幅の一本橋。踏み外しそうだったから、私は「からとはな橋」を渡りました。漢字はたぶん「唐戸鼻橋」
この橋は、たぶん、梅宮橋
前回はタクシーを使ってぼられた一澤帆布鞄店へも、ひとりで歩いていけました。ほんとに近くでした。
<きょうの京ごはん>
並河記念館への橋を渡る手前にあったお寿司屋さんで寿司ランチ
<きょうの京わたし>並河靖之邸庭園で
<つづく>