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ぽかぽか春庭「龍谷大学、伝導院」

2019-01-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190119
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018(8)龍谷大学、伝導院

 11月1日の夜から、朋友ハンさんの家に滞在。
 「宿泊のお礼」は、10月28日夜に、「客員研究員をしている大学の紀要に提出するハンさん論文のネイティブチェックをしたこと」と、「長楽館でのアフタヌーンティ招待を宿泊代がわりにしてね」という、ずうずうしい押し掛け客です。

 ハンさんは「先生の娘では年齢が近くて申し訳ないですから、私は、姪のつもりです。姪の家に泊まるのに、おみやげなんていらないんです」と、歓迎してくれました。
 娘が手作りした皮細工の名刺入れなどをプレゼントしたら、とても喜んでくれたので、それが宿泊代、ということに。私の娘と息子は、1994年の夏休みに中国に滞在し、ハンさんに面倒を見てもらってハンさんを姉のように慕っていたのです。

 11月2日朝。ハンさん娘のシンちゃんは、国際交流協会の日本語教室へ。私とハンさんは、東西の本願寺へ。

 まず、訪れたのは龍谷大学。
 大谷大学は東本願寺が設立。龍谷大学は西本願寺が設立した大学です。龍谷大学には、明治期の擬洋風建築の学舎が残っているので、見たかったのです。

 擬洋風建築については、各地に残る建物を訪問してきました。明治初期、日本の大工さんたちが、西洋建築を目で見て、伝統的な大工の腕のみで「見た目洋館」を作り上げた美しい建物です。学校建築や病院、役所などが各地に残っています。

 龍谷大学大宮学舎もそのひとつ。木造で洋館風の二階建てを建て、木の壁に石を張り付けてあります。1879(明治12)年竣工。

 学舎の両側には校舎(北黌・南黌)、正門・旧守衛所が建築当時のまま残されていて、建築群として擬洋風が残ったのは、稀有な存在です。

<きょうの建物>
 龍谷大学大宮学舎正門


 旧守衛室(現大学オリジナルグッズ展示場)


 大宮学舎正面

 大宮学舎正面入り口。後方に見えるのは校舎(南黌)
 

 校舎(北黌)


 本願寺近くには、伊藤忠太がイスラム建築を模して作ったという「本願寺伝導院」があります。竣工1912(明治45)年。

 伊東忠太(1867-1954)は、日本語の中に「建築」ということばを取り入れた人であり、(それまではアーキテクトの訳語は「造家」とされていた)建築を西洋のモノマネではなく、「日本の建築」として確立しようとした人です。
 戦災などにより失われた伊東作品もある中、戦災を受けなかった京都には、伊東の作品が残りました。その中のひとつが、旧・真宗信徒生命保険株式会社本社屋。
 1973(昭和48)年からは「本願寺伝道院」となり,本願寺派の布教・学問所として使われています。

 トルコに留学した経験も持つ伊東に、真宗信徒生命保険株式会社本社屋を伊東に発注したのは、西本願寺第二十二世法主・大谷光瑞(1876-1948)。大谷探検隊を率いて西域踏査などを行った人です。
 伊東のイメージの中には、大谷光瑞が探検した西域、伊東自身の留学地であったトルコのモスクがあったのでしょう。

 外観は、ヴィクトリア朝風(アン女王様式)の赤レンガに白い石の横縞模様。細部にサラセン(イスラム教徒の建築様式)やインド風の意匠が取り入れられています。
 伝導院の屋根のドームは、建築当初は京都の人たちをびっくりさせたことでしょう。今も、周囲の町屋からみると異質な建物ですが、なぜか京都には、近代建築も似合うのです。南禅寺境内の水路閣も、お寺の境内の中に溶け込んでいました。
 
<きょうの建物>
 塔が見える伝導院南側


 本願寺側(北側?)正面のドーム

 ドームのある正面


 ドーム屋根は高いところから撮らないとうつらないので、借り物画像で


<きょうの工芸>
 伊藤忠太の動物たち
 車止め忠太動物(改装後はレプリカを展示しているということでしたが、石の色から見て、オリジナルとレプリカが混ぜて展示してあるのかもしれません。)




<きょうの京わたし>
 伝導院南側で


 京の大工たちが見様見真似で作り上げた擬洋風建築の大宮学舎、西洋建築の技術の中に日本的な建築を模索した伊藤忠太。明治と言う時代の中で、建築に携わる中で「近代」と格闘した熱い思いが伝わってくるように感じました。

<つづく>
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